page6「コーヒー」


   〇


扉が閉まった後もしばらく依頼人が消えた空間を見つめていた愛流だが「よし」と言って勢いよく立ち上がる。

「まずは、その美術部を訊ねることにするか。陽子ちゃんも、それ飲んじゃい――」

 そこで愛流の動きが停まった。口を開け、陽子の手元にあるコーヒーカップを見つめている。

「――いやいや、陽子ちゃん、そんな見栄をはらなくてもいいよ」

 愛流が苦笑いを浮かべながらハエを払うように手を振った。しかし陽子は何も答えない。

 何と言われたのか、理解できなかったのだ。そのせいで困っている。

「えっと、すみません。見栄って――」

「その手に持っている液体だよ」

 愛流がコーヒーカップを指さしてくる。それでも陽子は首を傾げるばかりだ。

「あの、どういうことですか?」

「いやいや、ブラックコーヒーなんて、本当は好きじゃないでしょ」

「え? いや、好きですけれど」

「またまた、俺より年下で、しかも助手になるっていうのに、そんなただ苦いだけのもの、好きなんてあるわけないじゃん」

 馬鹿にしたような愛流の口調に、陽子はむっと苛立つ。

「いいえ、本当に好きです。むしろブラックが一番好きなくらいです」

「――マジ?」

 愛流が呆気にとられたような表情を浮かべた。

 陽子は最初こそその変化をどう受け止めていいかわからなかった。しかし愛流の表情とカウンターの奥で茂が笑いをこらえている姿を見て、ようやくその意味を理解する。

「もしかして愛流さん、コーヒー嫌いなんですか?」

 陽子がそう訊ねた途端、愛流がそっぽを向いた。苦虫を噛み潰したような表情をし、木製の壁を見つめる。

 その反応だけで十分だった。

 今になって陽子がコーヒーを飲んでいることに気が付いたのは、依頼内容を聞いている時、こちらを見ようとしなかったからだろう。神野と米田もコーヒーを飲んでいたのだ。陽子の飲むものから放たれる香りも、それに紛れて愛流に存在をアピールできなかったに違いない。

 突然、陽子の中に優越感にも似た思いが膨れ上がってきた。

そっぽを向く愛流の顔を下から覗き込むように見上げ、勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべる。

「コーヒー飲めないなんて、案外愛流さんもお子様なんですね」

 口に出した後に、ずいぶんと嫌みな言い方だったろうかと陽子は後悔する。しかし、その思いはすぐに吹き飛ぶこととなった。

 愛流が口元を痙攣させ、陽子を睨む。

「そんなこと言ってるけど、陽子ちゃん将来的に禿げること確定してるけどいいの?」

「は?」

 突然の暴言に、陽子は顔をしかめた。しかし頭に血が上った愛流は言葉を止めず、目に力を入れて口を動かす。

「知らないの? コーヒーって飲み過ぎると薄毛の原因になるんだよ。つまり陽子ちゃんは、このままコーヒー飲み続けると、髪の毛薄々で頭皮丸見えになるってわけ」

「女子に向かって、なんてこと言うんですか! セクハラですよ」

 陽子も負けじと声を張り上げて反論した。同時にそんな自分に驚く。

 いつもならこのような酷い言われ方をされても、黙って我慢しているはずだ。言葉を返すと、それが何倍にもなって戻ってきそうな気がするからだ。

しかしなぜだろう。一度出会っているならまだしも、陽子は今日会ったばかりの男に対し、そのような恐れを感じなかった。むしろ対抗心すら燃やしている。

陽子は膝に置いていたエプロンを椅子の上に移動させると立ち上がり、愛流に詰め寄った。

「そういう愛流さんこそ、コーヒーには興奮作用があること知らないんですか? つまりやる気を起こさせるには、コーヒーがいいってわけです」

「あくまで一時的なものだけどね。切れれば倦怠感に襲われる。脳の活性化に必要なのは、ビタミンCだよ! 陽子ちゃんにはどうやら、レモン十個を丸かじりするぐらい必要みたいだけど」

「それ、どういうことですか?」

 徐々に陽子の声が大きくなる。愛流も金色の前髪を揺らし、陽子を見下ろしていた。

 その時、チリンという鈴の音がまた鳴り響いた。

 反射的に陽子と愛流は、鋭い目つきのまま、扉の方向に目をやる。

 若い男が、呆けたような顔をしながら扉の前で立っていた。

 スラリとした高い身長に、痩せた体型。黒いナチュラルヘアの下には垂れた目があり、やや気弱そうな印象を受ける。紺色のデニムシャツに白いコーデュロイパンツ、足元には黒いスニーカーを履いていた。

 陽子はその顔に見覚えがあった。三日ほど前から、この時間帯にやってくるようになった客だ。

「す、すみません。お邪魔、でしたね」

 男は困惑した表情のまま扉の向こうに消えようとする。しかし茂が自らカウンターに出てきて「いやいや、そんなことないですよ」と引き留めた。

「いらっしゃいませ。今日も来てくれたんですね」

「はい。このお店の雰囲気好きなんで。でも、本当にいいんですか? お邪魔じゃありません?」

 男が店の中央にいる愛流と陽子を覗き込む。とてもケンカを続けられる雰囲気ではなくなってしまったので、二人は茂の対応を見守るしかなかった。

「あぁ、大丈夫。この二人はもうすぐ出ますから。ね?」

 茂が振り返る。いつの間にかその手にはフルフェイスのヘルメットが握られていた。愛流が持っていたものとは違い、こちらは色が黒い。それを半ば強引に息子に持たせる。

茂は笑みこそ浮かべているものの、有無を言わさぬ威圧感を放っていた。今すぐ出て行けと思っているのは間違いない。

「――さぁ、陽子ちゃん。俺達は仕事に行こうか」

 愛流は片手でヘルメットを持ち直すと、陽子の腕をつかんで逃げるように歩き出す。

 男性に急に触れられたことで、陽子はケンカしていたことも忘れ、ドキッと心臓が大きく動いたのを感じた。しかし愛流がそのことに気付いた様子はなく、陽子の腕を引っ張りながら、扉の前から動いた客の男に会釈をし、店の外へと出た。そのまま裏手にある駐車スペースへと向かう。門の向こう側には、いつもはないはずのバイクが置かれていた。愛流が相棒と呼んでいたバイクだ。サイドバックを外したからか、先ほどよりも小柄な印象を受ける

 駅前で鳥の糞を落とされていた記憶が蘇った。しかし愛流は拭いていたし、何より自分が座るのは後ろのタンデムシートであるはずだから、落ちた部分に触れることはない。

 問題は、その座り方にあった。

「私、バイクに乗ったことないんですけど、大丈夫なんでしょうか?」

 愛流からヘルメットを受け取りながら陽子は訊いた。愛流はリアボックスを開き、中から自分の赤いヘルメットを取りだす。そして振り返り、口角を吊り上げて見せた。

「なに、車の助手席に座っているのと一緒だよ。違いがあるとすれば、車体によって覆われていないことぐらいかな」

「それが一番不安な点なんですけど」

 陽子はため息を吐き、それから深呼吸をする。その間に覚悟を決めてヘルメットを被り、あごひもを締めようとした。しかし見えないからか、上手くバックルにはまらない。

「貸して」

 愛流が近づき、陽子のヘルメットのあごひもを持った。すぐにガチガチと金具がバックルに入っていく音がし、愛流が離れた。何でも親にやってもらう子供のようだと思い、陽子はちょっとした情けなさを覚える。

「あ!」

 突然あることを思い出し、陽子の口から声が漏れた。愛流が首を傾げ「どうかした?」と訊ねてくる。

「いえ、あの、コーヒー飲み忘れたと思って――」

 言いながら陽子はそのことで声を上げたのが今さらになって恥ずかしくなってきた。案の定、愛流はすぐに関心を失ったらしく「そのことか」とため息を吐いた。

「まぁ親父が片付けてくれるだろうし、あんま気にしなくてもいいでしょ」

「いや、それもありますけど、結局あまり飲めていなかったので、もったいないというかマスターに申し訳ないなって」

 陽子の声がしぼむかのように徐々に小さくなっていく。対して愛流は怪訝な表情で自分のヘルメットを持っていた。

「陽子ちゃん。君ってもしかして、いい子なの?」

「え?」

 急に何を言われたかわからず、陽子は聞き返した。狭くなった視界の中で、愛流がヘルメットを被る。

「いや、そういうの気にするのって、真面目って言うか、いわゆる根がいい子なのかなって思って」

「あの、それって褒めてくれてるんですよね?」

 いい子を誉め言葉ではなく、皮肉で言う人間が多くいることを、陽子は知っている。故に愛流の言葉を、ストレートに受け止めることができなかった。

 しかしそれは陽子の杞憂だったらしい。愛流は「もちろん」と大きく頷いた。

「それはそれとして、気になることがあるんだけど」

 そう言って愛流が近づいてきた。かと思うと陽子のヘルメットの顎部分に指をあて、顔を上げさせる。

 陽子は突然のこの状況にドキッとした。まるでこれからキスするかのような角度だ。

 ふいに陽子の脳裏に、昔の記憶が蘇る。顔はハッキリ思い出せないが、ずっと頭の片隅に残り続けている、ある人物の影――

 だが、その影は頭皮が動く感覚と共に消え去った。愛流がヘルメットを上にずらしたのだ。おかげで陽子の視界の下半分が黒に覆われる。

「陽子ちゃんのこの傷、どうしたの?」

 愛流の指がヘルメットの中に入り込み、陽子の額に触れた。すぐに眉尻付近にある傷痕を指していることがわかった。

「あぁ、そ、そのことですか――」

 しどろもどろに陽子は言う。心臓はまだバクバクと動いており、鼓動の音をうるさく感じた。

 陽子は一度、息を深く吸い込んだ。気付かれてないか愛流の顔をチラチラと確認しながら、ヘルメットの中で吐き出す。

「七歳の時、自転車で転んだんですよ。河原の坂道をブレーキもせずに下って。結構深いケガで、未だに傷痕が残っちゃってるんです」

「へぇ、バカなことをしたね」

 言葉通り愛流がバカにしたような笑い声を出す。その態度に陽子は先ほどと同じく怒りそうになるも、時間を食うだけだと判断し「子供の頃は大体そういうもんでしょ」と唇を尖らせて文句を言うだけに留める。

「あんまり覚えてないですけど、傷痕を消す治療も紹介されたらしいんですよね。でもその時の私、傷痕ができてカッコイイって言って聞かなかったらしくて」

「陽子ちゃん、結構男っぽい性格だったんだね。そういえば、今日の恰好もボーイッシュな感じだし、そういう服装多いの?」

「んー、まぁ、確かにスカートよりはパンツスタイルの方が好きですね。動きやすいですし」

「そっか――あのさぁ」

 急に愛流の態度が一変した。先ほどまでの軽薄な感じや、神野から話を聞いている時とも違う。どこか恥ずかしそうに、首元を掻いていた。

 不思議に感じた陽子は「どうしたんですか?」と言葉の続きを促す。

「その傷、邪魔だって思ったことはないの?」

 少し迷った素振りを見せた後、愛流は意を決したかのように切り出した。しかし陽子は何を言われたのかわからず「え?」と言って首を傾げるしかない。

どういうことなのかと、自分で考えてみる。少しして陽子は愛流の意図を察し、納得して何度も頷いた。

「女子だし顔に傷痕残っているの気になるかどうかとか、そういうことですか?」

「あぁ、まぁ、そんなとこ」

 愛流の言葉は何とも歯切れが悪い。陽子はそう感じるも、それだけだった。愛流の反応をあまり気にすることもなく答える。

「まぁ確かに、気にはなりますよ。でも邪魔とまでは思ったことはないですね。今じゃあもう見慣れていますし、それにさっきも言いましたけど、子供の頃からあまり嫌だとは感じていなかったんで」

 陽子の言葉に嘘はなかった。

 私生活に初めて来た時は、アルバイトの面接が落ち続けたのはこの傷が良い印象を与えなかったからかもしれないと思い、化粧で隠そうとはした。しかしわざわざ再治療を受けてまで消そうとは思わない。

 妙な話かもしれないとは思いつつ、陽子は額にある傷痕に、今も昔も変わらない愛着を抱いていた。

 そのことを、陽子は少し照れ臭く思いながらも語った。その間、愛流は黙って聞いている。その目は真剣そのもので、相手を茶化したりするような様子は見られない。

 沈黙が二人の間に流れる。陽子は空気が重くなったような気がした。

「さぁ、それより、北東学園大学に向かいましょう」

 陽子は話を締めるように両手を叩くと、バイクへと向かった。

 愛流の表情は、フルフェイスのヘルメットのせいで大半はうかがい知れない。しかしその中から「そうだね」と言ったかと思うと身を翻し、バイクに跨った。


                                   (続)

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