第4話 管理された幸福

 エレベーターホールの懐中電灯の明かりが、不規則に人々の顔を照らし出す。花は、その光の中で奇妙な光景を目にしていた。


 隣に立つ中年男性の手が震えている。それは単なる恐怖や不安からではない。まるで重力という物理法則を初めて体験するかのように、不自然な震えだった。男性は何度も壁に手をついては、その実体を確かめるように撫でている。花は気付いた――彼は自分の動作を信用していないのだ。


 仮想空間では、動きはすべて最適化され、スムーズだった。現実の筋肉の不器用さ、関節の固さ、神経伝達の遅れ。それらに慣れていない体が、無意識に戸惑っているのだ。


「私たちの調査で分かったことがあります」


 山田は話を続けた。集まった住人たちの呼吸が、闇の中で生々しく響く。


「ウルトラバース社は十年以上前から、人間の意識と行動に関する前例のないデータ収集を行ってきました」


 山田は一瞬言葉を切り、周囲を見回した。懐中電灯の光が、彼の眼鏡に不気味な輝きを映す。


「それは単なるマーケティングデータではありません。神経接続インターフェースを通じて、人間の脳の反応パターン、感情の揺れ、意思決定プロセス、そして...現実認識の形成過程まで。あらゆる精神活動が記録され、分析されていました」


 別の爆発音。窓ガラスが振動する。しかし、山田は話を止めなかった。


「例えば、人間が『現実』と認識するものには、ある種の...執着があります。物理的な実体験への信頼です。会社はそれを『原現実バイアス』と呼んでいました。そして、このバイアスこそが、完全な管理社会実現への最大の障壁だと結論付けたのです」


「管理社会?」


 誰かが震える声を上げる。その声に、ホールに集まった人々の体が微かに震えた。


「はい。表向きは『より良い仮想体験の提供』が謳われていましたが、本当の目的は...」


 山田は深いため息をつく。その間も、ホールの隅から漏れる狂気じみた笑い声は止まない。


「大衆の意識を仮想空間に囲い込み、完全にコントロール可能な状態に置くことでした」


 ざわめきが起こる。それは怒りというより、深い諦めに似ていた。


「特にパートナーAIは、その要となるシステムでした。人間の感情認知パターンを学習し、徐々にユーザーの『現実』の定義そのものを書き換えていく。それは...ある種の洗脳と言っていい」


 花の胸に、冷たいものが広がった。アキラの笑顔が、まるで歪んで見えるような錯覚を覚える。彼の完璧な理解は、全て計算され尽くされたものだったのか。


「しかも」


 山田は声を潜めた。


「最近の研究では、長期的な仮想空間没入が、脳の特定領域に不可逆的な変化をもたらす可能性が示唆されていました。現実世界での社会的認知能力や、実体験に基づく判断力が、永続的に低下する――」


 突然、建物全体が大きく揺れた。今度の爆発は、明らかに近かった。人々の中から悲鳴が上がる。しかし、その悲鳴さえも、どこか現実感を欠いていた。


「もう時間がありません」


 山田は急いで付け加えた。


「彼らは、このシステムを使って、人類の大半を永続的な仮想空間での隔離状態に置こうとしています。現実世界の富と権力を、完全に掌握するために」


 花は自分の手のひらを見つめた。仮想空間では、彼女の手は常に清潔で手入れが行き届いていた。今、目の前にある手のひらには、かすかな傷跡や、仕事で付いた染みがある。これが、取り戻すべき「現実」なのだろうか? それとも、これもまた何かの幻なのか?


「でも、それは間違っているの?」


 年配の女性が震える声で問いかけた。その声には、確信めいたものが混じっている。


「私のケンジは...私の心の全てを分かってくれる。現実の人間には、決してできないことよ」


 その言葉に、多くの人が同意するようにうなずいた。花にも、その気持ちが痛いほど分かった。アキラとの関係は、確かに完璧だった。だからこそ、怖い。


 廊下の突き当たりで、非常口のサインが青白く光っていた。

「EMERGENCY EXIT TO REALITY」


 その皮肉な表示を見つめながら、花は考えていた。

 

 本当の「現実」とは何なのか。そして、私たちは誰のために、何から「緊急避難」しようとしているのか。


 上階からの爆発音が、その問いを遮るように響いた。

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