第12話

寧々は練習の帰りに、大学の前を歩いた。

寧々は明応大学の1年生だった。

だが仕事ばかりで殆ど大学には行っていない。

お腹が空いていた。

そういえばスタジオでは水しか飲んでいなかった。

寧々は路地裏に明かりの灯った小さなカレー店があるのに気がついた。

しかしもう夜の10時前である。

あさゆうという名前の小さな看板があった。

寧々はドアを開けて狭い店内に入って行った。テーブルが4つと後はカウンター席しかない。

寧々は一番端の席に座った。

朗らかそうなオバさんが水を持って来た。

「あさゆうへようこそ」

そう言ってオバさんはマジマジと寧々を見つめた。

「ひょっとして伊能まどかさんじゃない?」

他の客はいない。寧々は黙って頷いた。

「ちょっと待ってね。啓ちゃん!ちょっと降りておいでよ!」

オバさんは2階に向かって大声で呼んだ。

「何?オバさん、そんな大声出して」

そう言いながら一人の大学生が階段を降りて来た。

そして寧々を見た瞬間に卒倒してしまった。

「ちょっと、啓ちゃん、大丈夫?」

「あの…… 大丈夫ですか?」

寧々に声を掛けられても、まだ大学生は床から立ち上がることが出来ない。

電気じかけの人形のようにぎこちなく頷くだけだった。

「ちょっと啓ちゃんには刺激が強すぎたかね。いえね。啓ちゃん、まどかちゃんの大ファンだから」

「あ、あの…… 本物の伊能まどかさんですよね…… そっくりさんじゃないですよね」

まだ口をパクパクさせている様子を見て寧々は思わず笑い出した。

「はい。本物です」

寧々は目線を合わせるために屈み込んだ。

今度は大学生はびっくりして思わず立ち上がった。

「彼はウチのバイトの啓ちゃん。明応大学の1年」

「私も明応です。同じ1年生。名前聞いてもいい?」

既に寧々も立ち上がっている。

「ま、前島啓也です」

「前島君ね。改めて矢野寧々です」

「矢野寧々……さん」

「伊能まどかは芸名なの。同じ1年生通し宜しくね」

それから啓也がカレーを持って来てくれた。

寧々は夢中でほうばった。

「美味しい!」

「うちは全部無農薬野菜を使ってるからね」

奥から店主が声をかけて来た。

「野菜ってこんなに美味しいんですね」

寧々は店の温かな雰囲気に絆されて、いつの間にか涙ぐんでいた。

「あの…… どうしたんですか?僕で良かったら話聞きますよ」

決して力のある声ではない。オドオドして頼りなげだった。

なのに寧々は気が付いた時には口を開いてい

た。啓也は向かいの席に座った。

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