第7話

『着きました』


 ライブハウスから隣の駅にある彼の家にはすぐに着いた。

 インターフォンを押すと、間もなくガチャリと玄関が開き、いつも通りの彼が出てきた。


「早かったね、じゃあ入って」

「は、はい失礼します」


 彼の部屋の中はとても片付いていた、というより物が少ない。寝室とリビングの2LDKほどのマンションに住む彼の部屋にあるものと言えば、寝室には本棚とベッド、リビングには四人用の机と四つの椅子、その他に大きなキャンバス。それだけの部屋で正直生活感はない。


 彼はキャンバス前の椅子に腰を下ろし、私を一つの椅子に座らせた。

 そして何の前置きもなくその悩みを話し始めた。


「さっき言った悩みなんだけど、僕はよく生活を誰かに見られている気がするんだ」


 何度目の冷や汗か。夏なのに体温が一気に引くのがわかった。これは隠しようもない、私は立ち上がってすぐに謝ろうと、そう思ったとき彼の雰囲気が大きく変わった。


「でも、それ自体は別に大きな悩みじゃないんだ、慣れてるからね」


 情報が完結していない、呑み込めない私に彼は尚も言葉を続けた。


「誰かに見られること自体はそれほど大きな悩みではない、むしろその逆。この目線が少なくなることが悩みなんだ」

 その瞬間、全てを察した。

 私はもう逃げることも、投降することもできなかった。

 彼の体温を感じて、彼に抱きしめられることを選んだ。

 ずっと見てきて私もいつかこうなれたらと何度思ったか。

 その瞬間私は今までにない幸福を感じだ。

 ああ、これか。これが私の求めていたものだったんだ。ただ寂しさを埋めるための満足ではない、本当に心からの満足をやっと得ることができた。

 それはあまりにも温かく、無邪気で、卑猥で、眩しくて、楽しい感情だった。


「これで、君も……」




 私には好きな人がいる。その人は賢くて、優しくて、暖かくて、空っぽな私に全てをくれた人。

 もう一度抱かれたい。その体温を感じたい。でも、叶わない。そんな感情を持つ人達がずっと彼を睨み続けていた。

 嫉妬や憎しみや復讐心を携えた怨嗟となって。私もその一人に加えられた。その空っぽな身体で何をするんだろう。熱も何も持たない、本当に空っぽになってしまった私の屍を。

 月明りに照らされる彼は、生前の私よりも大事そうに私を抱えていた。何も入っていないはずの私の身体を。


 彼は何食わぬ顔で今日も朝を迎える。優雅にコーヒーを飲み、新聞を読み、時間が来れば出社した。

 その生活は変わらない。

 変わるのは彼を見る人の数が増え続けていることだった。

 今日もどこかで彼は————

 



 

 

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冬隣 (⌒-⌒; ) @kao2020

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