page4「その男、愛流」


   〇


 私生活には、駅から走って十分ほどで到着した。

 陽子は肩で息をし、膝に手を突く。気温は低いはずなのに、今は汗をかいてもおかしくないほど暑く感じた。

 ――さっきのは何だったのだろう。

 そう思いながら腕時計に目をやる。針は午前十時を指していた。

 始業時間ギリギリだ。陽子は気持ちが暗いまま、店のドアを開く。

「いらっしゃい――おや、陽子ちゃん」

 茂が驚いた顔をしてこちらを見る。ゆでたまごを作っているらしく、店内には硫黄臭が漂っていた。しかし開店したばかりということもあってか、まだ席には誰も座ってはいない。

「ごめんなさい。遅れてしまいました」

 陽子は入り口のドアを閉めると、すぐに頭を下げた。茂の「いや、いいんだよ」という優しい声を聞き、顔を上げる。

「だけど珍しいね。いつもならもっと早く来ているのに。何かあったのかい?」

 茂の声音からは、陽子のことを心配する気配を感じ取れる。それが陽子にはとてもありがたく思えた。

「実は、電車から降りた時にナンパされてしまって」

 陽子はカウンターの中を通り抜けて、奥へと向かう。キッチンスペースを出たところに、木製の長テーブルと二脚のイスが設置されていた。

 従業員用のスペースだ。カウンターの他に、観葉植物を設置して、客が利用する空間とを分けている。

「ほう、珍しいね。夢見市でナンパなんて、あまり聞いたことないけど」

 茂は心底意外そうに言った。その驚いた表情からは、陽子の発言を疑っている様子は見られない。

 陽子は一脚の椅子にリュックサックを置き、中からエプロンを取りだした。首元に巻いていたマフラーを、テーブルの上に置く。

「私も驚きましたよ。まぁその時、若い男の人が助けてくれたんですけどね。今度はその人に少し話そうって誘われてしまって」

「ナンパを助けた若者が、今度はする側に回ったってわけか。にしても陽子ちゃん、もてるね」

「からかわないでください。本当に恐かったんですから」

 陽子は子供っぽいと思いながらも頬を膨らませつつ、エプロンを首から掛けると、腰のところで紐を結んだ。

 茂は「ごめん、ごめん」と軽い口調で謝る。

「しかしなるほど、それでいつもより遅くなったってわけだね」

「ええ。といってもその人は、まだ優しい方でしたけどね。私が時間を気にしているのを知って、行かせてくれたんです。まぁ、自分のバイクに鳥の糞がついたので、そのショックのせいでナンパどころじゃなくなったといったところでしょうけど」

 陽子はふと、先ほどの青年の顔を思い浮かべた。

 ナンパをしているので、紳士的とは言えないだろうが、それでも先の二人とは違って、こちらを気に掛ける様子はあった。悪い男でないのは、間違いないだろう。

「お礼として、連絡先ぐらい交換すれば良かったかな」

「連絡先?」

茂が首を傾げた。陽子は独り言を聞かれ、反応されたことに恥ずかしさを覚えるも、カウンターに向かう。

「別れ際、その人に連絡先の交換を持ち掛けられたんです。その時は聞こえなかった振りをして行っちゃったんですけど、助けてくれたのに失礼な態度だったのかなって」

「まぁ、そこまで気にする必要はないだろう」

 茂は片手鍋の火を止めると、取っ手のあるざるを左手に持ち、流し台の前に立った。そしてざるの中に鍋のお湯を流しいれていく。

ゆでたまごが十個ほど、ざるに入っていった。

 流し台の側には、氷水を入れたボウルが置かれている。茂はその中にゆでたまごを移した。

水はボウルから溢れ出してもおかしくないほどかさましされた。

「ナンパされたのが嫌だったとわかっていて、同じ行動をしたんだ。僕はその若者が、いささか無神経だったと思うね」

「そう、ですかね」

「そうだよ。にしてもその青年、どこか息子を思い出させるね」

「え、息子さんですか?」

「そう。あ、そういえば陽子ちゃんには、まだ息子のことを話していなかったね」

 陽子は大きく首を縦に振った。

 驚きはしたが、思えば茂の妻の話を聞いて以降、彼の家族について訊ねたことはなかった。また暗い話を引き出させてしまうかもしれないという恐れがあったからだろう。

娘の里奈にしても、刑事という職業故なのか、店内で顔を合わせるのは彼女が当直で帰ってきた時ぐらいだ。話をする機会は少ない。

「息子は今、バイクで日本一周を目指す旅をしているところでね。まぁ海外に行くことも多いし、旅そのものを愛しているんだけど。その若者と同じで女好きだし、バイクを汚されると子供みたいに動揺するんだ」

「なるほど。確かに似ていますね。その人も『俺の相棒が!』って叫んでいましたもん」

 冷蔵庫の在庫を確認しながら、陽子は吹き出してしまう。しかし茂からの反応は返ってこない。

 どうしたのだろうかと、陽子は冷蔵庫の扉を閉じて横を見た。茂は何か考え込むように視線を天井に向け、指を唇にあてていた。

「ちなみになんだけど、その若者って、他に特徴はなかった?」

「他ですか? えっと、髪は金髪で立たせていて、顔は、まぁイケメンでしたね。後、声のトーンはやや高めで、ライダースジャケットを着ていて――」

 陽子が思い出せる範囲で特徴と言えるものを上げていっている時、店内に入店を知らせる鈴の音が鳴り響いた。

「いらっしゃいませ――」

 陽子は入ってきた客の姿を見て、しぼむように声を小さくしていった。

 たった今、特徴を述べていた――先ほど陽子を助けた青年がそこにいた。バイクに取り付けていたサイドバッグを両手に持ち、扉の前に立っている。

 青年もこちらに気付いたらしい。陽子がいるカウンターに目を向けながら、驚いたように口を開けた。

「さっきの子じゃん! え、何でここにいるの?」

「あ、いえ、たまたまこのお店に来ていまして」

「へぇ、たまたま来店して、たまたまエプロン着けて、たまたまカウンターの内側に立っているってわけか」

 青年がニヤニヤと笑いながら目を上から下まで動かしている。陽子は自分の嘘の下手さ加減に嫌気がさした。

 助け船を求め、反射的に陽子は茂の顔を見る。店長はなぜか、打ちひしがれてでもいるかのように、手を額に当てて床を見つめていた。その喉からは、今にも唸り声が聞こえてきそうだった。

「こちらは、アルバイトに来てくれている伊勢陽子ちゃんだ」

「アルバイト? へぇ、親父もそろそろ根をあげるかなとは思ってたけど、ついに雇うことにしたんだ」

言いながら青年はキッチンに入り、「STAFF ONLY」と書かれたドアを開けた。

喫茶私生活は店であり、同時に茂の家でもある。元々は二階建ての一軒家だったらしいが、店を開くに辺り、四年前にリファームを行った。

「STAFF ONLY」と書かれてこそいるが、正確には生活スペースを分け隔てている扉、つまり玄関である。間取りとしては靴脱ぎ場と階段が直結しており、二階に台所やリビングといった居住空間が揃っている仕様だ。だから里奈も帰ってきたらすぐこの扉を開けて中に入る。

階段をドタドタと上る音が聞こえたかと思うとすぐに下る音がして、三十秒もしないうちに青年が現れた。サイドバックはもう手元になく、背負っていたリュックサックも消えていた。どうやら二階に置いてきたらしい。

――そんなことよりも!

陽子は彼の口から信じられない言葉が出てきたことで、思わず茂と青年を見比べてしまう。

「あの、今、親父って――」

「すまない。この男は、さっき言っていた僕の息子で――」

「あいる。愛する流れって書いて、愛流っていうのさ」

 愛流と名乗る青年は歩きながらピースサインを作ると、指を曲げてウインクする。そしてすぐに店を出て、今度はリアボックスを軽々と持ち、再び生活スペースへと消えていった。

 もはや陽子は唖然とするほかなかった。

 たまたまさっきお茶に誘われた男が、アルバイト先の店長の息子だった。そのような偶然が果たしてあって良いものだろうか。

 何よりもその息子の誘いを断ったと、父親に話したばかりだ。

 陽子は体内の血液が一気に冷める感覚を味わいながら、茂に頭を下げた。

「マスター、あの、ごめんなさい。私、息子さんのこと――」

「いや、陽子ちゃんは謝ることないよ。むしろ、謝るべきは愛流だ」

 茂がため息を吐きながら、冷ややかな目で扉を見た。まるで狙ったかのようなタイミングで愛流がリアボックスを持ちながら出てくる。箱の中身だけ置いてきたのだろう。そしてどこ吹く風と言わんばかりに、自分の肩を揉んだ。

「愛流、陽子ちゃんから話は聞いた。困っているところを助けたのは良いが、その後で君もナンパしていたら、意味がないだろ」

「だってさ、魅力的な女の子が目の前にいたんだよ。声かけとかなきゃ、絶対後悔するって」

 茂が口を開けずに項垂れる声が、陽子の耳に届いた。その姿だけで、茂が息子に苦労しているであろうことは、想像に難くない。

「相変わらず洞察力はあるのに、人の心を察するのが苦手だな。陽子ちゃんは、見知らぬ男に声をかけられて、恐い思いをしたばかりなんだぞ。その後で愛流がナンパしてどうするんだ」

「失礼な。俺だって少しは成長してるんだぜ。その証拠に、ほら、陽子ちゃんが焦っているみたいだって言うのは、気付いただろ」

 愛流が自らの腕時計を指さしながら言った。確かに間違ってはいないのだが、陽子はどこかずれている気がしてならなかった。

 茂が陽子の方に向き直り「本当に、息子が迷惑をかけた」と謝る。そして腕を伸ばして愛流の頭をつかみ、カウンターに額をぶつけそうなほど無理矢理頭を下げさせた。

「い、いえ、私は、もう大丈夫なんで」

 陽子はそれだけ言うのが精いっぱいだった。他の言葉は思い浮かばないし、二人のやり取りを見ていると、愛流に抱いていた不満も不思議と心から影を薄めていた。

「それで、今回はまたどうして帰って来たんだ。旅立って二か月で戻ってくるなんて、いつもの君にしちゃあ、ずいぶんと早いじゃないか」

 茂は顔を上げ、横目で息子に訊ねた。愛流はニヤリと笑い、父親を指さす。

「仕事だよ。もうすぐ依頼人がここに来るから、見えたら、あぁ、コーヒーの準備をお願い。わかってるとは思うけど、俺はホットのレモネード――いや、レモンスカッシュで」

 そう言って愛流はまた店を出る。リアボックスを取り付けに行ったのだろうと陽子は想像し、随分と忙しなく動くと思った。

「そういうことは早く言っておいてくれ」

 茂は首を横に振るも、冷蔵庫からスポイトボトルを取りだし、レモンの果汁とシロップを混ぜた液体をグラスに少量入れる。陽子はその様を見ながら、茂に近づいた。

「あの、依頼人って言ってましたけど、愛流さんのお仕事って――」

「ああ、愛流はね、こう見えて私立探偵なんだよ」

「私立探偵、ですか? それって浮気調査とか、人探しの」

「まぁ、基本的にはね。たまに事件に巻き込まれて、解決したりもしているよ」

 いつの間にか隣に愛流が立っていた。陽子は驚き肩を飛び上がらせるが、何とか声を上げずに我慢する。

 その時、茂が「あっ、そうだ」と顔を上げる。グラスにソーダ水と氷を入れ、さくらんぼを添えたレモンスカッシュを愛流のテーブルに持って行くと、陽子を指さした。

「愛流、今回の依頼がどのようなものかは知らないが、陽子ちゃんを連れて行きなさい」

「は?」

 愛流と陽子が、ほぼ同時に言葉を発した。

 席に着く愛流は、ポカンと口を開けて茂を見ている。陽子もまた、同じような表情をしていた。

「あの、マスター、どういうことですか?」

「親父、何勝手に決めてるんだよ」

 店内に陽子と愛流の戸惑う声が交差する。しかし茂はその言葉たちを無視し、陽子を見つめた。

「ほら、面接の時、陽子ちゃんも気になっていただろう。業務内容にあるその他とは何なのか」

「ええ、それは、まぁ――」

「それがこれ、つまり愛流が探偵活動を行う時、助手として同行するというものさ」

 茂の言葉を聞いても、陽子はフリーズしたかのように固まる他なかった。突然のことで思考が追い付けない。

「いや親父、俺に話もしないで、何を――」

「いいじゃないか。お前だって可愛い女の子と一緒に仕事できて、悪い気はしないはずだし、陽子ちゃんは日常生活では味わえないような経験をできる。まさにウィンウィンというやつだろ?」

「どこがウィンウィンなんですか」

 混乱する中、陽子は何とかその一言を吐き出した。

「そもそも、私のウィンって、すごく曖昧じゃ――」

「あっ、ちなみに探偵業務を行っている間は時給が今の倍になる。これが一応特別手当になるわけだけど、どうかな?」

 そう言われて、陽子は黙ってしまった。

 時給が二倍になるという話は魅力的だ。探偵の助手が具体的に何をする役割なのかはわからないが、アルバイトの範囲であるなら、そう大したことはないのではないか。

しかしはっと我に返った陽子は、今の煩悩を追い出すように首を横に振ると、カウンターを出て茂の前に立つ。

「そういう問題じゃなくて。というか、この話自体、事前に言っとかないとダメなやつじゃないですか」

 陽子の抗議の声は、あまり茂の心には響かなかったらしい。この店のマスターは、肩をすくめるだけだった。

「愛流がいつ戻って来るかはわからなかったからね。本人がいる時に話すのが、一番スムーズだと思ったんだ。愛流本人にも話すことができるし」

「だから、そういうのはまず俺を通して――」

 愛流の言葉の途中で、店内に鈴の音が鳴り響く。皆がほとんど同時に、入り口に目をやった。


                                   (続)

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