2. 典型的なパターンと障害-1

「分かりました。循環取引をやります」


西川は安田の目を見てはっきりと答えた。


西川は隣に座る南越の方を見る。


南越も覚悟を決めており、西川から目線を逸らさずに頷く。


この時点をもって3人は共謀者となった。



安田の説明を踏まえれば、循環取引をせずに済む未来もあり得る。


主要取引先との交渉が上手くいって売上や利益が減らない。


取引先の新規開拓が円滑に進む。


新規事業が驚くほど順調に軌道に乗って既存事業をカバーする。


業績が多少悪化しても銀行が融資を引き上げない。


しかし、それは僅かな可能性でしかない。



駄目だったら循環取引に手を出すという問題の先送りや、上手くいけば手を汚さないで済むという願望に流されるのではなく、腹をくくって循環取引をする前提で話を進める。


取引や今後の事業がどう転ぶかなど誰にも分からない。


結果的に循環取引が不要となる可能性はあり得るが、幸運に縋るという選択肢を捨てて方針を明確にする。


不確実であやふやな状況下での決断こそ経営者の仕事であり、その観点からすれば西川はまさしく経営者としての仕事を果たしていた。



他の社員に話をするわけにもいかない関係上、循環取引が露見した際の責任は西川と南越の2人が全てを背負うことになる。


会社の存亡がかかっていたと言ったところで現場の社員には届かず、非難されるのは目に見えている。


露見しないまま無事に事を終えたとしても、この決断と行動が称賛されることはない。


それでも2人は会社のため手を汚すことを選択した。




「......とは言うものの、我々は循環取引というものをよく分かっていません。お手数をおかけして申し訳ありませんが、基本的なところから教えて頂けますか?」


そう言って西川は安田に頭を下げた。


西川に対して安田は気にせず説明を始める。


「大丈夫です。今回は新規事業が始まるという、循環取引が発生しやすい状況でもあります。我々が関与しない循環取引や不正が発生しないよう内部統制が重要になりますので、元々基本的なところからご説明する予定でした。また、循環取引を防止する方法を学ぶことで、自分たちが循環取引を行う際の注意点も理解することができます。それでは最初にお渡しした資料の『循環取引の概要』というページを御覧ください」


安田の指示に従って西川と南越は資料を捲り始める。


2人が所定のページを開いたのを確認し、安田は説明を始める。



「まず、循環取引とは複数の企業が商品転売や役務提供を行うことで、あたかも取引が存在するかのように取り繕う行為の総称です。そのため通常の取引同様、取引の実在性を示す証憑、いわゆる注文書や受領書の作成が必要になります。これが無ければ社外から調査を受けた際にすぐに露見してしまいますし、社内からも怪しい目で見られることになります」


証拠作りが何よりも重要。


そこに手を抜くことがあれば社内から疑問の声が上がり、いずれ社外にも噂話が広がるだろうと安田は告げる。


このあたりの話は財務周りを担当している南越にとって身近な内容である。


安田の言わんとすることがすぐに察せられた。



「なるほど。逆に言えば、一度正常な取引として認識されてしまえば、次回以降の取引は流れ作業で処理されることになる。その後のチェックで摘発することはかなり難しくなるということですね。」


「おっしゃる通りです。経理部門などからすれば、所定の資料を揃えて然るべき手続きさえ通していれば文句をつける理由がありません。前と同じ取引だからと言われればそれでおしまいですし、それを疑うのであれば他の取引全ても疑う必要が出てきます。ネット企業やサービス系の企業で循環取引が多いのも、実物の商品が動かないため証憑の整合性が取りやすいことが理由として上げられます」


「確かに。循環取引が存在するか不明な状況で、取引を全て洗い直すとなればかなりの手間がかかります。そこまでしてやりたいと言い出す社員もいないでしょう。もし社員が循環取引を利用して横領していた場合、時間とともに被害額が増大。気がついた時には賠償請求しようにも、個人では返済できない規模にまで膨れ上がっていると」


「循環取引の多くは当初は少額取引から始まります。その方が取引時の審査で承認されやすく、取引としても目立たないからです。そこから徐々に取引額を増やしていくことになります。高い給料を貰っている商社や投資銀行などでも、不正をする者は定期的に発生します。ですから、そちらの社内でも十分に警戒する必要があります。それでは、次のページを御覧ください」


安田の指示に従って西川と南越はページを捲る。


そこには「循環取引の典型的なパターン(子会社や事業部長が主犯となるケース)」と書かれていた。



「循環取引の始まり方というのはある種のテンプレートが存在します。循環取引が行われるのは大抵は新規事業や新商品、もしくは社内におけるニッチな部門ですね。そこの売上が拡大し社内外から評価が高まる一方で、経験の積み重ねがない領域のため、管理部門の知識不足もあって管理者不在の状況が発生することになります。そうなると担当者の権力が強化され、実質的な治外法権となります。この状況になると歯止めがかからず拡大の一途を辿り、周囲が怪しんだとしても権力の差から押し切られてしまいます。最終的には循環取引は露見しますが、時間が経つほどに被害は雪玉のように膨れ上がっていきます」


安田の説明を受けて西川と南越は顔を曇らせた。


新規事業を始めるため社内に注意を払う必要がある、という前述の説明はまさしく今説明のあった話を指していたからである。


業務用機器の新規取引先開拓であれば不正の摘発はまだ容易である。


しかし、それが家庭向け高級トースターとなれば話は変わる。



今まで売ったことが無い商品のため知識やデータがなく、取引相手や金額を見ても問題があるかどうか判断できないからだ。


仮に売上が順調に伸びることがあれば、家庭向け機器事業の担当者は社内から英雄扱いされるだろう。


その担当者が横領目的で循環取引を始めた場合、安田が説明したパターンに完全に嵌まってしまう。


そんな事態が容易に想像できるだけに、2人は暗澹とした気持ちになったのである。



とはいえ、部門をリードする人材がいないことには始まらない。


そういった人材が活躍するためにはある程度自由にやらせる必要があるが、好き勝手やらせれば問題を起こすことに繋がる。


人材の活躍と不正防止は往々にしてトレードオフになる。

西川はこの難しいバランス取りを要求されていた。


しかし、西川は自分を奮い立たせるように顔をピシャリと叩く。



「審査体制の強化が必要だな。南越、新規取引先と新規事業の審査の見直し案を考えて欲しい。少額であっても取引先の調査は怠らないように」


「はい。取引先の実在性確認や、先方担当者以外への2重チェックも行いましょう。家庭向けトースターとはいえ高級品となれば、換金の容易さからまとまった数を抱えて飛ぶ悪徳業者もあり得ます。経営者に反社会的勢力との繋がりが無いかも念入りに確認が必要です」


「代金の振込が遅れた場合、早期に営業担当者や上司に確認するプロセスも必要だ。今までは付き合いの長い取引先が多かったから大目に見ていたが、今後はそうも言っていられないだろう。もし特定社員の担当取引先に集中しているようなら、すぐに報告を上げるよう各部署に通知を出そう」


2人は手早く案をまとめていく。


そんな2人を安田は頼もしそうに眺めていた。

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