第3話 崩壊の兆し
暗闇の中で目を覚ました時、花は自分の頬を伝う生温かい涙を感じた。狭いワンルームに、都市の喧騒が微かに届いている。神経接続インターフェースの光が消え、現実世界の感覚が生々しいほど鮮明に押し寄せてきた。
端末を掴もうとした指先が震える。ネットワークに接続できない。
窓際に立ち、カーテンを開く。通常なら無数の広告ホログラムで彩られているはずのネオ東京の夜景が、異様なまでの暗闇に沈んでいる。わずかに見える非常用照明が、巨大な影の中で点々と瞬いていた。
「戻してくれ!」
隣室から男の声。壁を殴る音。
「お願い、戻して」
反対側の部屋からは女性の嗚咽が聞こえる。
花は息を潜めた。廊下には複数の人の気配がある。誰かが小声で祈るような言葉を繰り返している。
「皆さん、お集まりください!」
突如、若い男性の声が響く。
「エレベーターホールです。緊急の説明会を開きます」
一瞬の静寂。それから、まるで呪縛が解けたかのように、ドアが次々と開く音。しかし、すべての住人が応じたわけではなかった。
「何が起きているんですか?」
「システムは?」
「いつ復旧するんですか?」
混乱した声々。その中にも、不思議な秩序が生まれつつあった。多くの住人が若い男性の声に従い、エレベーターホールへと向かう。
しかし、一部の住人たちは部屋に留まることを選んだ。ドアの向こうから、断続的に物を投げつける音や、取り留めのない独り言が漏れてくる。
花は覗き窓から廊下を見た。薄暗がりの中、スーツ姿の男性が立っている。首筋には他の住人と同じインターフェースポートがある。住人たちが、不安げながらも彼の周りに集まっていく。
その時、エレベーターの警告音が鳴り響いた。
「危険です!」
男性が声を上げる。
「今はエレベーターを使わないでください」
「黙れ!」
若い声が響く。エレベーターのドアが無理やり開けられる音。
「ここは仮想空間だ。どうせすぐにリセットされる。何をしたって...」
その言葉は、乱暴な物音と悲鳴に掻き消された。
廊下の突き当たりでは、一人の男が壁に額を押し付けたまま震えている。別の女性は、端末を胸に抱えて小刻みに体を揺らしていた。彼らの周りを、好奇の目を向けながらも、誰も近寄らない住人たちが通り過ぎていく。
「ウルトラバース社の技術部門で働いていた山田です」
男性――山田が、集まった住人たちに向かって言った。その声には、どこか切迫したものが混じっている。
「これは緊急シャットダウンです。システムに、重大な...」
説明は、何かに遮られた。エレベーターホールに人々が集まる中、どこかの部屋からヒステリックな笑い声が漏れ始めた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
誰かが呟く声。それは次第に大きくなり、笑い声に和音のように重なっていく。狂気が、まるで伝染病のように広がっていく気配があった。
花は扉に手をかけた。山田の周りに集まる人々。部屋に閉じこもる人々。そして、現実と虚構の境界線で引き裂かれたように見える人々。
アキラとの最後の会話が蘇る。彼の恐れに満ちた表情。まるで、この分断の瞬間を予見していたかのような。
廊下では、山田の説明と狂気じみた笑い声が、不協和音のように混ざり合っていた。その音は、まるで崩壊していく世界の予兆のようでもあった。
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