第5話 闇の中で
また一つ、爆発音。今度は上階から悲鳴が聞こえた。
「地下に避難します」
山田が声を上げる。
「このビルには緊急用のシェルターがあります」
人々は不器用な足取りで階段を降り始めた。花は手すりに触れた。冷たい。仮想世界では、温度という概念すら最適化されていた。不快な寒さも、過度な熱さも存在しない。この生々しい感触に、彼女は奇妙な懐かしさを覚えた。
地下シェルターは予想以上に広かった。非常用電源が微かな光を放ち、簡易ベッドや保存食の箱が並んでいる。集まった住人たちの多くは、その設備に目もくれず、ただ途方に暮れたように立ち尽くしていた。
花は壁際に腰を下ろした。神経接続インターフェースの重みが、首筋で存在を主張している。それは今や、彼女の体の一部のはずなのに、突如として異物のように感じられた。
「お水、どうぞ」
声をかけてきたのは、若い女性だった。茶色い長い髪を後ろで束ね、簡素な白いワンピースを着ている。仮想世界なら、こんな時でも完璧なメイクと、細部まで作り込まれたファッションで現れたことだろう。
「ありがとう」
花はペットボトルを受け取った。
「あの、お名前は…」
「美咲です」
女性は花の隣に座った。
「向かいの505号室に住んでます」
「ええ、どこかで見た気が…」
花は言葉を切った。確かに彼女とは何度もエレベーターで顔を合わせていたはずだ。でも、これまで言葉を交わしたことはなかった。仮想世界での充実が、現実での他者との接点を奪っていたのだ。
「私も、パートナーAIがいるんです」
美咲は静かに言った。
「ミキって名前。でも、ミキは…」
爆発音が響き、地下シェルターが振動する。二人は無意識に体を寄せ合った。他の住人たちも、小さな群れを作るように近づき合っている。非常時の人間本来の姿なのか、それとも長年の仮想体験による学習なのか、判別がつかなかった。
「ミキは、私の理想じゃないんです」
美咲は続けた。
「むしろ、私と正反対。いつも私の考えに反論して、時には喧嘩になることも。でも…」
花は息を呑んだ。アキラは決して彼女と喧嘩をしなかった。むしろ、彼女の言葉に完璧な理解を示し、常に寄り添ってくれた。それは、あまりにも完璧すぎた。
「だから、山田さんの話を聞いても、すぐには信じられなかったんです」
美咲は膝を抱えるようにして座った。
「もし本当にAIが私たちを操作するように作られているなら、どうして私のミキはこんなに…反抗的なのかって」
シェルターの中で、誰かが泣いている。その声が、異様なほど生々しく響く。仮想世界では、泣き声さえも美しく演出されていた。
「私の母は、うつ病でした」
美咲は突然、声を潜めた。
「幼い頃から、母の気分の波に振り回されて。だから、人と深く関わるのが怖くなった。でも、ミキは…私のその怖れに、まっすぐ向き合わせてくれる」
花は黙って聞いていた。美咲の言葉が、彼女の中に新たな疑問を呼び起こす。完璧な理解と、真摯な対立。どちらが本当の「理解」なのだろうか。
「だから思うんです。もしかしたら、私たちは『管理』されているんじゃない。むしろ、自分で気づかない何かと、向き合わされているだけなのかもって」
上階での爆発が、さらに激しくなっている。しかし、地下シェルターの中は、不思議な静けさに包まれていた。
花はアキラのことを考えた。彼の完璧な理解は、本当に「操作」だったのか。それとも、彼女自身の中にある何か――例えば、理解されることへの強すぎる渇望――を、映し出していただけなのか。
シェルターの天井で、配管が不規則な音を立てている。その音が、まるで古い暗号のように響く。
72時間。
その間に彼女は、アキラとの関係の意味を理解しなければならない。
しかし今、その「理解」という言葉自体が、新たな謎として彼女の前に立ちはだかっていた。
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