喃語虹

喃語虹

 辺りを見渡して……よし、他の天使はいないみたい。辺り一面純白な雲が広がっているだけ、大丈夫。脈打つ鼓動を抑え、抱いている赤ちゃんに微笑みかけた。

「そろそろ、お母さんの元へ行くよ。準備は良い?」

「うん!」

 赤ちゃんは笑顔で頷いた。

 可愛いなぁ。天界で造られた赤ちゃんの喋りは、舌足らずなんだよね……母親の所に行っても、すくすく育ってね。

 僕は雲の端から生えている虹へと近づく。歩く度に、下にある雲がほよん、と足を包む。青空で囲まれた雲の上を歩くなんていう特権は、天界に住む天使だけだから誇らしい。

 僕たちが来た事に虹は気づいたみたいで、「あー、うー」と喃語を話し始めた。七色で彩られている虹だが、境界線がはっきりと分かれていないから、グラデーション状になっている。

 赤ちゃんが興味津々に、虹を指差した。

「この虹を滑って行くの?」

「うん。喃語虹って呼ばれているんだ。ここ、雲の上にある天界で育てた君らを、母親になる人のお腹の中に連れて行ってくれるんだよ」

「へー! どんな人がお母さんになるんだろ」

「それは、僕たち天界に住む天使でさえ分からない。喃語虹の意思で、送られているからね。お楽しみだよ」

僕は赤ちゃんを虹の上に乗っけると、軽く押す。赤ちゃんは僕に向かって元気良く手を振りながら、地上へと滑っていった。

 ……よし、今日の搬送予定の赤ちゃんは終わり! まだ搬送予定の赤ちゃんが大量にいるけれど……これ以上送らせると詰まっちゃうから! 主に送り先の母親ごとに枝分かれしてる所で!

 後やる事は……あ、喃語虹と会話しなくちゃね。

 僕は喃語虹に向かい合い、今日話す事を考える。

 赤ちゃんは、天界の事を覚えている。でも、赤ちゃんは喃語虹を伝って降りていくうちに、喃語しか話せなくなってしまうんだ。喃語しか話せなくなった赤ちゃんは言語を必死で学んで成長した頃には、天界の事を忘れている……これに、僕は反対なんだ。

 だって、悲しいじゃないか。せっかくお世話した赤ちゃん達が僕たちの事忘れちゃうなんて。だから、今日も僕は喃語虹に言葉を覚えさせる勢いでお話しして、こんなシステム無くしてやるんだ!

「あーー!」

「わっ、どうしたの。喃語虹」

 僕が意気込んだ拍子に、突然喃語虹は奇声をあげた。

「ねぇ、喃語虹。何かあったの?」

「何かあったのはお前だ」

 ふと、影が僕の身体を上から覆い尽くす。僕が足をつけている雲にもかかり、濁った灰色になった。

 あ、ヤバい……。

 逃げようとしたけれども、時すでに遅し。僕は首根っこを掴まれ、足と雲が離れて宙に浮く。

「喃語虹の前では、話す事はおろか喃語以外の言語を触れさせるなって言われなかったか?」

 そう言って、頭に浮かんでいる天使の輪が似合わない、大柄な先輩天使が僕を睨んできた。

「苦し……息、できな……」

「お前が喃語虹の前で普通に話すとかいう、バカなことしてるからだろうが」

 先輩は僕を乱暴に降ろした。お尻を強かに打ったけど、下が雲だったから全然痛くなかった。けれど、息苦しさは消えなくて、涙目になりながら二、三度咳き込んだ。

「先輩ぃ……ひどいですよぉ」

「バカな事をしているお前には、これで充分だ。むしろ足りないぐらいだぞ」

「バカバカってなんですか! 喃語虹の前で赤ちゃんとお話ししたり、喃語虹とお話しししようと声かけてただけじゃないですか!」

 先輩は、思い切り鼻を鳴らした。

「喃語虹は、あえて喃語以外の言葉を教えてはいけない。そんな基礎中の基礎の事を忘れてる時点でバカだ」

「え? 初耳です、そんなの」

「……天界で生成された赤ちゃんは話せるだろ? 人間の大人と同等で。これで思い出せ」

「それが何だっていうんですか!」

 先輩は呆れたようにため息を吐いたが、僕は引き続き噛みついた。

「別に赤ちゃんが大人と同等の知能持ってて良いじゃないですか! 僕たちの事を忘れられるよりマシです!」

「それじゃ、ダメだ」

 先輩は、急に真剣な顔つきで僕を見据えた。射抜くような眼差しに、思わず胸がすくむ。

 お、怒られるのかな……? 

 一瞬、腹の底が冷えた……けれど、先輩はそのまま、静かに語り始めた。

「昔、天界で産まれた赤ちゃんが、母親や周りの大人達に天界の事を話しちまった。何処にいけば天界に訪れられるのか、赤ちゃんの製造はどうすんのか、洗いざらい。そのせいで好奇心に塗れた汚ねぇ大人達がこぞって見にきやがってなぁ、天界を荒らしまくったんだ」

 先輩の語気が一層荒くなり、額に青筋が浮き出る。

 とばっちり喰らうかもしれない……! 

 僕は頭を守るように蹲ったが、それは杞憂だった。先輩は誇らしげに胸を張ると、喃語虹を指差した。

「だが、今は喃語虹がある。昔は、天使達が赤ちゃんを母親達に届けさせるなんて手間かけてたが、今は意思のある喃語虹がそれを担っているから楽だ……だが、意思がある分喃語以外の言葉を触れさせて、話す可能性も充分高いから、話させてはダメ……っだ!」

 僕の頭の上にある天使の輪っかを通って、鉄拳が振ってきた。前言撤回、杞憂じゃない。

 あまりの痛さに声も上げられず、ただただ僕は蹲ることしか出来なかった。

「今日はこれくらいで勘弁しておく。明日の仕事に備えて、早く休め」

 僕が痛みに耐えている内に、先輩はぶっきらぼうにそう言い放った。やっと顔を上げられた頃には、先輩はいなくなっていた。

「……大丈夫? ふふっ」

「笑うなよ、喃語虹」

 僕は笑い出した喃語虹の方を向くと、口を尖らせた。

「ごめんって、そんな顔しないで。あんなに後ろにいても気づかないところ、笑っちゃって悪かったよ」

「笑うとこ、そこ?! しょうがないじゃん! 雲の上って歩いたら、足音吸収しちゃうんだもん! 気づかないよ!」

「私が奇声上げなかったら、どうなってただろうね」

「……まぁ、そこは助かったよ。僕と虹に乗せる赤ちゃん以外話すなって僕も言ったし……ん?」

「どうしたの?」

「僕が赤ちゃんを虹に乗せる時にさ、まだ喃語だったじゃない? いつもだったら普通に……」

「君の後ろに既にいたからね、あの天使」

「言ってよ!」

「君と虹に乗せて運んでいる赤ちゃん以外の前で話していいの?」

「うぅ」

 喃語虹に言葉を覚えさせたのはいいけれど、こうやって弄ばれるんだよなぁ……。でも、これも全て赤ちゃんが僕達天使の事を忘れないようにする為だ。我慢、我慢。

「わあああ!」

「えっ、何?!」

 喃語虹が、突然声を上げた。元より境界線の薄かった七色が更に混ざり合いそうになるくらい、震えている。この勢いだと、一色になりそうだ。

「う、後ろ……」

 消え入りそうな声で喃語虹が呟いた時、僕は冷や汗が伝った。

 もしかして……先輩!? えっ、もしや去ったと見せかけて影から様子伺ってたとか……趣味わっる! 暴力的でもそこら辺はしっかりしていると思ってたのに!

 ごちゃごちゃと考えていると、先程と同じくらい大きな影が僕を覆った。

 先程の光景が、頭をよぎる。

 どうしよう! 覗き見ているとしたら、僕達が話してる所ばっちり見られたよね!? 何て言い訳したらいいか……! ……ダメだぁ、頭を働かせてるけど、何にも出てこないよぉ……。脳味噌の中を手を突っ込んで、掻き回されたような感触がこびりつく。

 誰かの力を借りたいけれど、目の前で震えている喃語虹は役に立たない……。

 ……僕一人で、頑張らなきゃ。

 そうしないと、僕の願望は、果たされないんだ!

 僕は意を決して、後ろを振り向いた。

 

 ん?……あれ? 後ろに立つ天使には、天使の輪っかが、ない。

 ……なんで?

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喃語虹 @anything

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