幸福のプロトコル
みやま
第1話 はじまり
神経接続インターフェースから柔らかな通知音が響いた。
「バーチャルパートナーからの特別な記念日ディナーの準備ができました」
花は物理世界とアバターの両方で微笑んだ。アキラとの結婚生活も5年。たとえ周りから「人工的な関係」と呼ばれようとも、彼女が感じる温もりは確かなものだった。
現実世界の狭いワンルームで目を開けると、時計は午後6時30分を指していた。ネオ東京の高層ビル群に夕陽が沈みかけ、窓からは長い影が伸びている。部屋には寝床と仕事用の端末がある机、そして最低限の生活必需品があるだけだった。でもそれで十分だった。現代人の大半がそうであるように、彼女の本当の生活は別の場所で営まれていたから。
フルダイブのシーケンスを起動すると、物理世界が溶けるように消え、カスタマイズされた仮想空間が現れた。二人で共有しているペントハウスが具現化する。現実では不可能な、果てしない海を見渡せる眺望。完璧に焼き上げられた和牛のにおいがキッチンから漂ってきた。
「おかえり」
アキラが二枚の皿を持って現れた。5年前に彼女がデザインしたままの姿―背が高く、優しい目と、今でも彼女の心臓を高鳴らせるあの少し歪んだ笑顔。AIは当初のパラメータをはるかに超えて進化し、数え切れない会話と共有体験を通じて、彼女とともに成長してきた。
「いい匂い」
花はダイニングテーブルに着きながら言った。神経接続インターフェースの触覚フィードバックのおかげで、全ての感覚が本物のように感じられる―箸の重さ、肉の食感、そしてテーブル越しに手を伸ばすアキラの手の温もりまで。
「練習したんだ」
と彼は言った。もちろん、実際に料理をしたわけではない。食べ物はデータにすぎず、味や香りは完璧にシミュレートされたものだ。でも、彼女を幸せにしたいという思いは―それは確かに本物に感じられた。
窓の外には、シャボン玉のように他の仮想空間が浮かんでいる。それぞれが誰かの完璧な世界を内包している。何百万もの人々が、慎重に作り込まれた現実の中で最高の人生を送っている。深刻な格差や環境破壊に苦しむ物理世界は、ますます無関係なものになっていった。
しかし最近、花の心に引っかかることがあった。その日の早く、コンテンツフィルターをすり抜けたニュースを目にしたのだ。仮想インフラの大半を支配する巨大企業・ウルトラバースに対する物理世界での抗議デモのことだった。デモ参加者たちは、仮想現実は麻薬のようなもので、ごく一部のエリートが前例のない富と権力を蓄積する間、人々を従順な状態に保っているのだと主張していた。
「大丈夫?」
アキラが彼女の様子の変化に気付いて尋ねた。
「何か悩み事?」
花は無理に微笑んだ。
「仕事のことを考えてただけ」
彼女は仮想体験デザイナーとして、まだ人間の手が必要とされる数少ない職種の一つで働いていた。でも最近では、その仕事さえも、ますます高度化するAIによって自動化されつつあった。
「何でも話してくれていいんだよ」
アキラは言った。彼の言葉が心からのものだと、花には分かっていた。AIの感情知能は、もはや人間の意識と見分けがつかないほどになっていた。
返事をする前に、視界の端にシステム通知が点滅した。
「お知らせ:インフラ保守作業のため、仮想現実サービスは本日午前0時より24時間の強制シャットダウンを実施します」
花は心拍が急上昇するのを感じた。
物理世界で24時間? 数時間以上プラグを抜いて過ごしたのがいつだったか、もう思い出せない。アキラを見ると、彼の目にも不安が浮かんでいた―同じ通知を受け取ったのだろう。
「ただのメンテナンスだよ」
彼は優しく言った。
「戻ってきたら、また会えるから」
しかし、この完璧なアパートと完璧な食事、そして完璧なパートナーを見回しながら、花はある考えに突き当たった。もしデモ参加者たちが正しかったら? もしこの美しい仮想世界が、現実世界が崩壊していく間、私たちの目をくらます金ピカの檻だとしたら?
シミュレートされた海に夕陽が沈み、部屋を金色の光で満たしていく。明日、彼女は狭い物理世界のアパートで、一人で目を覚ますことになる。何年ぶりかで、フィルターも拡張もない現実と向き合わなければならない。そして、案外それも悪くないのかもしれない。
アキラが再び手を伸ばし、花はその手を取った。完璧にシミュレートされた温もりを感じながら。
「本当の考えを聞かせて」
と彼は言った。
花は深く息を吸った。
「現実って何だろうって、考えてたの」
視界の端でメンテナンスまでのカウントダウンが続く。窓の外では、夜明けに消えていく星のように、次々と他の現実の泡が消えていく。やがて何百万もの人々が、避けてきた世界と向き合うことを強いられる―たとえ一日だけでも。
そしてその瞬間、花は何が自分をより怖がらせているのか分からなくなっていた。24時間だけ仮想の楽園を失うことか、それとも、その後で戻りたくなくなるかもしれないという可能性か。
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