循環取引のはじめかた

牛熊

1. 循環取引と違法性

「西川社長、循環取引をやりましょう。この状況を立て直すにはそれしか手段はありません」


男は目の前にいる2人に向けてはっきりと言い切った。



男の名前は安田朝生(あんだ あさお)。


年は30半ば。


髪は短く整えられており、身長185cmほどのがっしりとした体格をしている。


仕立ての良い紺のスーツの上からでも鍛えられた身体をしているのが見て取れる。


鋭い目つきや身に纏う重々しい雰囲気も相まって、まるで軍人のようだった。




「じゅ、循環取引ですか......?」


安田の前に座っていた男の1人は安田の唐突な発言に目を白黒させ、ハンカチで吹き出る冷や汗を拭きながら聞き返す。


男の名前は西川康成(にしかわ やすなり)。


年は40代後半。


身長165cmほどだが小太りで腹が出ており、質は悪くないであろうブラウンのチェック柄スーツはお世辞にも似合っているとは言えなかった。



「いや、流石にそれはどうかと」


西川の隣に座っていた南越彰(みなこし あきら)は即座に提案を拒否する。


南越の年は50代後半で、西川と同じくらいの背丈だがこちらは痩せて細い体型をしていた。


ダークグレーのスリーピースをきっちりと着込んでおり、皺のないシャツやネクタイ、背筋を伸ばした姿勢からも几帳面さがにじみ出ている。



西川は自らが所有する西川製作所の2代目社長であり、南越はそこの専務である。


西川製作所は業務用の製パン機器などを開発製造しており、個人創業から始まった典型的な中小企業である。


創業40年ほどでそれなりの顧客を抱えているが、工場の老朽化や市場規模の頭打ち、物価高騰などにより業績が苦しくなっていた。



加えて、最近になって主要取引先から足元を見られた大幅な値引き要請を受けていた。


この要請を飲めば赤字に転落する。


先方はいずれ元の値に戻すと言っているが当てになるはずもなく、そのままズルズルと経営が傾いていくのは間違いなかった。


かといって要請を蹴って主要取引先を失えば、業績の大幅な悪化で銀行からの融資引き上げを招く可能性がある。


業績が苦しい今、融資を引き上げられれば資金不足による倒産という正念場を迎えており、西川はその問題によるストレスもあって薄毛にも悩んでいた。


安田との打ち合わせはこの西川製作所が置かれた状況をなんとか打破するため、南越が知り合いの会計士などの伝手を使ってセッティングしたものだが、一通り状況を説明した後の提案に驚かされているのが現在の状況である。




「あー、その、......循環取引と言いますと、第三者と協力して実態のない取引を行い、架空の売上を立てることですよね?本来の業績よりも良い数字に仕立て上げる、いわゆる粉飾という不正会計行為と理解しておりますが......」


「ご理解の通りで問題有りません」


「不正会計は問題かと......」



堂々としている安田とは対照的に、循環取引を提案された西川は頭を抱える。


西川は隣に座る南越に対し、こいつは本当にまともな相手なのかと目で訴えかけるが、南越は目を逸らすこと無く頷き返す。


事前に安田のことは界隈で有名な財務コンサルタントであると説明されており、安田を紹介してくれた会計士からも実績と能力は保証すると言われていた。


つまり、安田は本気でこれが会社のためになると判断して提案していることになる。



財務コンサルタントとは一般的に知られている公認会計士などとは異なる。


安田は国が認めているような正式な資格を持っているわけではない。


財務コンサルタントと名乗る人間やそういったサービスを提供する企業は多く存在するが、そもそもコンサルタント自体がその気になれば誰にでも名乗れるものである。


従って、コンサルタントと名乗っているからといって、その人物の能力や知識が保証されるわけではない。


有名なコンサルティング会社から派遣されてきた人物が全く役に立たず、逆に会社をボロボロにした事例は山程ある。



とはいえ、会社を立て直すために相談相手として呼んだにも関わらず、その当人から不正行為を提案されるとは西川だけではなく南越も想定していなかった。


西川は自分が優秀な経営者であるとは考えてはいないが、それでも経営者として最低限度のモラルは身につけている。


そして、そのモラルが不正を犯すことに関して忌避感を抱かせていた。


また、不正会計が露見した企業を待つのは解散か倒産しかない。


そんな企業と取引を続けようとするところや融資してくれる銀行が存在しないからだ。


安田の提案は会社を終わらせるリスクを抱えているため、倒産まで秒読みというほどの状況でなければ取りたい選択肢ではない。



「当社の置かれている状況が芳しくないのはご説明申し上げた通りです。しかし、かといって犯罪行為に手を染めるわけにはいきません」


西川ははっきりと安田に告げる。


不正は行わない。だからこれで話は終わりだと。


しかし、安田からは意外な回答が返ってきた。



「西川社長。循環取引そのものは、必ずしも犯罪行為に該当するわけではありません」


「えっ、そうなんですか?不正行為ですよね......?」


西川は経営者として財務関連の勉強はしていた。


ただ、法律関係となると熟知していると言えるほどではない。


不正はするなという基本を理解しているだけで、安田の発言の真偽を判断するだけの自信はなかった。


西川は慌てて南越の方を見るが、こちらも同じように安田の説明に納得のいかない顔をしている。



そんな2人の表情を見て安田が説明を始める。


「循環取引によって売上を水増ししたからといって、それだけでは得も損もしません。粉飾された数字を利用し第三者に被害を与えた場合や、何らかの利益を得た場合において初めて違法性が問われます」


「......なるほど」


言葉とは裏腹に西川は納得いかない表情をする。


コンサルタントといった人間の言う事がさほど当てにならないことを、西川は理解しているからだ。


適当なことを言って手数料だけ貰って逃げるだけならまだしも、第三者と組んで会社を罠にかけたケースも見聞きしている。



もし安田がそういった悪徳業者の1人であれば、西川個人が騙されて終わりではない。


西川製作所、ひいては社員にも迷惑がかかる。


会社を預かる経営者として、西川は安田が本当に信頼できる相手かどうかを見極めようとしていた。


心を落ち着かせようと膝の上で握りしめている両手にも力が入る。




しかし、安田はそんな西川を不快に思うこと無く話を続ける。


「一般的に、循環取引が問題となるのは大きく分けて3パターンあります。まず1つ目が上場企業の場合。上場企業は業績などをまとめた有価証券報告書を開示する義務があり、そこで粉飾した数字を利用した場合には金融商品取引法違反となります。未上場企業であっても有価証券報告書を開示している場合は同様です。株主などから損害賠償請求などを起こされることもあり、世間で話題になるのはこのパターンがほとんどです」


「なるほど。当社は未上場かつ有価証券報告書を開示していませんので、こちらには該当しないということですね?」


自らの理解を確認する西川に対し、安田は話が早くて助かると言いたげに満足そうに頷きながら説明を続ける。



「その通りです、西川社長。次に、2つ目が役員や従業員といった個人が自己もしくは第三者の利益目的で循環取引を行った場合です。これは業績の粉飾が目的ではなく、循環取引による売上の横領やボーナスの獲得、第三者への利益供与などが目的となります」


「その場合は企業から当該社員に対して損害賠償請求が発生するものの、企業が違法性に問われることはない。また、今回は会社の資金を外部に流出させたいわけでもないので......」


「南越専務のお考えの通り、このパターンも該当しません。似たような話としては違法配当や、倒産時の債権者への損害賠償といったパターンなども存在しますが、西川製作所さんでは配当は出ていませんし、資産を売却すれば債権者への返済も可能だと見込んでいます」



南越は安田の説明に納得して頷くが、一方で会社の資産を売却するという選択肢を視野に入れていることに眉をひそめる。


西川製作所は郊外とはいえ東京都内に工場を抱えている。


製造設備や土地を全て処分すればそれなりの資金にはなるが、債務を返済した上で事業をやり直せるほどの額ではない。


つまり、安田の提案は最悪の場合は会社を解散するという意味を含んでいる。



仮に循環取引が露見しても返済さえ全うすれば訴訟に発展しないと言われたところで、守ろうとしている会社を失うリスクを取れという安田の提案はそう簡単に受け入れられるものではない。


そのことに気がついた西川と南越は顔をしかめる。


そんな2人を眺めながら安田は笑みを浮かべながら話を続ける。



「最後の3つ目ですが、粉飾した業績を利用して銀行から新規に融資を獲得するパターンです。一般的に銀行から融資を受ける際には決算書を提示しますが、粉飾された決算書を提示した場合には詐欺罪となる可能性があります」


「駄目じゃないですか!」


西川は悲鳴を上げる。


今まさにやろうとしているのが循環取引による粉飾決算である。


わざわざ罪に問われる行為をやって何の意味があるのか、西川には理解できなかった。


そんな西川を手で制しながら安田は説明を続ける。



「落ち着いて下さい。罪に問われるのは粉飾を行った時ではなく、融資が返済できないと判明した時です」


「......返済できなかった時?」


「そう、融資を返済できなかった時です。身も蓋もない話ですが、銀行にとって粉飾しているかどうかは問題ではありません。融資が返済されるかどうかが問題なのです」


「利子を上乗せして全額返済してくれるのなら、それ以外はどうでもいいと?」


西川は訝しげに尋ねる。


そんな甘い話があるとは思えないという様子が隠しきれない。



しかし、安田は事も無げに返答する。


「はい。融資返済後に会社が倒産しても彼らの懐は痛みません。他行が火傷をしても笑うだけでしょう。それどころか、上手く逃げ切ったと行内から評価されるはずです」


「え、そんな適当なはずは......」


「銀行の窓口となる担当者たちは多くの融資先を抱えています。他にも山のようなノルマが課せられており時間がありません。従って、忙しい彼らはよほど大口の融資先でもなければ会社の状況を細かく確認したりしません。調査といっても業績が大きく悪化していないかどうか、担保がちゃんとあるかどうかを確認して終わりではないですか?」


「おっしゃる通りです...」


「売上と利益欄を流し見して終わるところがほとんどですね」




西川と南越は銀行担当者が訪問してきた時に対応している。


そのため、銀行の担当者がどういった振る舞いをするのか熟知していた。


融資を受ける際には重箱の隅をつつくように細かく確認されたが、その後はまともに審査などされた記憶はない。


銀行の商品や投資信託の営業の方が熱心なくらいだ。


本来であれば定期的な事業状況の確認は必須のはずだが、酷い銀行に至っては決算書を渡して終わりである。



質問されることも少ない。


あるとすれば売上や利益が減っていることへの指摘、そして業績が大きく悪化するようであれば融資を引き上げるという警告くらいであった。


この警告は他行よりも先に融資を回収して逃げ切りたいという意思の表れでもある。


担保がある間は多少甘く見てくれる銀行もいるが、メインバンクでもなければ上司やリスク管理部門からさっさと融資を回収しろと言われるに違いない。


晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げる。


これは銀行を表す教訓として有名だが、雲行きが怪しくなった時点で我先にと傘を奪いに来るのが実情である。



2人の反応を見て安田が苦笑する。


「彼らにも事情がありますからね...」


安田が言うように、担当者からすれば取引先の1つでしかない西川製作所ばかりに時間をかけるわけにはいかないということなのだろう。


融資先が倒産すれば大問題だが、毎月のノルマが達成できなければ上司から叱られる。


将来の問題よりも目先のノルマを優先するのは会社員として仕方ない。


西川らもそれを理解しているため担当者に文句を言ったことはなかった。



「それに粉飾が露見したとしても、返済さえできれば訴訟に発展する可能性は低いと考えています。彼らにも外聞というものがあります。融資先が粉飾をしていたと世間に知られれば、審査プロセスや社内ガバナンスなどの是非が問われるでしょう。監督機関などからも色々と言われることを考えれば、可能な限り話を内部に留めたいはずです。まあ、嫌味の1つくらいは覚悟して頂きますが」


そう言って安田は笑いながら肩を竦める。


それを見た2人も釣られて笑う。


嫌味を言われることを気にしていては中小企業を経営などしていられなかった。



「安田さん。違法性に関しては理解しました。それでは循環取引が必要な理由について教えて頂けますか?その行為がなぜ会社を救うことになるのでしょうか?」


南越からの質問により弛緩していた空気が再度張り詰め、安田と西川の表情も先程同様に真剣なものへと即座に変わる。


南越の目は真剣そのものであり、会社の存亡を賭けるに値するだけのリターンを説明しろと訴えかけている。


安田も南越の言いたいことを察しており、ここで納得させられなければ打ち合わせが終わることを理解する。



「主要取引先からの値下げ要請を拒否しつつ、新規取引先の開拓や新規事業の拡大の時間を稼ぐためです。1点補足ですが、今回の循環取引は新規の融資獲得が目的ではありません。あくまで既存の融資の回収を先延ばしにするためのものです。業績が悪化すれば返済を求める銀行が出てくるかもしれません。そして1行でも出てくれば、逃げ遅れるなと他行が追従する可能性があります。そのリスクを回避することが目的となります」


安田は鞄から資料を取り出しながら説明を続ける。


「事前に頂いた資料には目を通しました。念の為、状況確認を行いつつ説明させて頂きます。西川製作所さんは老舗の製パン機器メーカーとしてそれなりの顧客を抱えていますが、諸々の理由により近年の業績は悪化する一方です。そんな中、主要取引先の株式会社OGAMIが大幅な値引きを要請して来ました。この取引条件を飲んだ場合、貴社は赤字に転落することになります。ここまでで何か認識の相違はありますか?」


そう言って安田は2人に資料を渡す。



表紙には「経営立て直しプランのご提案」と表紙に書かれている。


表紙を捲るとそこには説明用のスライドが印刷されており、南越は手早く内容を確認していく。


西川は資料確認を南越に任せて、自らは安田に向き合って質問に答えた。


「いえ、ご認識の通りです。OGAMIは高級パンを売りにしたベーカリーの出店やフランチャイズを展開しています。社長の尾上氏は25歳と若く、スタートアップ業界からは若武者などと呼ばれているようですね。5年以内に株式市場への上場、いわゆるIPOを目指すと先日宣言しました。ここ最近の出店加速や、今回の値引き要請もそれに合わせたものになります。『これまでより多くの数を発注するのだから安くしろ。今後も発注数は増えていくから、そこで採算を取ればいい』というのが先方の言い分です」


安田は回答に頷く。



西川の説明は事前の調査を裏付けるものだった。


分かりやすい経営者と分かりやすい行動理由。


単純な相手であるなら、この後の反応を予想するのも容易い。


裏がある場合には話が面倒になるため、その点ではまだ幸いだった。



安田は鞄から別の資料を取り出す。


こちらの表紙には調査レポートと書かれていた。


「事前に信用調査会社からOGAMIの調査レポートを入手しました。財務を確認したところ出店拡大により手元の現金が少なく、キャッシュフローも厳しい状況です。メディアでの露出や社長の人気を使ってフランチャイズのオーナーを集められたとしても、設備が手配できなければ出店できません。自社出店の分を含め、自転車操業を続けるために仕入れを安くしたい、というのが本音なのでしょう」


信用調査会社とは企業などの業績や事業状況などを調査し、それをレポートやデータベースとして販売することを生業としていている企業を指す。


集められた情報は与信管理だけではなく、マーケティングや法規制対応などにも利用されており、国内に限らず海外にも利用者は多い。


安田は信用調査会社から株式会社OGAMIの調査レポートを購入したが、そこには財務や足元の事業内容だけではなく、格付けと呼ばれる企業の倒産可能性を示す指標なども記載されている。


当然ながら株式会社OGAMIの格付は低かった。



「......それで、OGAMIにはどう対処すればいいのでしょうか?」


不安げに聞く西川に対し、安田は胸を張ってはっきりと言い切る。


「値下げは絶対に受け入れてはいけません。値下げするくらいなら販売数を減らすと先方には言いましょう。それで取引が減っても構いません。彼らに追加で商品を売るとなると社内リソースをかなり取られますので、新規取引先の開拓などを行う余力がなくなります。むしろ彼らの経営状況を鑑みれば、長期的には取引を縮小していく必要があります」


「直近で取引が減った分を循環取引で補うと?そこまでする必要はあるのですか?他社との取引が順調だと言えば済むのでは......」


「足元を見てくる相手はそう簡単には引き下がらないでしょう。一度突っぱねたとしても、今期の業績が露見すればまた値下げを言い出すに違い有りませんし、その時は相手もかなり粘るでしょう。こういった交渉にはかなりの手間がかかりますし、こじれるとどう転ぶか分かりません。加えて、面倒ですがOGAMIとの取引を縮小したい一方で、貴社は今全ての取引を失うわけにはいきません。そうなれば今度は銀行が騒ぎ始めるからです。他の取引先の開拓に力を入れるためにはOGAMIとの交渉は手早く済ませる必要がありますので、OGAMIとの力関係が不利になるようなことは極力避けなければいけません」


「OGAMIとの取引は全体の3割ほどを占めています。これがなくなれば間違いなく銀行は騒ぎ始めますね......」


「相手がこれまで通りの取引額を維持するのであれば循環取引を行う必要はありません。しかし、彼らの財務状況では恐らく無理でしょう。銀行がどの水準から騒ぎ始めるかは分かりませんが、騒ぎ始めてから循環取引を行っても手遅れです。審査が厳しくなってから粉飾を行うのは難易度が大きく跳ね上がります」


融資を引き上げる銀行が出てくればその噂は広がり、後は雪崩式に逃げ始める。


数行残ったとしても西川製作所の現金が尽きれば終わりだ。


あちらを立てればこちらが立たず。


西川はため息しか出なかった。



「OGAMIに当社の業績が漏れないようにすることは無理ですか?」


それさえなんとかできれば循環取引に手を染める必要はなくなる。


不正行為に極力手を染めたくない西川は代替案を諦めきれなかった。


しかし、安田は首を横に振る。


「業績を隠そうとして信用調査会社から判明するでしょう。我々が彼らの調査レポートを購入したように、彼らも西川製作所さんの調査レポートを購入しているはずです」


「信用調査会社に当社の業績を開示しないというのはどうでしょうか?」


「お気持ちは分かりますが、その選択肢を取ることはできません。それをすると他の取引に大きな影響が出ます。まともな企業は必ず与信管理を行っており、取引の審査をする上で財務情報は必須事項です。それを開示しなければ信頼できない相手として扱われます。取引の縮小だけではなく、前払いへの切り替えを求められる可能性も十分にありえます。銀行も情報開示には注意を払っており、信用調査会社の格付けも大きく低下するでしょう」


「それであれば仕方ありませんね......」


西川はうつむいて状況を受け入れる。


残念ながら代替案はなかった。



企業同士の取引では掛け取引、いわゆる売掛金・買掛金という形で処理されることが多い。


都度現金で支払っていては手間や費用が嵩み、多額の現金を常に抱えている必要が出てくるためである。


また、売上高が大きくなりやすい事業においては掛け取引がなくては成り立たないケースも多く、取引確定後に翌月まとめて支払うのが一般的となっている。


この取引が成り立つためには相互の信頼関係、または明確な力関係が必要となる。



誰であれ、信頼できない見ず知らずの相手とは取引したくない。


そのため企業は信用調査会社を経由して、相互に経営状況や財務状況を把握し合う。


トヨタ自動車などの大企業であればネームバリューだけで信頼を得られ、トヨタ自動車相手の取引額が大きくなったところで与信管理上のリスクを指摘する人間はいない。


しかし逆に全く信頼できない相手であれば、取引の際には現金前払いを求められるのも珍しくなく、大して儲からない小口取引ともなれば門前払いされることも多い。



信用調査会社は調査先に対して謝礼を支払わないため、無料で情報をよこせとは何事かと怒る経営者は一定数存在する。


しかし、それはまともな会社と取引していないという証拠でもあり、特にガバナンスやコンプライアンスが厳しい海外ではその傾向が顕著となっている。


情報開示を拒否するという西川が提案した案は、社内でなにかしらの問題が発生していると声高に叫ぶようなものであり、業界内でそれなりの規模である西川製作所にとって非現実的な選択肢だった。



「西川社長、事前に頂いた資料には新規事業立ち上げの話が記載されていました。家庭向けの高級トースターやオーブンとのことですが、こちらの開発は順調でしょうか?」


「はい。商品開発はほぼ完了しています。今は生産ラインの調整中ですが、それよりもマーケティングの方が問題です。これまでは企業ばかりを相手していたので家庭向けは経験が浅く、まだ手探りの状況で芳しく有りません」


そういって西川は首を横に振る。


業務用で培った経験と技術により品質は問題ない。


デザインにも力を入れており、実際テストでの評判はかなり良かった。


問題は販路である。



業務用機器と家庭用機器では消費者に至るまでの経路や利用層が大きく異なるため、これまで培った販売網や営業の経験が通用しない。


家電量販店に並べて貰うにしても、新参メーカーが有名所と同じ扱いをされるはずもなく、費用面でもかなりの負担を強いられることになる。


(後は効果的な売り方さえ見つかれば......)


西川は眉間に皺を寄せて考え込むが、そこに安田が助け舟を出す。


「それであれば私のネットワークを利用しましょう。家電を取り扱っている知り合いやマーケティング企業との打ち合わせを設定します。商品コンセプトは明確なので、彼らからのアドバイスも得られやすいはずです」


「お願いします!商品サンプルはいつでもご用意できます!」


打ち合わせの中で初めて悩みの1つが解消されたことで西川から笑みがこぼれる。



西川製作所のようにそれなりの規模の企業において、新商品を出したからといってすぐに大きな業績改善に繋がるわけではない。


元々の売上高が大きいことから、新商品による売上の増加率はどうしても低くなるためである。


仮に現在の売上高が100億円だった場合、新商品が1億円売れても比率で見れば1%増に留まり、既存製品の売上が1%減少すれば帳消しになってしまう。



加えて、オンラインサービスや電子データ商品とは違って、オーブンなどは製造工程が必要で造った数しか売ることができない。


製造数を増やすには人手や原材料の手配なども必要になってくるが、販売の見通しも立たない状況で大量のリソースを割り当てるわけにもいかない。


従って、売れ行きを見つつ段階的に製造数を増やしていく関係上、業績における新商品の割合が大きくなるには商品リリースから数年は必要になる。



それでも業績不振に悩む西川製作所からすれば、新しい主力事業の誕生は極めて喜ばしいことであり、これを頑張ればこの先状況は良くなるという前向きな材料は社内の空気を大きく改善させる。


会社や組織は人から成り立つものである以上、諦観が蔓延し衰退を受け入れているような状況では経営者が立て直そうとしてもどうにもならず、何かをしようとしても現場が従わず物事が進まなくなる。


逆に言えば、そういった人々の考えを変えさえすれば、会社の経営改善は驚くほどスムーズに動き始める。


西川が新規事業に力を入れているのは単に売上増加という面だけではなく、社内の士気を立て直したいという考えもあった。



そんな西川を見て同じように笑みをこぼしながら、安田は再び話し始める。


「改めて提案を説明させて頂きます。主要取引先からの値下げ要請は拒否し、今まで通りの条件での取引を主張します。また、並行して新規取引先の開拓や新規事業の立ち上げを進め、売上拡大と取引先の移行を目指します。循環取引を行う目的は主要取引先からの調査を誤魔化し、融資引き上げのリスクを回避することです。従って、最終的な売上は循環取引の分を含めて前年比横ばいを想定し、実際の売上が増加してきたタイミングで徐々に循環取引を減らしていきます。ただし、循環取引は永遠に続けられるものではありません。稼いだ時間で目標が達成できなければそれまでです」


安田は一度言葉を切る。


そして決断を促すかのように西川を見つめる。


「しかし、このままでは赤字に転落して緩やかな倒産への道を進むか、融資引き上げによる会社解散の道を進むかしかありません。勝負するなら今しかないのです」




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