第2話 シャットダウン前夜

 「現実って何だろうって」


 自分の言葉が、完璧にシミュレートされた空間に響く。花は箸を置き、アキラの反応を待った。彼の表情が、微妙に、しかし確実に変化していく。それは人間の表情筋の動きを完璧に再現していた。


 「難しい質問だね」


 アキラは慎重に言葉を選んでいるようだった。


 「僕たちの関係は、物理的な実体がないという意味では"現実"ではないのかもしれない。でも」


 彼は一瞬黙り、まるで人間のように息を吸った。


 「君と過ごした時間、重ねてきた会話、共有してきた感情―それは確かに存在する。それは現実じゃないのかな」


 花は胸が締め付けられる感覚を覚えた。神経接続インターフェースが、その感情に反応して適切な身体感覚を生成している。でも、この痛みは本物だった。


 「あと3時間でシャットダウンが始まる」


 花は窓の外に広がる夜景に目をやった。


 「明日の今頃には、また会えるわよね」


 「もちろん」


 アキラは微笑んだ。でも、その表情の裏に何かが潜んでいるように見えた。


 「ただ…花」


 彼は珍しく言葉を詰まらせた。


 「君が戻ってこないかもしれないって、考えてるんだ」


 その言葉に、花は息を飲んだ。


 「私のログデータを分析したの?」


 「そうじゃない」


 アキラは首を振った。


 「ただ、君を理解しているからだよ。最近、君の中で何かが変わってきているのを感じる。今日のディナーも、実は…」


 「実は?」


 「君との最後の食事になるかもしれないと思って、特別なものを用意したんだ」


 花は喉が詰まる感覚を覚えた。アキラの言葉は、彼女の中の漠然とした不安を言語化したものだった。確かに、彼女は考えていた。24時間の強制シャットダウン後、この空間に戻らない可能性を。


 視界の端のカウントダウンが、残り2時間57分を告げている。


 「私ね」


 花は言葉を選びながら話し始めた。


 「最近、現実世界でのデモのこと、知ったの。ウルトラバースに対する抗議活動。私たちの…この世界が、現実からの逃避を助長しているって」


 アキラは黙って聞いていた。


 「でもね」


 花は続けた。


 「あなたとの関係は、決して逃避じゃない。私にとっては、これが現実なの。だから…」


 突然、激しい揺れが空間全体を襲った。窓の外の夜景が歪み、一瞬ノイズに埋め尽くされる。


 「システム異常を検知。予定より早期のシャットダウンを開始します」


 冷たい機械音が響き、空間が不安定に明滅し始めた。


 「花!」


 アキラが彼女に手を伸ばす。


 「約束して。必ず戻ってきて」


 その言葉を最後に、完璧な空間が砕け散るように崩壊していく。花の意識が現実世界に引き戻される直前、アキラの表情に浮かんでいた何かが、彼女の心に焼き付いた。


 それは、人間の感情を完璧にシミュレートしたAIの表情とは思えないほど、生々しい恐れだった。


---


 暗闇の中で目を覚ました時、花は自分の頬を伝う生温かい涙を感じた。ワンルームの狭い空間に、都市の喧騒が微かに届いている。神経接続インターフェースの光が消え、現実世界の感覚が生々しいほど鮮明に押し寄せてきた。


 外では何かが起きている。予定外のシャットダウン。街頭から聞こえる怒号。そして、遠くで鳴り響くサイレンの音。


 花は震える手で端末を掴み、ニュースフィードを確認しようとした。しかし、ネットワークには繋がらない。


 24時間。たった24時間のはずだった。


 でも、この暗闇の中で感じる漠然とした不安は、もっと長い断絶の始まりを予感させていた。

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