第4話 偽善
対して、
「偽善」
というものは、実際には必要悪よりも、さらにひどいものだといってもいい。そもそも、善という言葉があるだけに、たちが悪いといってもいいだろう。
偽善と呼ばれるものでよく言われるものとすれば、
「詐欺などにおいて、相手を安心させるために、行う行為が、偽善だということになるのであろう」
つまりは、自分たちの利益のために、相手を欺いて、こちらの思い通りに操るということで、やっていることは善に見えても、そこには、一切の心が働いているわけではないので、完全に、心にもないことをしているわけなので、そこに、善と呼ばれるものはまったく存在しないということになる。
それを考えると、人によっては、
「騙される方が悪い」
などという人もいるかも知れないが、そんなことはない。
相手が信じ込むほどに、マインドコントロールをできるやつがいるから、この手の詐欺はなくならないのであり、ある意味、それだけ人間は精神的に弱いといえるのか、それとも、それだけ騙される人は、人のことを信じなければいけないほどに、病んでしまっているということになるのかも知れない。
「病んでいるんだったら、人を信じないのでは?」
という人もいるだろう。
しかし、元来人間は、人のことを信用するものである。
「人のことを信頼できない」
といっている人は、必ず、一度は騙されたりした経験があるから、信用できなくなったということになるのだろう。
そうでなければ、
「人を信用するということがどういうことなのか?」
そして、
「人に騙されるということがどういうことであり、騙されてしまうと、どういうことになってしまうのか?」
ということが分かっているから、信じられなくなるのだ。
人の感情が、かたくなになるというのは、必ず、いくつかの段階を踏まなければ行きつく先ではないということになるのではないだろうか。
それを考えると、
「偽善というものは、それだけ、巧妙に人を騙す」
ということの代表例のようなものだといえるのではないだろうか。
確かに、
「騙される方が悪い」
といえるほどに、外部から見ると、思う場合もあるだろう。
警察が、絶えず注意喚起をしていたり、テレビなどで呼びかけていたりすることもあるだろうが、人から騙されたことのない人からすれば、騙されるということがどういうことなのかということが分かるはずもないというものである。
実際に、高校を卒業するまでに、
「人に騙されたことがない」
という人もいるだろう。
学生の世界では、たぶん、
「騙しやすい人」
というのは、騙そうとする人から見れば、
「分かりやすい」
ということかも知れない。
一人にターゲットを絞ると、その人に集中して、騙したり、あるいは、いじめに走ったりする。
それを総称して、
「苛め」
という言葉になるのだろう。
だから、不登校になったり、引きこもりになってしまったりするのである。
そうなってしまうと、新たなターゲットを見つけようとするのだろうが、あまり大っぴらにやると、今度は自分たちの立場が危なくなる。そうなると、彼らも用心するようになり、今度は決して、
「騙しやすい」
と思えない、曖昧な連中には手を出すことはしないだろう。
そうなると、苛めに遭う子は決まっていて。苛められない子も決まってくるということになり、結果、
「虐められたことがない」
あるいは、
「騙されることはない」
ということになるのだ。
苛めと騙されるということは同じではないが、
「その両者ともに、ハッキリと別れる」
という意味では、同じようなものだといってもいいだろう。
だから、騙されたことがない人が、ある程度大人になってから初めて騙されるというようなことになると、その時の洗脳は、結構、
「尾を引く」
ということになるのではないだろうか?
騙されるということは、ある意味、騙す方も、結構しっかりと自分がだましているという感覚をもっていないとうまくいかない。
それだけ、騙す方は、
「確信犯だ」
ということになるのだろう。
つまりは、
「表向きにはいいことなのに、実際中に入ってみると、悪いことであり、表向きにはいいことだからこそ、
相手もまわりも騙されてしまう」
ということになるのだ。
世の中には、そういう、
「実際には、それがないといけないのだろうが、騙したり、あるいは、騙される人がいることで、ひょっとすると、本来はなくならなければいけない」
というようなことが存在するのではないか?
ということが考えられる。
たとえば、世の中に存在しているものにもそれはあるかも知れない。
その一つとして、頭に浮かんできたのが、
「アナフィラキシーショック」
というものであった。
これは、ハチに刺された時などに言われることであり、
「スズメバチに二度刺されると、死に至る」
と言われるものである。
ハチという昆虫は、自衛のために、尻尾のところに、毒があり、それに刺されると、毒が回るということになっているのであった。
しかも、これはスズメバチに限らず、
「ハチというのは、毒を使うと、自分はすぐに死んでしまう」
という習性を持っている。
つまり、
「自衛のために相手を刺して、それで自分がすぐに死んでしまう」
ということであって、考えてみれば、
「それのどこが、自衛なのか?」
ということになるであろう。
つまりは、
「相手を殺傷してしまう」
ということで、自分の身が守れないということであれば、何も相手を刺す必要などないということになるのだ。
これこそ、ハチにとっては、
「無用の長物なのではないか?」
ということになるのだろうが、これも一種の、
「自衛」
ということになるのではないだろうか?
というのも、ハチという昆虫が、自分というものに自衛を考えているわけではなく
「ハチという種族の繁栄」
あるいは、
「自分たちの仲間であったり、家族を守るため」
ということを、自衛と考えているのであれば、
「ハチの毒」
というのは、本当の自衛ということになるのではないかと思うのであった。
つまり、人間でいうところの例として、
「大日本帝国」
でいうところの、
「特攻隊」
であったり、宗教団体の、過激な連中が行っている、
「自爆テロ」
などがそうであろう。
しかし、人間の場合は、明らかに、
「やらせる人がいるから、する人がいる」
ということになる。
特攻隊の場合は、
「大日本帝国時代」の立憲君主ということで、日ごろから教育で、
「天皇陛下のために、死をもいとわない」
と教えられたり、戦陣訓と呼ばれるもので、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
などということで、
「捕虜になるくらいであれば、自害しなさい」
という教育を受けてきていることから、
「死」
というものに対して、
「感覚がマヒしているのではないか?」
というように今の、民主主義で、
「平和ボケ」
をしている人から見れば、そうとしか思えないことであるが、果たしてどうなのかは、自分たちがまったくそういう教育を受けていないので分かるはずもないということになるのだ。
だから、特攻隊の人は、家族に残した遺書には、
「お国のために立派に死ぬ自分をほめてあげてください」
という内容のことを描いている。
実際には。
「もっと生きていたい」
と思っているのだろうが、戦時中ということで、そんなことをいえるわけもない。
しかも、
「死というものが確定している状況」
つまりは、もし、成功しなくて、生き残ったろしても、片道の燃料しか積んでいないのだから、死は確定しているというわけである。
そんな状態で何を言おうと、事態が変わるわけではない。潔く死ぬしかない状況だったといってもいい。
また、もしそこで逃げたとしても、どこに逃げるというのか、
原隊に戻れば、死んだことになっている人間が生きているのだ。その存在を否定しなければいけない。
さらには、軍規としては
「敵前逃亡銃殺刑」
という、厳しい軍の決まりがあるではないか、どっちにしても、
「生きることが許されない」
という恐ろしい状況にいなるのであった。
だから、特攻隊というのは、その行為に関しては、
「自殺行為」
という風に見えるのだが、実際には、まわりによって死ぬことを強要されているわけで、個人の意志ではどうなるものではない。
だったら、
「天皇陛下のため」
あるいは、
「家族のため」
ということで、潔く死ぬことが、国家のため、戦争に勝つためということであれば、それに越したことはない
ということになるのであろう。
そういう意味で、
「戦争というのは、決して起こしてはいけない」
ということになるのだろう。
前章における。
「必要悪の代表として、戦争というのがあるのだ」
というのは、正論といっていいのだろうか?
それを考えると、
「じゃあ、特攻隊や、玉砕、さらには、無差別爆撃などを認めていいものなのか?」
ということになる。
ここまでくれば、
「生と死」
というものへの考え方の違いをハッキリさせる必要があるのではないか?
ということになるだろう。
これは、
「自爆テロ」
ということにも言えることである。
ただ、自爆テロなどは、大日本帝国のように、
「国家ぐるみで、国民を洗脳している」
ということと同じなのだろうか?
自爆テロを引き起こす人たちは、
「洗脳されている」
といってもいいものなのか、それとも、
「自分たちのれっきとした意志に基づくものだ」
といってもいいものだろうか?
そのあたりがよく分からない。
つまり、
「日本のように、まわりの環境がそうなってしまうので、致し方なく受け入れるという考えなのか」
それとも
「自分たちの意志によるもの」
と真剣に思っていることでなのかが難しい。
少なくとも、自爆テロは、
「信じる宗教があり、その宗教の教えで行動しているのだから、そこに個人の意思が含まれているのだとすれば、それを、果たして、洗脳だ」
といえるのだろうか?
少なくとも、大日本帝国における。
「特攻隊」
「玉砕」
などというのは、自分の意志というよりも、強制的な力というものが優先していると思えることから。
「あってはいけないこと」
ということで、
「戦争は必要悪だ」
といっていいのか、難しいところだ。
ただ、
「致し方ない」
という、土地や水によるものであればなんともいえない。
そういう意味で、大日本帝国が、
「大東亜戦争」
に突入したのは、
「まわりからの経済制裁をどうにかしないといけない」
ということで、南方に進出したことから起こったことで、
「やむを得ない」
といえるのだろうが、これも、連合国からすれば、
「譲歩案を示しているのに、日本がそれを拒否した」
ということでの戦争突入となったので、日本とすれば、そのことを、前面に出しての、
「宣戦布告」
ということはできないということになるだろう。
それを思うと、
「日本における大東亜戦争の大義名分は、どうしても、大東亜共栄圏に委ねるしかないだろう」
といえる。
しかし、それも、十分な、
「宣戦の理由としては成り立つ」
ということであり、
「立派な大義名分」
であった。
だからこそ、連合国は、
「太平洋戦争」
という名称に変えさせたのだった。
そんな大義名分がある中で、
「戦争というのは、そんな大義名分だけで割り切ることのできるものではない」
ということになるだろう。
特に今の時代から見たかつての戦争の中に、
「一つでも、仕方がない」
といえる戦争があったのだろうか?
と思うだろう。
しかし、それは、
「本当の歴史というものを知らない」
ということから始まったことではないだろうか?
「平和ボケ」
といえば、それまでだが、確かに、かつての日本の歴史の中で、実際に、戦争がなかった期間が、こんなに長かったというのは、あまりなかったことではないだろうか?
「平安時代であったり、江戸時代の天下泰平の時代」
と言われるそんな時代だけではなかったか?
そんな風に感じさせるのであった。
日本という国は、
「平和ボケ」
だけではなく、民俗的に、本当は
「平和を望む民族だ」
といってもいいのではないだろうか?
そうなると、あの戦争も、逆に、
「すべてが仕方のない戦争だった」
ともいえるかも知れない。
「0か100か?」
という考え方が、日本人の中にあるのであれば、戦争というものは、
「きっと、そのどちらかでしかないのだろう」
ということで、戦争とは、
「妥協のないもの」
といってもいいのではないだろうか?
そんな戦争よりも、
「本当は必要なものなのだが、それがあるために、死んでしまう」
ということになりかねない。
なるものが存在しているのも事実だ。
これは、
「偽善」
という言葉と、実際にはいえるのかどうか難しいところである。
人間の身体には、必要ではあるが、その効果が、実際に悪い方に働くと、死んでしまうことになりかねないというものがある。
その場合は、その効果というものが、
「善の中にある悪だ」
ということになるのではないだろうか?
だから、世の中でいうところの、
「偽善」
とは言い切れないだろうが、
「必要悪の逆」
という意味では、その問題が絡んでくるといってもいいだろう。
つまり、
「必要悪の反対」
というものが、すべて、
「偽善」
ということになるわけでもないし、ただ、
「偽善」
というものが、
「必要悪の反対だ」
とはいえることになるのだろう。
ということは、
「偽善というものが、すべて必要悪の反対だ」
とは言い切れないということであろう。
つまり、
「偽善の中には、しょうがないと言われるようなものもあれば、悪でしかないというものもある」
といえるのではないか?
ということである。
だから、
「しょうがない偽善」
ということで、これから話すことは、あてはまるのではないだろうか。
それが何かというと、前述の、
「アナフィラキシーショック」
である。
人間は、毒物を体内に入れてしまうと、それを排除しようとして、
「抗体を作る」
という習性を持っている。
だから、ケガをした時などに、血が出て、かさぶたができたりして、自然と、それ以上の地が出ないような仕掛けになっているわけである。
しかも、
「自然治癒」
という形で、人間は、自然と身体を治すという力が備わっている。
それが、
「抗体を作る」
ということであり、できた抗体が、
「人間の身体を、もう一度同じことが起これば、その抗体が、自然治癒に導いてくれる」
ということになるのだ。
それは、風邪を引いた時なども、同じことで、特に、
「風邪を引いた時」
などというのは、
「熱が上がるという作用があるが、それは、身体の中の抗体が毒素戦っているとからだ」
と言われている。
だから、熱が上がっている時というのは、親は心配して、
「解熱作業を行おう」
と考えるが、実は反対である。
というのは、
「熱がある時は、できるだけ身体をあっためて、身体から毒素を吐き出させる」
ということをしなければいけない。
せっかく、抗体が毒素と戦っているのだから、熱を下げるという行為は、
「自分の身体の抗体の能力を低下させることになる」
ということになるのだ。
その時は、どんなに身体が熱くなっていようとも、汗がなかなか出なかったりするであろう。
本当は、身体から毒素を出したいのに、汗が毒素を吸収して出さなければならないのに、それができないから、抗体が一人で戦っているということになるのだ。
だから、身体を暖めて、抗体の力になるようにして、熱が上がり切ってしまうと、今度は、汗が出てくるので、下着を着替えて、そして、今度は熱を下げる方法を取るのである。
その証拠に、
「熱が上がっている時、患者は、ブルブル震えている」
という状態だったのではないだろうか?
身体が熱くてしょうがないのに、ブルブル震えているというのは、おかしなことだといえるのではないだろうか?
それを考えると、
「熱を下げる」
ということをしてしまうと、却って、抗体の邪魔をしていることになるのである。
それを知らないと、せっかくの抗体の意味がなくなってしまう。
考えてみれば、病院からもらう、
「頓服」
と言われる熱さましは、たいていの場合、
「38度以上の熱が出ないと、使わないでください」
と言われるではないか。
確かに、熱が低い時に、強い薬を飲んでしまうと、却って、次は利かなくなったり、強すぎて、他の内臓に影響が出てしまったりということは十分にありえることであろう。
しかし、それだけの理由ではない。
抗体とのバランスから、
「飲むタイミングを考える」
ということが一番重要なことである。
だから、病院からは、頓服として、
「2,3個」
くらいしかもらえないのだ。
そもそも、他の内服薬として、
「3日分」
というのであれば、
「1日1個」
ということで、それこそ、38度以上の熱が出た時に使用して、
「一度使用すれば、一日くらいは十分に効いている」
ということにもなるということだ。
それを考えると、
薬というのも、身体の抗体とのバランスを考えて服用しないといけないということで、
「むやみやたらと飲むものではない」
ということになるであろう。
そんな抗体なので、普通に考えれば、
「自分の身体の中にあるものなので、これ以上の善はない」
ということになるだろうが、
「おっとどっこい、そうは問屋が卸さない」
ということになるのが、
「この抗体」
というものである。
それを、
「そうは簡単にいかない」
という状況にするというのが、
「アナフィラキシーショック」
というもので、いわゆる、
「アレルギー症状の一種」
というわけである。
このアナフィラキシーショックというものの、何が問題なのかというと、
「ハチに刺される」
ということから考えた場合にいえることなのであるが、
「二度目に刺された時」
ということなのである。
というのは、一度ハチに刺されると、そこで、ハチの毒というものが入ってくるわけである。
致死に至らないまでも、毒であることには変わりはないので、
「人間は、本能で、抗体を作る」
ということを自然に身体が行うのである。
その時できた抗体が、二度目にハチに刺されたその時に、入ってきたハチの毒に対して、他の毒素と同じように、
「相手をやっつけよう」
という反応をするのだ。
この反応が、過剰になってしまった場合のことを、
「アナフィラキシーショック」
というのだ。
つまりは、
「ハチの毒では、死なない」
ということなので、別に抗体に頑張ってもらう必要がないということになるのである。
しかし、人間の身体はそんなに都合よくできているわけではなく、
「毒素によって、抗体を作る作らない」
ということを決めるわけではない。
それを考えると、余計に、
「抗体なんか作らなくてもいい」
と言いたいかも知れないが、毒の中には、
「抗体がなければ、確実に死に至る」
というものもある。
もっといえば、
「1時間以内に、血清を打てば、助かることができる」
ということで、もし、抗体がなければ、そのまま即死」
ということになるとすれば、どう考えればいいだろう?
「その毒素に対してであれば、抗体がなければ困るわけで、逆にハチの毒ということだけに例えていえば、抗体が余計なことをする」
ということになる。
だから、これも、
「しょうがない」
ということであり、しかし、この存在は、時と場合で、それこそ言葉通りに、
「毒にもなれば、薬にもなる」
ということ、そのままである。
だから、これを、
「偽善」
ということとは違う発想にはなるが、
「必要悪というものの反対」
ということであれば、理屈としては合うといってもいいかも知れない。
ちなみに、
「ハチの毒でないのであれば、どうして死ぬのか?」
ということであるが、
「一度刺された時に、ハチの毒に対してできた抗体が、二度目に刺された時に入ったハチのを抑えようとするときに、アレルギー状態を引き起こすことで、ショック状態になるということであった」
これが、いわゆる、
「アナフィラキシーショック」
というもので、
「抗体がある以上、しょうがない」
といえるだろう。
それを防ぐためには、
「アレルギーを起こすようなものを接種しない」
ということで、最近、よく言われることとして、
「食品などのアレルゲン表記」
というものである。
つまり、前から言われている、
「人間に対してもたらされるアレルギー」
というものを、食品には、必ず表記しないといけないということである。
そうしないと、
「ハチの毒」
ということに限らず、
「アナフィラキシーショック」
というものが引き起こされるということになるから、一歩間違えると、命取りになるということなのであった。
代表例としては、
「乳製品」
「ナッツ」
「フルーツ」
などのアレルギーであり、食品だけに限らず、ゴム製品のような。
「ラテックスアレルギー」
であったり、
「金属アレルギー」
などというものもあることで、身体全体が、アナフィラキシーショックを引き起こすということになりかねないということであった。
ただ、よくよく考えると、この問題は昔からあったが、昔はそこまで大きな問題になってなかっただろう。
たとえば、小学生の給食などで、
「牛乳アレルギー」
に近い人がいても、学校では、
「最後まで飲まないと、家に帰してくれない」
なとという、まるで苛めのようなことが行われていた。
それに、そこまでアレルギーのショックも大きくなかったのかも知れないといえるのではないだろうか。
そう考えると、
「アレルギーの種類が増えてきたのか?」
あるいは、
「人間の方の体質が変わってきたのか?」
さらには、
「食品自体が、以前と変わってきたのか?」
ちなみにいうと、調味料の変化というのも、これに当てはまることではないだろうか?
そんなことを考えてみると、
「アナフィラキシーショック」
というのも、最近、聞くようになった言葉である。
昔からあったのかも知れないが、それをいかに考えるのかというと、
「特に日本人の食生活が豊かになってきた」
というのか、
「欧米化してきた」
と言えばいいのか、何ともいえない。
ただ、アナフィラキシーショックというものが確かに存在している以上、一番の問題は、
「ショックを起こしそうなところに近づかない」
というのが一番であろう。
しかし、ハチというのは、いつどこで飛び出してくるか分からない。
「森や林に行かなければいい」
ともいうかも知れないが、たまに、家の見えないところに、ハチの巣ができている」
などということは普通にあったというものだ。
そうなると、食品であったり、接触物には触れないようにすればいいということになるのかも知れないが、
「ハチ」
という生物に関しては、どうしようもない。
そうなると、結果として、
「もし、ハチに刺されたのだとすれば、運が悪かった」
ということでいいのだろうか?
諦めで済むということには、決してならないのではないかと思うのであるが……。
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