第3話 必要悪

 世の中にある

「必要悪」

 というものに、

「タバコ」

「食品添加物」

「やくざ」

「戦争」

 などというものがあげられている。

 似たような意味で、一つ考えられるのが、

「パチンコだ」

 といえるのではないだろか?

 パチンコというと、皆、

「ギャンブルだ」

 と思うかも知れないが、法律的には、あれはギャンブルではなく、遊戯といえるもので、パチンコ屋というのは、ゲームセンターと同じくくりだと言ってもいいだろう。

 だから、パチンコ屋というのは、風営法という法律で、ゲームセンターと同じ扱いになるのであった。

 風営法というと、

「風俗関係」

 と思われがちだが、実は、普通の飲み屋であったり、ゲームセンターのような娯楽施設も、風営法で管理されることになる。そもそも、風俗関係もそうなのだが、風営法というのが、実際に一番強いというわけではない、

 というのも、営業時間なども、基本的には、風営法によって規定されてはいるが、実際の法律としては、都道府県条例というものがあり、これは、

「都道府県で勝手に決められる」

 というものなので、

「風営法の範囲内」

 ということで、都道府県ごとに決めることができる。

 だから、例えば風営法の営業時間が、「午前6じから、午前0時前までと決まっていれば、その範囲内であれば、条例で都道府県ごとに決めることができ、店もその条例の範囲内で営業時間を決めるのだ。

 さらに、ソープのような、特殊風俗となると、都道府県条例は結構厳しかったりする。

「〇〇町1丁目以外では建設してはいけない」

 などという決め方である。

 特に大阪に至っては、

「ソープランドを建設してはいけない」

 ということになっているので、風営法が変わらない限り、大阪でソープを作ることは、ありえないと言ってもいいのだ。

 というのは、風営法で、

「ソープランドは、新規参入してはいけない」

 ということになっている。

 既存の店が支店を作ったり、別館として利用するのはいいが、それ以外はダメになっている。

 しかも、コンセプトに合わせて、店内を完全に改造してしまうことも許されない。だから、大阪では、ソープ開業は、

「すべてが新規」

 ということになるので、

「今後はありえない」

 ということになるのだ。

 特殊浴場のような性的特殊風俗は、法律的にもかなり厳しい状態だと言ってもいいだろう。

 必要悪の中にあるパチンコというのは、

「遊戯」

 というと、かなりの人が、違和感を感じることだろう。

 それは、

「現金に換金できるのだから、ギャンブルではないのか?」

 と思うのは当たり前のことである。

 しかし、それも、

「三店方式」

 というやり方があり、それが、パチンコ屋というものに大きな影響を与えているのであった。

 パチンコ屋では、景品に交換するところまでが、

「パチンコ屋の仕事」

 ということになる。

「じゃあ、換金所は何なんだ?」

 ということになるが、

「あれは、景品を現金に返る商売で、そう、近いといえば、質屋に近い感覚というか、景品という商品を買ってくれるところがある」

 ということになるのだ。

 しかも、それが、パチンコ屋とは直接関係のないところがやっているということなので、ギャンブルとはいえないという、ある意味、

「法律の目を盗むようなやり方」

 であった。

 そもそもパチンコ屋というところは、やくざなどの資金源とも言われた時期があった。もし、彼らが、パチンコで資金を得られないと、今度はもっとひどいものに手を出すことになる。

 麻薬であったり、売春行為、そんな明らかな犯罪で資金を手に入れるよりも、まだパチンコによっての方がまだいいと思われていた時期があった。

 それは、昭和のいわゆる、

「戦後の動乱」

 という時期くらいであった。

 やくざというのは、

「みかじめ料」

 なるお金をもらって。地域の商店街などの用心棒として、街の治安を守るという役目をしているところもあった。

 それが、本当にいい方法なのかは分からないが、戦後の動乱の時期であれば、守ってくれる人が、やくざであろうが、ありがたいことであった。

 だから、

「必要悪」

 というものの中に、

「やくざ」

 というものが含まれているということになるのだろう。

 確かに、

「やくざの抗争」

 ということで街の治安が乱れることもあるが、もし彼らがいなければ、無法地帯となって、治安以前の問題になっていたのかも知れない。

 それを思うと、民主国家になってから、警察の権威は失墜した。それまでの、

「国家権力の象徴」

 というほどの、威張り散らした警察はいないのだ。

 しかも、治安維持法に守られた国家権力として、

「特高警察」

 というものは、それはひどいものだったという。

 いうことを聞かせるために、拷問が日常茶飯事だったことで、国民は震え上がってしまい、国家権力が、強制的に、治安を守るというそんな時代だったのだ。

 それが、敗戦によって、民主国家になった。警察の権威よりも、国民の人権であったり、

「自由、平等」

 という精神が、警察による取り締まりも、あくまでも、法律の範囲内ということになった。

 だから、民主国家では、治安維持法のような恐ろしいものは存在しない。そういう意味で、戦前の、

「立憲君主国家」

 だった、

「大日本帝国」

 では、治安維持法というものこそが、

「必要悪だった」

 と言ってもいいのかも知れない。

 必要悪の中には、

「えっ、どうしてこれが必要なの?」

 と思うものもある、

 その代表例としては、

「戦争」

 というものではないだろうか?

「人を理不尽に殺傷する戦争というものが世の中で必要とされるというのは、どういうことなのか?」

 と考えられることであろう。

 確かに、戦争というのは、

「いつの世であっても、なくなることはなかった」

 と言ってもいい。

 太古の昔から、人間は戦争をしてきた。最初の頃は、生活するために必要な水であったりを求めて、土地の問題での小競り合いなどから、次第に武器を使っての殺し合いのようなことをするようになってきた。

 日本でも、縄文時代までは、そこまではなかったことだろうが、弥生時代に入って、稲作を行うようになると、

「水」

 というものが必要になり、その水のために、川の領有が問題になる。

 だから、隣の村と戦争になったりするのだが、それが次第に国が生まれてくるようになると、

「土地の拡大」

 ということを目指すようになる。

 そこに、

「村の治安」

 としての秩序のようなものが起こってくると、中には欲によって、支配を考える人も出てきて、内乱によって、村長が交代することもあるだろう。

 そうなると、今度は、外への侵略を考えるようになる。

 侵略される側は、村を守ろうとして、そこで、戦争になるというのも、無理もないことであり、それが結果として、戦争によって、

「吸収合併」

 のようになり、次第に、大きな国家ができてくるようになるのであった。

 そして、国が一つにまとまると、

「邪馬台国」

 であったり、最終的には、

「大和朝廷」

 のような、一つの国家となることになるのだろう。

 日本の場合は、その朝廷の中心にいるのが、

「天皇」

 という、昔からの、絶対君主といえる存在があったので、朝廷ができてからは、

「一つの国家による中央集権」

 というものに進んでいくことになる。

 ただ、日本と違い中国は、絶えず、

「国家が変わっていく」

 ということになった。

 途中には、

「三国志」

 あるいは、

「春秋戦国時代」

 という時代もあり、王朝がどんどん変わっていく。

 とは言っても、日本でも、時代という意味では何度も変わっていった。

 途中から、武士がおこってきたことで、それまでの、

「天皇による中央集権」

 といわれる、いわゆる、

「律令制度」

 というものが崩壊し、武士によっての、

「封建制度」

 というのが生まれてくる。

 これは、律令制においては、公家や貴族中心の世の中に、いくら武士というもののような、

「戦闘集団」

 というものがあっても、それは、

「荘園を守る」

 という意味でのことでしかないということになり、あくまでも、

「武士というものは、貴族よりも下」

 としてしか見られていなかったのだ。

 しかし、それが、貴族同士の勢力争い、さらには、天皇の後継者問題などというものが絡んで、戦争が起こると、武士がどんどん力を持ってくるようになると、

「貴族には抑える力などあるわけはない」

 ということになるのだ。

 そもそも、貴族のように、平和ボケをしていて、それこそ、世間知らずの連中に、何ができるというのか、それこそ、

「貴族というのは、今の時代でいえば、政治家のようなもので、本当に腐っている存在ではないか」

 ということになるだろう。

 貴族というのが、どれだけ腐った存在なのかというと、今の政府を見ていれば分かる。

 やっている政策は、国民の意志をまったく無視したものが多く、

「何をいまさら法整備をしようというのか?」

 というものもある。

 それこそ、本当にしなければいけない時に何もせず、ある程度収拾がつき始めた時に、何かをしようなどというのは、それこそ、

「何を考えている」

 と言われ、

「政策が後手後手に回る」

 ということで、国民が政府を信じなくなってくるのだ。

 しかも、もっと悪いのは、

「それに対抗すべき野党の存在が、政府与党よりも、さらに情けない状況になっている」

 ということであった。

 今の政府であれば、野党が追及して、追及できるだけのことを野党がやってくれれば、

「政権交代」

 ということもありえるはずだ。

 しかし、それが実際にできるわけではない。

「野党の政府と同じようなことをしているではないか?」

 ということで、汚職であったり、言動なども、あとから、国民に指摘され、マスゴミなどから追及されることで、慌てて、釈明会見を行うなどという、情けなさであった。

 中には、釈明ところか、

「自分は悪くない」

 と言い切って、国民に逆らう姿勢を示す議員もいる。

 そんなやつが、一億国民を敵にして、一人で戦えるわけもなく、結局、にっちもさっちもいかなくなって、結局辞任に追い込まれることになるだけだ。

 もし、普通に謝罪していれば、ほとぼりが冷めれば、また政治の舞台に復帰できるかも知れないものを、せっかくのほとぼりも、うまくいくわけはないということになるのではないだろうか。

 それを考えると、

「世の中、いい方に変えるのは、相当に覚悟がいり、大変なことであるが、悪い方には何もせずとも勝手に変わっていく」

 ということになるのである。

 日本国に限ったことではないが、政府というのは、今も昔もひどいことしかできないのであろう。

 武士の世界になって、鎌倉幕府などは、気の毒なところもあったが、一番の問題は、

「徳政令を出した」

 ということではないだろうか?

 御家人が困っているということで、借金棒引きという、徳政令を出したことで、御家人にはありがたがられたが、

「貸した金を返してもらえない金貸しや商人は、溜まったものではなく、幕府を恨んだのは当たり前のことだ」

 といえるだろう。

 しかし、世の中の経済がよくなるわけではないので、すぐに、武士の生活は困窮する。

 そうなると、また借金しなければいけなくなるのだが、今度は、金貸しが、応じてくれない。

 それも当たり前のことであり、

「ここで金を貸して、また徳政令でも出されて、金が返ってこないなどというのは、たまりませんからな」

 と言って、

「借金の申し込み」

 さえも、受けてくれなくなる。

 そうなると、御家人は、

「今日の食事もない」

 ということになるのだ。

 そういうことになると、もうどうしようもなくなり、

「幕府に対して、すべての国民が不満を持つことになる」

 ということで、それが鎌倉幕府の滅亡の最初だったのだ。

 そこに目を付けたのが、

「後醍醐天皇」

 であり、

「天皇中心の国家に戻そう」

 ということで、武士を味方につけ、倒幕を行うのだった。

 何しろ、天皇からの、勅命があるのだから、武士たちには、大義名分があるというものだ。

 鎌倉はあっという間に崩壊し、後醍醐天皇による、

「建武の新政」

 というものが始まった。

 しかし、これは、平安時代の昔に戻すということで、

「命を懸けて戦った武士に恩賞が少なく、何もしていない貴族に、鎌倉幕府の土地が湧け与えられるという状況になったことで、今度は天皇に対しての不満が出てきた」

 ということである。

 そもそも、

「建武の新政」

 というのは、

「後醍醐天皇が、政治のすべてを見る」

 ということで、一人で何もかもなどというのはできるはずもなく、しかも、昔に戻そうとするのだから、武士が不満を持つことは当たり前だ。

 だから、武士たちは、

「鎌倉幕府のような、新しい幕府の建設」

 というものを考えるようになる。

 そこで、足利尊氏を担ぎ出し、天皇の政権から、また武士の政権へと戻すために、天皇一派を滅ぼすことで、国家は、

「足利幕府」

 というものができて、新しい武士の世界が出来上がることになったのだ。

 基本的には、鎌倉幕府の政策や政治体制を踏襲しているということになるのだが、どうしても、幕府自体の力が弱く、しかも、足利将軍というのが、あまり権力のない人が多かったりしたので、結果、応仁の乱を代表として、いろいろな大名同士の戦が起こったりしたのだ。

 そして、時代は、完全に応仁の乱で、諸国を留守にした隙に、所領を主君から奪い取るというような、

「下剋上」

 と呼ばれる時代となり、それが、

「群雄割拠」

 と呼ばれる、

「戦国時代への突入」

 ということになったのであった。

 そんな時代が室町時代の半分を占め、100年以上続いていくことになるのだから、それこそ、

「戦争というものが、どこでも起こっていて、いつ攻められるか分からず、滅亡の危機と背中合わせのような時代だった」

 と言ってもいいだろう。

 そんな時代において、

「秩序や正義」

 などというものが本当にあったのかどうか、実に疑問だったといってもいいだろう。

 この時代の戦争がどういうものなのか分からなかったが、今の時代に、戦国時代というと、歴史の中でも、

「一番好きな時代」

 という人が多いのも、事実である。

 はやり、

「派手さ」

 というものがあるからなのか、今であれば、ゲームなどで、戦国時代を扱ったものも多く、しかも、そのキャラクターが、

「イケメンにできている」

 ということで、女性ファンなどがついたことで、ゲームも売れると、歴史ファンが増えるということで、

「お互いにいいのではないか?」

 と思っている人もいるだろう。

 特に、それまで、歴史を、

「暗記物」

 ということの毛嫌いしていた女性たちが、一時期は、

「歴女」

 と言われるほどに、その楽しさというものを味わうことができるようになってきたのだった。

 だが、実際に昔からの歴史が好きだという、

「歴史をオーソドックスに好きな人」

 から見れば、

「ゲームなどというまやかしでファンが増えるのは、ありがたくない」

 と思うだろう。

「学問として」

 あるいは、

「社会の教訓として」

 ということで歴史を好きな人からみれば、

「これほど面白くもないことはない」

 といえるだろう。

 特に、にわかファンというのは、昔から、

「節操を知らない」

 ということをいわれていた。

 特に、歴史的建造物であったり、史跡などというと、歴史を好きではない人であっても、

「守らなければいけないものだ」

 ということくらいは、普通に分かるというものである。

 しかし、時代が変わってくれば、そんな文化財などに対しての興味は薄れ、

「だったら、何もしなければいい」

 ということで、今までは別に被害はなかったのだ。

 しかし、時代が変わって、歴史が好きでもない人が、ゲームの影響というだけで、

「戦国時代が好きになった」

 などと思っている人からみれば、本当は面白くもないのに、話題性というだけで、

「推しのかかわりのある土地を訪れてみたい」

 ということで、いかにも、

「私は、聖地に行ってきたのよ」

 と言わんばかりに、そこで写真を撮りまくったりするだろう。

 中には、ひどいやつもいて、

「ここに私が来たという証拠を残そう」

 とばかりに、建造物の柱などに、自分の名前を書くなどというふざけたことをしている人もいるだろう。

 たぶん、そういう連中は、自分が悪いことをしているという意識もないのだ。

 ユーチューバーが、注目を浴びて、

「バズらせたい」

 という理由だけで、たとえば、堂々と盗みを働いて、それを見た警察にわざと追いかけさせ、それを、もう一人に動画に収めさせ、それをネットで公開させることでバズらセルというようなことが、一時期流行ったことがあった。

 最初にやったやつは、

「一万歩譲ってであれば、まだ許せる」

 というかも知れないが、ひどいのは、二番煎じの連中である。

「他人がやったことがバズったのだから、自分たちがやってもバズるはずだ」

 というようなことを本当に考えたのだろうが?

 もしそうだとすれば、

「これほどバカなやつもいない」

 ということである。

 何といっても、二番煎じでウケると思っているという、その浅はかな発想が、実にバカだということである。

「人のふんどしで相撲を取る」

 という言葉があるが、それこそ、

「お前のどこに、プライドがあるということなのか?」 

 ということが言いたい。

 つまりは、

「ユーチューブでバズって、有名になりたい」

 と思ったとして、人がやったことで有名になって、何が楽しいというのだろう。

 自分が、

「他の人が思いつかないようなことをして。それでバズった」

 というのであれば、まだわかる。

 いい悪いの問題はあるが、最初に、この悪いことをした人であれば、それこそ、

「他人の思いつかないことをした」

 ということで、自己満足でもいいので、自分を納得させることはできるだろう。

 だから、

「一万歩譲っても」

 という言い方をしたのだ。

 決していいことでもなければ、ほめられることでもない。

 それでも、自分でやってみたのだから、それはそれで、ありえることだということである。

 しかし、プライドも何もなく、人のしたことを真似るというのであれば、それは、

「物まね」

 というものではなく、ただの、

「猿真似」

 というだけだ。

 芸術でもなんでもない。

 そもそも、

「ユーチューブ」

 というのは、配信という形で、

「芸術を発信する」

 というものではないだろうか。

 それが、

「ユーチューブ」

 というものであり、それを他人の発想で行うというのであれば、

「芸術でもなんでもない」

 ということであり、

「芸術の何たるかを分からずに、芸術でバズろう」

 というのは、これほど甘い考えはないというものだ。

 自分が、何をすればいいのか分からずに、ただ、他人の真似をするだけというのは、完全に、

「本能で動いているだけだ」

 ということになる。

 それであれば、人間である必要はない。

 もっとも、

「人間というのが、一番賢くて、最高の動物だ」

 などということを言おうとしているわけではないが、少なくとも、

「せっかく人間に生まれてきたのだから、人間を楽しもうという考えが人間だけに与えられたものなのかも知れない」

 とはいえ、

「人生を楽しむことができない人が多い」

 というような、

「世の中甘くない」

 という人たちもたくさんいて、実際に戦争の被害に遭っているという人が少なくないということを考えると。

「人間ほど、甘くない動物も少なく無いだろう」

 といえるのではないだろうか?

 歴史を好きな女性が、いたずらをするというのは、たぶん、無意識だろう。だからこそ、他の人は腹が立つのだ。

 それは、

「歴史の好き嫌いは別にしてである」

 何といっても、歴史が好きな人からすれば、

「最近は、歴史を好きになってくれた人が増えたのはありがたいが、その変わり、マナーの悪い人が増えてきた」

 という言われ方をするのだ。

 この言われ方というのは、

「歴史のにわかファンが、こんなことをしている」

 ということを分かっていっているのかどうか分からないが、少なくとも、聞いている人からすれば、

「歴史ファン全体が悪い」

 と言われているように思える。

 これは、キチンとマナーを守って、歴史を愛でている人からすれば、一番腹が立つことである。

 その連中にも腹が立つし、自分たちを、

「一絡げ」

 ということにして、すべての責任を、

「歴史ファン全体」

 に押し付けようというのは、これほどひどいということはないということだ。

 それを思えば、

「歴史ファンというものが、そんなにひどいということを言われるのは、実に心外なことである」

 ということになるのだ。

 それは、

「タバコのマナー」

 にしてもそうだ。

 今では、

「受動喫煙防止法」

 などというのが、増えてきていて、

「タバコが吸える場所が少なくなったので、中にはマナーを堂々と破って吸っている人もいる」

 これは、

「法律は守っているのだから、マナーくらい関係ないだろう」

 と思っているのか、少なくとも、こんな世界にした社会、あるいは、国を恨んでいることには違いない。

 しかし、そんなマナーが悪い連中をタバコを吸わない人が見ると、

「喫煙者は皆、マナーが悪い」

 ということになるだろう。

 ただでさえ、今の時代では、

「タバコを吸う」

 というだけで肩身が狭い思いをさせられるのに、そんな中で、一人でも、喫煙者の中に、

「マナーが悪い」

 やつがいると、世間の目は、喫煙者の気持ちなど分かるわけはないので、

「喫煙者=マナーが悪い」

 という風に決めつけるのである。

 確かに、これでは喫煙者がかわいそうだが、だからと言って、タバコを吸わない人が迷惑をこうむっているのは間違いないことで、そのために、

「喫煙者がすべて悪い」

 と思っている連中を恨むのはお門違いである。

 実際には、

「マナーを守らないやつが、自分たちの勝手な理屈で、堂々とふるまっているというわけで、それこそ、

「自分たち以外、仲間であるはずの喫煙者まで敵に回した」

 といってもいい。

 いや、それ以上に、

「マナを守る喫煙者の方から、余計に恨まれる結果になっている」

 ということである。

 それだけ、自分たちが悪いことをしているということに気が付いていないということなのであろう。

 戦争は、戦国時代だけではなかった。江戸時代は鎖国政策も、幕府が反乱がおきないように締め付けもしていたことで、ほとんど、大きな戦乱になるようなことはなかったが、ペリー来航により、いよいよ日本は開国することになったが、そこで押し付けられた不平等条約によって、欧米列強に追い付く必要があり、

「富国強兵策」

 というものを推し進めることで、国家が大いに国防と、殖産興業に向かうことになったのだ。

 それによって、対外戦争もやむなしということになり、明治の二大戦争を経て、いよいよ世界の列強に頭を並べるようになると、中国進出から、大東亜戦争に突き進むことになった。

 確かに、明治以降の戦争を考えると、

「日本が国防のため」

 つまりは、

「生き残るためには必要だった戦争」

 ということを考えると、

「戦争が必要悪だ」

 という考えは、

「決して無理なことではない:

 といえるのかも知れない。

 しかし、今の日本は、いくらアメリカに押し付けられたとは言っても、民主国家である。

 しかも、それまでの、軍国主義、そして、

「立憲君主制」

 だった大日本帝国を

「徹底的に否定している」

 といってもいいだろう。

 もっといえば、

「日本のかつての時代時代の節目でも同じことが起こっているではないか?」

 ということである。

 たとえば、江戸時代に入った時、それ以前の、

「豊臣政権の遺産」

 というものを、徹底的に破壊している。

 もっといえば、明智光秀が信長を撃った時も、

「信長のかかわったものを、徹底的に破壊した」

 という事実もある。

 さらに、明治政府が倒幕を果たすと、江戸時代の徳川政権のものを徹底的に破壊、あるいは否定して。

「この世にその痕跡を残さないようにする」

 ということになったではないだろうか。

 特に、

「考え方」

 であったり、

「イデオロギー」

 というもの、さらには、伝説や、血統にかかわるものも否定したではないだろうか。

 特に教育に関することで、歴史などでも、徳川に関しての逸話として残っているものは、どんなに小さなものでも、批判するというくらいの徹底ぶりではなかったか。

 だから、

「関ヶ原の戦い」

 においても、

「西軍の光成」

 を、悪く言わなくなったり、

「大阪の陣」

 において、徳川家康を、

「切腹寸前にまで追い込んだ真田信繁を、江戸時代は、悪として描いたのだろうが、明治になると、まるで英雄であるかのようにたたえている」

 ということになったのであった。

 要するに、

「時代が変われば、考え方も、歴史解釈も、その時代の覇者によって、いかようにも変えられる」

 というものであろう。

 それは、大東亜戦争後でもあったことだった。

 特に、今度は、戦勝国から、占領されることで、今までのイデオロギーも考え方も、すべてを否定され、新たな、まったく違う体制を築こうというのだから、大変だったことだろう。

 何しろ、

「占領軍は日本の歴史を知らないのだ」

 というのは、あとから勉強することはできるが、学校で教わったというわけではないので、

「どのような教育を日本人が受けてきたのか?」

 ということは分からない。

 だから、

「日本人の考え方は、日本人に変えさせるしかない」

 ということで、国家やマスゴミに、徹底的に、民主主義というものを植え付けることになったのだろう。

 だから、前述の、

「大東亜戦争」

 という言葉も、今だに、

「太平洋戦争」

 などという中途半端な言い方でごまかしているのだ。

 そもそも、あの戦争は、中国大陸での、シナ事変から始まったことなので、少なくとも、

「アジア」

 という言葉は必要である。

 だから、

「東アジア」

 という意味での、

「大東亜」

 という言葉が一番ふさわしいのだが、これを連合国は認めるわけはないのだ。

 そもそも、東アジアは、昔の大航海時代において、列強がアジア、アフリカに進出し、植民地を作ったことで、アジア全体が欧州の、

「大きな植民地」

 になってしまったのだ。

 それを考えたうえで

「日本という国は、東アジアの植民地化した国をアングロサクソンから解放し、東アジアに日本を中心とした新秩序の建設ということでの、大東亜共栄圏を作る」

 ということが、本来の戦争目的だったわけだ。

 だから、戦争の名称を、シナ事変にさかのぼって、

「大東亜戦争にする」

 と、閣議決定したのだった。

 ただ、この名称は、連合国にとっては、

「日本の戦争目的を認め、自分たちが悪であるということを認める」

 ということになる。

 それだけは許せないということで、日本が占領下にある間だけ、名称を変えさせたのだった。

 だから、独立した後は、

「大東亜戦争」

 といってもいいはずなのに、それをいまだに、

「太平洋戦争」

 といっている。

 それこそ、

「日本は平和ボケをしたのではないだろうか?」

 といってもいいことになり、

「何が正しいのか?」

 ということになるのだろう。

 あの世界を破滅に追い込むだけの、二つの世界大戦を経ても、いまだに戦争が絶えることはない。それどころか、小競り合いのような戦争が頻発し、中には、内乱をずっとしている国だってあるわけだ。

「これのどこが必要悪なのか?」

 ということであるが、国によっては、自爆テロなどでも平気で行う、かつての大日本帝国のようなところもある。

 しかし、それはまったく違うイデオロギーなので、決して一緒にしてはいけないという考えになるであろう。

 とにかく、戦争というのは、

「宗教などのイデオロギー」

 であったり、

「生きていくために必要なもの、土地やそれに付随する水などを必要とするため」

 ということで戦争を起こすものである。

 後者であれば、

「致し方がない」

 ということで、

「必要悪」

 ということを認めることもできるかも知れないが、

「イデオロギー」

 というものを果たして、

「必要悪として認めるかどうか?」

 というのは難しいところだといえるだろう。

 それを考えると、戦争に関しては、

「グレーな部分が多い」

 といえるのではないだろうか?


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