一章 旅立ち③

「……。貴女がリセッシュ家の令嬢――イヴリース・フォン・リセッシュだな」

「え……?」

 不意に名前を呼ばれて、イヴは声がしたほうへと振り向いた。屋敷へと視線を向けると、其処には数人の侍女を引き連れた一人の男が立っていた。肌は白く銀糸のような髪と蒼色の瞳が特徴的で、まるで氷の妖精のようだなとイヴはぼんやりと思った。

「グランツ様! イヴリース様をお連れ致しました」

「ご苦労だったな、アンバー。下がっていいぞ」

 二人のその会話で、目の前の異性が噂のグランツ・フォン・ファブリーゼだと知ると慌てて深々と頭を垂れた。

「リセッシュ家より参りました……、イヴリース・フォン・リセッシュでございます……」

 名前を名乗るものの、そこから先の言葉が続かない。

 どう振る舞うのが令嬢として正しいのか。今迄、侍女相応の扱いを受けてきたイヴにとって間違いを犯すことはなにより恐ろしかった。

 謹厳実直であれど、職務に関しては冷酷無慈悲な心も併せ持つと聞く。少しでも怒りを買ってしまえば、きっと明日の朝日は拝めないだろう。

(今更、震えが……。ど、どうしたら……)

 不安と焦燥。そんな思いがグルグルと頭の中を駆け巡る。

「…………」

「あ、あの……」

 それでも、喉は渇き、言葉は貼り付き、上手く出てきてくれない。先程まで諦観した気持ちであった筈が、今は恐怖で震えていた。

「……。長旅で疲れただろう。必要なものはひと通り侍女達に用意をさせている。ひとまずは荷物を置いて身体を休めたまえ」

「は、はい……お心遣い痛み入ります。グランツ様」

 それだけ言葉を絞り出すと、イヴはゆっくりと顔を上げグランツの顔をそっと盗み見た。辺境伯という爵位上、もっと歳上の男性だと勝手に思い描いていた。だが実際に顔を合わせてみれば、その容姿は比較的若く整っていて煌びやかなだった。

(こんな素敵な人が、どうして私なんかを……)

 そんな疑問を口にする暇もなく、イヴは数人の侍女達の手によって屋敷の一室へと案内された。


 ✿ ✿ ✿


 侍女――シンシャは主人であるグランツ様より一つの命令を仰せつかっていた。

 それは令嬢――イヴリース・フォン・リセッシュの心を開かせること。イヴリースが抱く不安や恐怖心を理解し和らげてあげること。それがグランツ様から下された最初の命令だった。

 初めてその命令を受けた時、シンシャは純粋に疑問を抱いた。リセッシュ家といえば、そこそこに名を馳せた伯爵家だ。良い意味でも、悪い意味でも……。

 特に今の伯爵夫人であるヘスリヒとイヴリースの姉にあたるフレアリーフの噂は悪名高いものだった。

(そんな伯爵家から、まさか伯爵夫人を迎えるだなんて――)

 シンシャからすれば信じられない思いだった。

 だがどうだろう。

 屋敷の前に現れたのは、見たこともないような黒真珠のような瞳と漆黒の髪を宿した少女だったのだから、内心シンシャはとても驚いていた。 

「イヴリース様のお世話は、わたくし――シンシャを含めまして、フォスフォフィライト、アンデシン、フローライトの4名で行います。なんなりとお申し付けください」

「……は、はい」

 返ってくる返事は、とても控えめだ。

 そして馭者から渡された荷物を見ていて思ったが、令嬢でありながら簡素なトランク一つだけなのだ。

 そんなこと通常ならばあり得ない。だが現実では、実際にイヴリースという令嬢に対する扱いは不遇なものであったと嫌でも理解できるものだった。

(リセッシュ家はよほど酷いところなのか……)

 他家に対してあれこれと勘繰るつもりは毛頭ないが、それでもイヴリースの怯えようから見るに、言葉を交わしていく他、不安を取り除いていくのは難しいだろうと思った。

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