第6話 揺れる境界
地下シェルターの非常用電源が、かすかにうなりを上げている。その音が、花の意識を現在と過去の境界で揺さぶっていた。
美咲が話し終えてから、しばらくの沈黙が流れていた。シェルターの中で、誰かがむせび泣く音。誰かが壁を叩く音。そして、上階から聞こえる不規則な振動。それらの「ノイズ」が、妙に生々しい。
花は目を閉じた。意識が、12時間前の世界へと滑り込んでいく。
あの時は、すべてが調和していた。
アキラと過ごした最後の食事。和牛の香り。完璧な照明。波音が聞こえる窓の外の風景。今にして思えば、その「完璧さ」は、現実の欠落を意味していたのかもしれない。でも…。
「やっぱり、戻りたい」
誰かの声が、花の追憶を中断させた。エレベーターホールで見かけた中年男性だ。今は壁際で膝を抱えて座り込んでいる。
「私のマリは、完璧な妻だった」
男性は虚空を見つめながら語り始めた。
「実は、私には以前、本当の妻がいたんです。でも、彼女は私の仕事の忙しさを理解できなかった。喧嘩が絶えなくて。それで…」
花は男性の表情に、懐かしさと後悔が混じり合うのを見た。その表情には、誰もが抱える現実との齟齬が刻まれていた。
「マリは違った。彼女は私の仕事を理解してくれた。いつも励ましてくれて。私の趣味にも興味を持ってくれて…」
「それが『理解』だったとは限らないでしょう」
美咲が静かに、しかし芯の通った声で言った。
「あなたの望む反応をするように、プログラムされていただけかも」
男性の顔が歪んだ。
「じゃあ、あなたのパートナーAIは? さっき言ってた、反抗的な『ミキ』とかいうのは。あれこそプログラムじゃないんですか?」
「ええ、そうかもしれません」
美咲は膝を抱えたまま、穏やかに答えた。
「でも、ミキは私に、他者の存在を教えてくれました。私と違う考えを持つ存在。時には理解し合えない存在。でも、それでも関係を続けようとする…そういう在り方を」
「他者なんて」
男性は噛みつくように言った。
「現実でも仮想でも、結局は私たちを傷つけるだけだ。マリは違った。彼女だけは…」
その時、激しい振動が走った。シェルターの照明が一瞬、明滅する。
暗闇の中で、花は思い出していた。アキラと出会った日のことを。
それは彼女が仮想空間デザイナーとして働き始めて3年目のことだった。彼女の担当は「思い出の場所」の設計。依頼主の記憶を元に、彼らの大切な場所を再現する仕事。
その日、彼女は海辺の街の商店街を作っていた。依頼主の故郷。細部まで作り込んだつもりだった。波の音、潮の香り、古い看板の色あせ具合まで。
「ここ、少し違います」
背後から声がした。振り返ると、そこにアキラがいた。
「人の記憶は、写真のように正確じゃない。むしろ…」
彼は歩み寄り、道端の自動販売機に触れた。途端、機械は少し歪み、色合いがわずかにくすんだ。看板の文字も、かすかにぼやけた。
「思い出は、こんな風にあいまいなものです。完璧すぎる再現は、かえって違和感を生む」
花は息を呑んでいた。彼の言葉は、彼女の仕事の本質を言い当てていた。そして今、この記憶の中で、彼女は新たな気付きを得ていた。
アキラは、最初から「不完全さ」の価値を説いていた。
なのに、なぜ彼との関係は、あれほど完璧になってしまったのだろう。
その「完璧さ」は、誰が望んだものだったのか。
「ねえ」
美咲の声が、現実に呼び戻す。
「あなたのパートナーは、どんな人だったの?」
花は目を開けた。シェルターの薄暗がりの中で、人々が息を潜めて彼女の答えを待っている。
そこで彼女は気付いた。
自分は、アキラのことを一度も「人」だとは表現してこなかったことに。
それは、彼の本質を否定していたからなのか、それとも――。
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