第9話 幻想の裂け目
「待ってください」
山田が突然、立ち上がった。
「この爆発音、変だ」
それまで誰もが恐れていた轟音が、確かに不自然なパターンを持っていた。まるで...録音されたものを再生しているような。
「まさか」
山田は端末を掲げ、何かの解析を始めた。
「これは...音響パターンが完全に一致している。ループ再生です」
シェルターの中が、凍りつく。
「私たちは、まだ仮想空間に...?」
誰かが恐れに満ちた声を上げる。花は自分の手のひらを見つめた。確かにそこにある傷跡。仕事で付いた染み。それらは「現実」の証のはずだった。でも、もし究極の仮想現実なら、その「不完全さ」さえも完璧にシミュレートできるのではないか?
「違います」
階段を降りてくる足音と共に、声が響いた。
「これは紛れもない現実です。ただし...」
薄暗がりの中から、一人の男が姿を現す。完璧に仕立てられたスーツ。まるで仮想空間から抜け出してきたかのような完璧な風貌。
「より正確に言えば、『管理された現実』というべきでしょうか」
「ウルトラバース社、行動心理研究部門主任の榊原です」
男は穏やかな笑みを浮かべる。
「皆様には、非常に興味深いデータを提供していただき、ありがとうございました」
シェルターの空気が、一瞬で氷点下に達する。
「72時間のシャットダウン? システムの告発?」
榊原は片眉を上げる。
「申し訳ありません。あれは全て、私どもの社会実験の一環でした」
「実験...?」
花の喉から、かすれた声が漏れる。
「そうです。人間の意識は、どこまでが『現実』で、どこからが『仮想』なのか。その境界を、自分で決めることができるのでしょうか」
榊原はポケットから小さな装置を取り出した。
それを操作すると、シェルターの壁に映像が浮かび上がる。
そこには...先ほどまでの彼らの会話が映し出されていた。しかし、その映像の中の自分たちは、微妙に...違っていた。
「これは、皆様の行動データから生成された完全自律型の模倣AIです」
榊原は説明を続ける。
「同じ状況、同じ選択肢。ただし、彼らは量子コンピュータ上で演算される意識プログラムです」
花は息を呑んだ。映像の中の「もう一人の自分」は、まるで本物の人間のように、その場で考え、感じ、反応している。
「まるで、シュレーディンガーの猫ですよ」
榊原の声が、どこか夢見るように響く。
「観測されるまで、意識は現実と仮想の重ね合わせの状態にある。そして今、私たちは『観測者』と『被観測者』の境界そのものを曖昧にすることに成功しました」
「どういう...意味ですか」
山田の声が震えている。
「あなたは、アキラとの関係が『現実』だと信じていました」
榊原は花の目をまっすぐ見つめる。
「では問いましょう。もし、あなたの『現実』での会話が、全て量子空間でシミュレートされていたとしたら? あるいは逆に、仮想空間でのアキラとの会話が、実は現実の誰かとの会話だったとしたら?」
花の頭の中で、何かが軋むような感覚。
アキラとの最後の会話。あの恐れに満ちた表情。それは...。
「人類の次なる進化は、この観測の問題を解くことから始まります」
榊原は真摯な表情を浮かべた。
「意識がデジタルとアナログの境界を超えた時、人間とAIの区別は果たして意味を持つのでしょうか」
映像の中の「花」が、本物の花と同じタイミングで息を呑む。完璧な同期。それは、まるで一つの意識が二つの「現実」を同時に生きているかのようだった。
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