一章 旅立ち

 次の日、ファブリーゼ家から迎えの馬車が屋敷の前にいた。

「イヴリース様ですね。お待ちしておりました。これより我が領、ファブリーゼへお連れ致します。私はアンバーと申します。お困りごとがあればお声がけください」

 ファブリーゼ家からやって来た馭者ぎょしゃは歳も若いながら、初々しく一礼をした。

 その礼に若干緊張しながらもイヴも失礼がないようにと礼を返した。

「お迎え頂きありがとうございます。大変でしょうが、お願い致しますね」

 イヴは義母のヘスリヒに言われるがまま普段よりも多少身なりの良いドレスを着せられると簡素な荷物と共に馬車に詰め込まれた。十六年という歳月を過ごした屋敷ですら、思い入れは少なく、唯一あるとするならば長年お世話になった使用人達にろくな挨拶ができなかったことだけが、酷く心残りだった。

(司書のオルヴァさん、料理人のキースさん……召使いのオリエッタ……みんな元気でいてね)

 心の中で謝るように呟きながら、馬車がゆっくりと動き出す。ガタガタと揺れる馬車の中で一人、イヴは小さく溜め息を吐いた。

「こうもあっさりと決まるものなのかしら……嫁ぐことって」

 それは嫁いだ先であるファブリーゼ家で待ち受けるであろう困難を思い描いてだろうか。

 それとも長年蔑まれ追いやられてきたリセッシュ家から解放される安堵感からだろうか。

 どちらにせよ気がかりなことはあるが、今一人で考えたところで解決はしない。

(グランツ・フォン・ファブリーゼ……それが私が嫁ぐべき御方の名前)

 ろくに社交界に出られなかったイヴにとっては、その人物に関する情報は噂でしか知らない。

 様々な人物から言い寄られても、決して心を許すことはなく。自らの職務を淡々とこなす謹厳実直な人物であると云う。

 年齢や容姿に関する情報は何一つ教えて貰えなかったものの、性格の悪い義母達のことだ。あまり物事に対して期待をしないでおこうと思った。

 黒豚と蔑まれた黒髪と瞳。これを愛してくれるような稀有な人物はそういないだろう。

 今回の婚儀の話ですら、どんな経緯で決まったのかイヴは何一つ知らされていないのだ。

 イヴの母親と実父ブルタールは謂わば遊びの付き合い――流れで一夜を共にし、できたのがイブリース・フォン・リセッシュだという。

 そんな話は聞きたくなかったが、義姉であるフレアリーフがことあるごとに聞かせてくるのがイヴにとっては耐え難いものだった。母親は愛されていたのだと、その上で自分は産まれてきたのだと思いたかったが、イヴの記憶の中にある両親の姿は何故か朧げで仲睦まじい様子はなく、加えて現実に見るブルタールは義母ヘスリヒに対して一心に愛情を向けている姿しか記憶の中にはなかった。

 それがますますフレアリーフの言葉が真実であると突きつけられるようで、イヴはよく書庫へと逃げ込んでは一人書物を読み耽り現実逃避をしていた。

「現実に幸せなんてない。幸せがあるのは、夢物語の中だけ……」

 人知れず呟く。

 齢十六にして、イブリース・フォン・リセッシュという一人の少女は人生に絶望していた。

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