月影の下で

冬部 圭

月影の下で

 月影の下で君と出会った。君は昔見た少女と同じ空気を纏って。きっと僕のことは気にも留めていない。そう思った。だけど。


 些細な口論が元となったいざこざで仕事を辞める事になった。学校を出て以来、九年半続けた仕事だった。今までもいくつか、納得のできないことがあったが、その度自分を騙し、耐えてきた。その割には結構簡単に辞められるものだ、潮時だったかもしれないと楽観的に構えている。独り者だからかもしれない。

 次の仕事のあては一応ある。だけどすぐに連絡を取る気にならないので、今夜はやけ酒の気分だ。コンビニでビールを買いこんで帰ることにする。空を見上げると、大きな月が出ている。そういえば昔、こんな夜があった。


 月がとても明るい。月の光で影ができている。とても凄いことのような気がして、思わず外へ出て来てしまった。お母さんが心配するかもとか、一抹の不安はあるけれど、この特別な夜の魅力には抗えない。

 普段歩きなれた町並みも、夜になるとまったく別の街のようで、大冒険をしている気分になる。少し怖いけれど、大丈夫。今日は影ができるほど月が明るい夜なのだから。公園の傍をとおると、ブランコの揺れる音がする。遊びなれた公園も、夜になると雰囲気はまったく違っていて、少し震える。

 こんな時間に誰だろう。

 若干の恐怖を抱きながら、それでも好奇心に勝てずブランコのほうへ向かう。大丈夫。今日は特別な夜なのだから。

 満月の光に照らされて、ブランコに座っている女の子の影が浮かび上がる。僕と同じくらいの年頃だろうか。細身の体が揺れるたび、ブランコの錆びた金具が軋む。女の子は俯いていて僕には気づかない。

 なぜ、こんな時間に、こんな場所に。

 声を掛けようとした。だけど、これ以上近づけない。掛ける言葉が見つからない。


 少女は僕のことを拒絶していた。ひょっとしたら世の中すべてを拒んでいたのかもしれない。だからきっと僕が声をかけても意味の無いことだったろう。満月でできた影を見るたびに思い出す。

 空耳だろうか。ブランコの軋む音が聞こえる。二度、三度。ゆっくりとしたリズムで。

 僕は吸い込まれるようにブランコを見る。小さな人影がひとつ、ブランコに腰掛け揺れている。あの日の幻影を見るかのように。吸い込まれるように一歩一歩近づいていく。朧気な影はどれほど近づいても朧気なままのような気がしてくる。だけど、今は近づいていける。例え少女が世界のすべてを拒んでいても。

 ブランコの支柱まで辿りついて漸く、輪郭がはっきりしてくる。半袖のシャツを着て、ズボンを履いている。華奢な体つきと、襟足で無造作に束ねた髪から改めて少女だと認識する。十歳前後だろうか。あの時の様に、俯いたままで僕のことには気づかない。

「もう、遅いよ。大丈夫?」

 問いかけると、少女はびっくりしたように肩を動かす。声をかけることができたのは、仕事を辞めて気分が高揚しているからだろうか。それとも今度は、逃げたくなかったからだろうか。

「お母さんが待っているよ」

 一度声をかけた手前、言葉を継ぐ。

「お母さん、まだ仕事で帰ってこないから」

 ならお父さんはと問いかけて止める。藪蛇になりそうだ。間を取るために隣のブランコに座る。

「家で待ってたほうが良くないかい?」

 興味本位で尋ねる。

「どうして?」

「夜は危険だよ」

「家で一人は寂しいよ」

「そうだね」

 あっさり言いくるめられた気がする。

「ビール、飲んでいいかな?」

「私に断る必要はないと思うけど」

 全く持ってそのとおりだと思いながら、缶ビールのプルタブを開ける。少女は僕がビールを飲むのをじっと見ている。

「お酒っておいしい?」

 呟く様に尋ねられて答えに詰まる。いろいろと家庭の事情を想像してしまう。

「おいしいとかまずいとかじゃなくて、飲みたくなること、飲まないといられないことがあるかな」

 それは答えになってないと感じながらも、ほかに答えようが見つからない。

「で、飲んじゃうの?」

「明日、仕事がないから。今夜は特別」

 少し棘がある口調に思わず言い訳している。

「それに、ほら、今夜はこんなに月がきれいだし」

 頑張って話を逸らそうとしている自分がいる。こんなことなら飲まないほうが良かったと思える。

「満月の夜は、恐ろしい魔物が出るって聞いたことないかい?」

「御伽噺でしょう」

 少女の口調は冷めている。

「居ることの証明は簡単だけど、居ないことを実証するのは難しい」

「確かにそうだね」

「魔物は無いとしても、いろいろ怖いこともあるよ。会社をクビになった変質者とか」

 我ながら自虐的なことを言っていると思う。

「おじさんは変質者なの?」

 あまり感情のこもらない声で答えが返ってくる。

「違うと思うよ。多分」

「あ」

 公園の前を通る自転車を見て、少女が体を堅くする。

「どうされましたか?」

 自転車を公園の入り口に停めて、制服姿の警官が声をかけてくる。変質者よりも警官のほうが困るようだ。時計を見ると、もう十一時を過ぎている。確かに、傍目から見たら怪しいような。お互いにとって窮地かもしれない。

「娘と少し揉めまして」

 事情を説明できる自信はないので咄嗟に嘘を吐いてしまう。警官は少女の方を向き、

「どうしたのかな?」

と尋ねるが、少女は俯いたまま何も答えない。ここで口裏を合わせてもらえないと僕の立場は非常にまずい。

「ずっとこんな調子で」

 少し間をおいて、一芝居打つことにする。

「あ、今日は。ごめん。お父さん、お誕生日を忘れていた」

 少女は顔を上げ一瞬びっくりした顔をしたが、小さな声で、

「果歩のお誕生日、思い出してくれたの?だったら許してあげる」

 と応える。

「遅くなったけど、お祝いにご飯を食べに行こうか?」

 調子を合わせて、その場をやり過ごすことにする。

「ご心配をかけますね。」

「いえいえ。お嬢ちゃん、お誕生日おめでとう。よかったね」

 警官は少女の方に向かって手を振ってから、自転車へと戻る。悪いと思いつつ安堵の溜息が出る。

「さて、何か食べたいものがあるかな?」

「助けてもらっただけで十分」

 少女はそう答えるが、助けてもらったのはこちらのような気もする。

「昔ね」

 独り言のように語り掛ける。

「君と同じ位の時。丁度こんな満月の夜に同じようなことがあったんだ」

 二つのブランコが緩やかに動く。

「その時は声をかけられなかった」

 少女は無言のままで僕の話を聞いているのかわからない。今は、俯いていないので話を続ける。

「ずっと気になってるんだ、彼女は何を考えていたのかなって」

 少し間を取ったけれど、またも、答えは返ってこない。でもそれでいいのかもしれない。

「だから今日は声を掛けた」

 伝えたいことはそれだけ。少女は黙ったままなので、聞こえるのはブランコの軋む音と虫の音だけ。心地よい沈黙が続く。

 月が中天に差し掛かろうとしている。少女はすっとブランコを降りると僕の目の前に立つ。

「お願いしてもいい?」

 少女が尋ねる。先ほどまでとは違って、小さい、不安げな声で。

「できることなら構わないよ」

「ひざに乗ってもいい?」

 意外なお願いに戸惑いながらも了承すると、少女は恥らうような仕草を見せつつも、ブランコに乗ったままの僕の膝の上に座る。

「昔、こんな風にしてお父さんと一緒にお月様を見たの」

 少女は独白のように語る。お父さんはどうしているのか気になったけれど、考えないことにする。

「だから、ありがとう。すてきな誕生日だった」

「僕は、何もしていないよ」

 正直に答える。

「今日のお礼をしたいから。明日もここに来れる?」

 不安そうに尋ねてくる。僅かな間に打ち解けたのか言葉の端々から感情の起伏が感じられる。

「僕はいいよ、大丈夫。ただ、時間は早いほうがいいかな。それと、君はお母さんに正直に今日のことを話すこと。その上でお母さんが許してくれたなら明日またここで会おう」

 もう一度会えるのは嬉しいのだけれど、時間が遅すぎる。この子の母親にとって、僕は怪しげな男だろうから、彼女は来れないかも知れない。ただ、それはそれでいいような気もする。

「わかった。じゃあ七時にここで」

 お母さんが反対するはずが無い。そう確信しているように返事が来る。

「これ、前の会社での名刺だけど」

 今日で不要となった名刺を渡す。

「私は鈴木果歩。果実の果に歩くと書くの」

「今日は遅いから、家にお帰り」

 もっと話したい気持ちを残しつつ、家路に着く果歩の背中を見送った。


 約束は七時だったけれど、一日暇だったので公園には三十分前に着いてしまった。ベンチに座って待つことにする。しばらくすると、果歩が母親らしい女性と歩いてくる。

「本当に来てくれたんだ」

 果歩は恥ずかしそうにしながらも微笑む。昨日とはうってかわってワンピースにカーディガンと、可愛らしい服装となっている。

「昨日は娘がご迷惑をお掛けしまして」

 果歩の母親が頭を下げる。年の頃は僕と同じ位だろうか。

「いえ、こちらも何をしたわけでもないので」

 心底そう思う。僕は果歩に対して何もしていない。多分、少年の日の僕の宿題を片付けたくらいだ。


 それから、なんとなく果歩との交流が始まった。果歩は僕に父親の影を見ているのだろうと思うことが度々あった。なので、果歩の母親と再婚したわけでもないのに父親枠で果歩の学校行事に参加したりもした。


「お誕生日おめでとう」

 お互いのグラスを軽く触れさせた後、のどを湿らせる程度口をつける。洒落たレストランで差し向かいの席に座ると、果歩が大人になったことを実感する。僕は老けた位で中身はあまり変わってないのだけれど。

「遂に二十歳だね」

 果歩は初めにあった日の面影を残しつつ、素敵な女性になったと思う。

「お願いが、あります」

 果歩が改まった口調で話を切り出してくる。少し狼狽えつつ、

「僕にできることなら構わないよ」

 と安請け合いした。果歩のお願いを聞いて、僕は更に狼狽することになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月影の下で 冬部 圭 @kay_fuyube

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ