page3「ナンパ」
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それから二週間が経過した。朝起きて軽く化粧をし、七女市駅から夢見市駅に向かう電車に乗り込む。平日の九時二十分を過ぎた各停電車は、空席が目立つほど空いていた。
今日の陽子は、面接の時のスーツとは違い、黒のリュックサックを背負っている。ベージュのチノパンに、黒のスニーカー、上は緑のトレーナーという、ラフな服装だった。眉尻の側にある傷も、今日は隠していない。
面接時の服装との唯一の共通点は、首に巻いたマフラーだった。まだ寒い日が続く。街中でもダウンジャケットやコートを着ている人を何人も見かけた。陽子としては、まだこのマフラーを身に着けられる寒さが、何よりもありがたかった。
私生活に制服はない。露出度が高かったり、動きにくい恰好でなければ、どのような服装や髪色でも自由だった。ただ黒のエプロンは支給されているので、それを身に着けて業務にあたることになる。
――大学に通い始めたら、いつもこれぐらい空いているといいんだけどな。
電車のシートに座り、リュックサックを膝の上に置くと、陽子は周囲を見回した。
陽子が入学する予定の私立北東学園大学は、アルバイト先と同じく夢見市内にあった。駅に着いたらそこから大学行のバスに乗り換えなければならない。
待ち受ける大学生活を、陽子は楽しみにしつつも、馴染めるかどうかという若干の恐れを抱いていた。
新しい環境が待ち構えている時は、いつも緊張した。大丈夫だと自分に言い聞かせ、ポジティブにとらえることができれば良いのだが、そうした意識を継続させることは難しい。人間関係が上手くいかなかったらどうしよう、単位が取れなくて留年してしまったらどうしよう、といった不安がどうしても頭に浮かんでしまう。
そのような不安を消したいと思い、陽子は業務内容に関することを思い浮かべるようにした。
面接時に茂が言った通り、主には私生活のホールスタッフとして働いていた。店主が淹れたコーヒーや作ったサンドイッチなどを来店した客に届ける。元々一人で回していたということもあって席数も少なく、穏やかな客も多いので、陽子としては必要以上に焦らず働くことができた。
その他にも、先週の金曜日からコーヒーの淹れ方や、カフェオレの作り方を徐々に学び始めていた。陽子としても見ていて楽しく、日常生活でも作れるのではないかと思うと、心が弾んだ。
また、茂の妻と思われる人物を見かけないことが気になり、一度聞いたことがある。茂の妻は二十年以上も前に、銀行強盗事件に巻き込まれ、既に死亡していた。
陽子はその時、知らなかったこととはいえ、訊ねたことを謝った。茂は気にしていない素振りを見せたが、その曇った顔は、今でも陽子の後悔と共に心に残っている。
などと考えていると、まもなく夢見市駅に到着するというアナウンスが流れた。
もうそのような時間かと驚きつつ、陽子は立ち上がってリュックサックを背負い直した。
電車を降り、ホームに降り立った。階段を下りて改札を抜けると、目の前にはエスカレーターがある。陽子はそれに乗って下り、左に曲がると、バスのロータリーが現れた。
円を描くように歩道は造られており、その側をバスや自動車が停まったり走り出したりと、忙しなく動いていた。バスを待っているのか、ロータリーは老若男女問わず人が多く立っており、ある者はスマートフォンの画面を眺め、またある者は隣の人間と会話をしていた。
そのような光景を視界にとらえながら、陽子は真っ直ぐに歩く。
私生活には、バスに乗って行く方が断然早い。しかし十五分程度なら歩ける距離だ。バス代を消費するほどのことではないと思い、いつも電車から降りたら歩いていた。
今日もいつもと同じ。そう思っていたが、例外というものは突然やってくる。
「ちょっと待ってよ、お姉さん」
肩を叩かれ、反射的に陽子は振り返った。
若い男が二人、ニヤニヤと歯を見せてこちらに笑いかけていた。
一人は鷲の刺繍が入ったスカジャンを羽織り、もう一人は肩にまでかかりそうな髪を後ろで束ねている。どちらも日焼けしており、耳だけでなく唇にもピアスをつけていた。
「うわヤバ、お姉さん超可愛いじゃん」
「近くのカラオケで俺らと遊ぼうよ。お金なら大丈夫、おごるよ」
二人の男が一歩二歩と距離を詰めてくる。陽子は後ずさりしながら、なるべく男たちと目を合わさないよう、下を向いた。
ナンパをされるのは初めてだった。相手から声をかけられることを、陽子はうらやましいと思ったこともある。可愛い、キレイと、認められているからだ。しかし今のこの状況では、そんな自分がいかに世間知らずだったのだろうかと、呆れる他ない。
この場から離れなければ、男たちに無理矢理連れて行かれるのはわかっている。しかしどのように抜け出せばいいかわからず、陽子は立ち尽くす他なかった。
「ほら、行こうぜ」
歩道だけを映す視界に、男のスカジャンで覆われた腕が現れた。もう駄目だと、陽子は強く目をつぶる。
しかしいくら待っても腕をつかまれた感覚はやってこなかった。恐る恐る陽子は目を開いて、顔を上げる。
スカジャンを着た男の手首を、別の腕がつかんでいた。
救ってくれたのは、日焼けした男二人組とは正反対の、白い肌をした青年だった。
髪は淡い金色に染まり、立たせた前髪は中心で左右にわかれつつも、内側にカールするよう曲げられている。ジーンズと白のTシャツを着、その上に黒のライダースジャケットを羽織っていた。背中にはスポーツタイプのリュックサックを背負っていた。
「強引に連れて行こうとするなんて、紳士的とは言えないな」
トーンの高い声が、青年の口から流れ出た。ハムスターを思わせる大きな目は真っ直ぐ男たちを捉え、口元には挑発するかのように、不敵な笑みを浮かべている。
「なんだ、てめぇ」
スカジャンの男が声を低くして睨む。髪の長い男も、脅しつけるかのように指の関節を鳴らした。しかし青年に怯んだ様子はなく、世間話でもするかのような調子で周囲を見回した。
「あまりここでケンカするような真似はしない方がいいと思うよ。交番はすぐ近くだし、何より人が多い。もしかしたらこの場面を、誰かが動画に撮ってSNSとかに載せてるかも。それこそ、さっきこの子の肩を叩いたところから」
陽子は釣られるような形でバスロータリーを見回した。青年の言う通り、何人かが好機の視線でこちらを見ているのがわかった。スマートフォンを手に持っている者もおり、撮影している人間がいたとしてもおかしくはない。
その言葉は男たちにも効果的だったらしく、スカジャン男の頬が引きつった。青年の手を振り払うと、連れの男と一緒に足早に駅の方向へと去って行く。
ため息を吐く音が、陽子の耳に届いた。青年は振り返ると、陽子の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だった?」
青年が陽子を見下ろして訊ねてくる。先ほどの挑むような笑みは、口元にまだ貼りついていた。
改めて見ると、青年は端正な顔つきだった。逆三角形の輪郭に、鼻筋は通っている。白い肌も相まって、どこかの男性アイドルグループに所属していると言われても、信じるかもしれない。
「は、はい、あの、ありがとう、ございました」
青年の顔に見とれていた陽子は、やや間を空けて頭を下げる。動揺のせいで声が裏返り、頬が熱くなった。
「いいよ。困っていたみたいだし」
青年は笑いながら、ハエを追い払うように手を振った。
「でもあいつら、一個だけ褒められる点があったよね」
「褒める、ですか?」
陽子は首を傾げた。ナンパされ、恐い思いをした陽子としては、そのような点があるとは思えない。
「そう。それは、女の子を見る目があるっていう点」
「はぁ」
「つまり、君がナンパされてもおかしくない、可愛い女の子ってことだよ」
陽子は何度も瞬きをした。話の流れがおかしくなってきたように感じるのは、気のせいではないはずだ。
「あの、言っていることがよく――」
「まぁ要するにさ、君と少し話がしたいってわけ」
陽子はあんぐりと口を開けてしまう。塞ぎ方を忘れてしまい、顎を動かすことができない。
青年をカッコいいと思った自分がバカみたいだった。
助けてくれたことには感謝する。だからと言って、たった今陽子がされたナンパを平然とやってのけるのは、いかがなものだろう。
「いい喫茶店を知ってるんだよ。ここから少し離れているからさ、良かったら俺のバイクで――」
言いながら青年は後ろを振り返る。呆然としながらも、陽子は青年の視線を追った。
陽子達が立っている場所から少し離れた歩道の端に、一台のバイクが停まっている。丸いライトの下部分は鳥のくちばしのように尖っており、全体的には黒を基調としつつも、その尖った先端部分だけ赤いラインが描かれていた。ハンドル部分には赤いオフロードタイプのヘルメットが置かれている。後部にはリアボックス、そしてサイドバッグがそれぞれ取り付けられていた。
そのバイクを見て、陽子はカッコいいと思った。しかしその感想は、前に立つ青年の突然の叫び声でかき消されてしまう。
「俺の相棒が!」
青年は慌ててバイクに駆け寄り、シート部分に手をついた。
何事かと思って、陽子は青年との距離を気にしつつ近づく。そして彼がショックを受けた理由がわかった。
ガソリンを入れるタンク部分なのだろう。ハンドルとシートの中間あたりに丸いゴムがついている。その周辺に鳥の糞が落ち、黒いボディを汚していた。
「何でここに落とすかなぁ、嫌がらせかよ」
青年は不満を言いながら右側のサイドボックスを開ける。そこからやや黒くなり始めた布巾と、スプレーの容器を取りだした。
「こりゃあ、新しく布巾買わないとだな。そろそろ買い替えなくちゃとは思っていたけど」
独り言を呟きながら、青年は糞を落とされた場所に霧状の液体を吹きかけていく。陽子は呆然とその様子を眺めながらも、ふと自分がバイト先に向かわねばならない状況であったことを思い出し、焦り始める。
「あの――」
「ん? あぁ、ごめんごめん。ほったらかしにしちゃってたね」
ようやく青年がバイクから顔を上げた。
「あれ? もしかして、急いでいる?」
「え?」
陽子は驚き、すぐに答えることができなかった。
なぜ青年は、陽子が焦っていることに気が付いたのか。まだ何も言っていないはずだ。
驚きが顔に出ていたのか、青年のショックを受けていた表情が一転し、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「顔を見ればわかるよ。時計も気にしてる様子だし。だったらごめん、引き留めちゃったね」
「あ、いえ――」
陽子は戸惑いながら首を横に振った。
もっとしつこく誘われると思っていただけに、いささか拍子抜けした。だが、ありがたいチャンスであることに変わりはない。
「じゃあ、すみませんが、これで失礼しますね」
「うん、じゃあね。あ、良かったら連絡先の交換だけでも――」
青年が言い終わらないうちに、陽子は走り出した。今耳に届いた言葉は、聞こえない振りをする。
――変な人。
歩きながら陽子は首を傾げた。しかし振り返ることはない。
いずれにせよ、これ以上話していられるだけの余裕はあまりなかった。
(続)
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