第2話 あとを引く時代
会社においても、当時よくあったこととして、
「サービス残業」
と言われるものがあった。
今の時代においても、似たような、
「サービス残業」
と呼ばれるものがあるが、それは、昭和の頃とは少し趣が違っているといってもいいだろう。
今の、
「サービス残業」
というものは、
「残業申請をすることなく、仕事が終わらないから仕方なくしている残業」
というものである。
よく言われる、
「ブラック企業」
と呼ばれるところに多くあるもので、
「法律上では、ありえないサービス残業を、曖昧な形でさせる」
というのがブラック企業というものである。
今の時代は、
「コンプライアンス」
というものがしっかりしているはずで、
「セクハラ」
「パワハラ」
あるいは、
「モラハラ」
などと言われるたくさんの、
「ハラスメント」
というものが、社会において問題となるのだ。
だから、法律が整備され、最初の頃はそれに沿った形での企業体制にもなっていたのだろうが、会社としても、
「そうきれいごとばかり言っていられない」
ということなのか、法の整備はできても、それを取り締まったりする行政が、ちゃんとできていないから、
「ブラック企業」
などというものが蔓延るのだ。
今の時代において、いや、今の時代だからこそ、そういう
「立法」
と、
「行政」
というものをしっかりと賄っていくようにしなければいけないのに、実際には、
「立法が先行してしまい、それに行政がおいついてこない」
と言ってもいい。
もっといえば、警察や自治体などが、違反者に対して何もできないという状況がまずいのだということに気づいていないということが問題なのだ。
そんな今のような時代において、さらに、政府がひどい状態になるのだから、行政が追いつくわけがないということになる。
令和という今の時代も、
「救いようのない時代」
であるが、そもそもは、以前の政治家が
「取りこぼしてきた問題のツケが回っている」
と言ってもいいだろう。
「やるだけのことをやって、世の中を変えたなどとうそぶいていた政治家たちがたくさんいたが、それこそ、歴史が答えを出してくれる」
ということであるとすれば、
「出した答え」
というのが、どういうものなのかというと、
「引き返すことのできないところまで来てしまった」
ということであろう。
それが、過去の遺産として、
「国の返し切れるはずのない借金」
であったり、
「少子高齢化」
という問題。
さらには、
「地球沸騰化」
と言われる、今までの、
「地球温暖化」
という言葉をはるかに凌ぐ、とんでもない世の中に、負の遺産を残したということになるのであろう。
それは、昭和の時代から続いてきているものであり、その時代に残した、
「負の遺産」
というものが、今の時代にも残ってしまっているといっても過言ではないだろう。
というのが、まずは、
「原爆問題」
である。
戦後、80年以上も経っているのに、いまだ、
「国の補償問題というのが残っている」
というのはどういうことであろうか?
確かに範囲を決めなければいけないということは当たり前で、例えば、
「爆心地から、半径数キロ以内」
などということで制限を掛けてしまっていて、実際には、そこから遠いところでも、原爆認定されるべき人がいて、その人たちがどんどん訴訟を起こすことで、いまだに解決していないということになる。
国はそのたび、どんどん幅を広げていくことになるのだが、考えてみれば、
「最初から幅を広げておけば、こんなに長引くことはないのだ」
といえるだろう。
目先の損益というものを考えてしまったことで、自分たちが、それを解決できずにいることで、そのままどうすることもできなくなり、結局、再度裁判で認めなければいけなくなるということは、
「裁判が長引いて、それだけ税金が使われる」
ということになるのだ。
被害者は気の毒であるが、それ以上に、政府の対応のまずさが、余計に問題を大きくしたり、長引かせることになるのだ。
さらには、高度成長時代の、
「負の遺産」
としての、公害問題である。
こちらは、もっとひどく、
「分かっていたことを、何とかごまかそうとして、被害を拡大させたなどという事実があることで、なかなか、審議が続くわけもない」
ということであろう。
裁判中に、どんどん、過去の酷い問題が浮き彫りになってくることで、
「政府は信じられない」
と、裁判の原告側だけでなく、ニュースを見た国民も、次第に、
「国は信じられない」
と思わざるを得なくなるであろう。
それを思うと、
「今の世の中、いくらごまかそうとしても、うまくいくはずなどない」
ということは、その頃にすでに分かっていることであろう。
特に、ここ10年くらいの間で起きた、世間を騒がせる事件としては、
「公害問題にまったく学んでいない」
と言ってもいいだろう。
特に、
「食品業界における産地偽装」
であったり、
「スポーツ界の暴力事件」
など、一つが出てくると、どんどん、その模倣からなのか、どんどん、あとからあとから出てくるというものである。
「産地偽装問題」
というのは、確かに一つ出てくれば、次から次に出てくるというものであった。
これはあまりにも、出方が芋ずる式だったということもあって、
「最初の事件発覚は、誰かのリークか何かであり、マスゴミなどが、他の秘密を握っていて、いまだとばかりに、情報を一気に放出したことで、大きな社会問題になった」
ということではないだろうか?
本来であれば、弾けるばかりの情報が、マスゴミにはあって、
「それが、一つの発覚によって、一気に溢れたと言ってもいいのではないだろうか?
というのは、
「まるで、バブルの崩壊のようだ」
と考えられるのではないだろうか?
バブルの崩壊というのは、いきなり起こったように感じられ、もっといえば、
「どうして誰も気づかなかったんだ?」
ということになるだろうが、
「気づかないわけはないじゃないか」
と思える。
もし、これが一人の問題であれば、
「気づかなかった」
などというと、たとえば、経済評論家などであれば、死活問題と言ってもいいかも知れない。
本来なら、
「気づいていた」
と言いたいのかも知れないが、言えないという事情があったのだろう。
もしそれを口にして、社会がさらにパニックにならないかということを考えると、
「じゃあ、どうすればよかったのか?」
ということになるだろう。
バブル崩壊というものを考えると、過剰融資というものが一つの問題であった。
これがどういうことなのかというと、
「当時のバブル期は、事業を拡大すればするほど儲かる」
と言われていた。
だから、企業は事業拡大のために、資金が必要になる。そしてそれを銀行に委ねるということになるのだ。
銀行とすれば、
「金を貸しても、間違いなく、貸した会社は儲かって、自分たちも潤う」
と思っているのだから、
「銀行のこの場合の利益というのは、利子によるもの」
ということであるから、
「それであれば、たくさん貸す方が、戻ってくる金がたくさんになるから、銀行も儲かる」
ということだったのだ。
しかし、バブルが弾けると、企業が回らなくなる。
何といっても、企業は、
「資金を回す」
ということでの、
「自転車操業」
と言ってもいいだろう。
一つが焦げ付いてしまうと、すべてに影響し、まわりを負どんどん巻き込むように、何もうまくいかなくなる。
「連鎖倒産」
であったりが蔓延ると、当然銀行は、
「貸した金を返してもらえない」
ということになり、利息どころか、元本も返ってこない。
当然、貸した額が大きいのだから、それが何件にも膨れ上がれば、銀行自体が、
「バブルのように、実態のないものだ」
ということなのだから、うまくいくはずなどない」
ということになるのだ。
そんな、
「過剰融資」
というものが焦げ付けばどうなるか?
ということを誰も分からないというのもおかしいというものだ。
実際に、サービス残業などというものを強要する会社は、本当は、
「減ってしかるべき」
なのに、どんどん増えている。
特に今の時代は、本当であれば、
「社員ありき」
ということで、
「実力主義の時代」
と言われているにも関わらず、まだまだ日本は、昔の、
「年功序列」
であったり、
「終身雇用」
というものが、いまだに幅を利かせている。
バブル崩壊後の日本」
では、
「失われた30年」
という言葉が叫ばれている。
これは、
「他の国では、その間に、少しは経済成長することによって、基本給、つまりは、ベースアップが上がっている」
と言ってもいい。
しかし、日本の場合は、決して給料が上がることはない。それがなぜなのかというと、
「企業が内部留保」
をしているからだといえるのだ。
内部留保をするから、世間で物価が上がっても、給料は上がらない。これは、
「終身雇用というものがなくなってきているとは言われるが、実際にはいまだに終身雇用というものがある会社が多い。そのために、会社が、簡単に社員の首を斬ることができず、不況に陥った時、リストラをするか、大きな会社に吸収合併されるかということがなければ、会社は生き残れない」
ということになるのだ。
だから、会社が不況で危なくならないようにするという、
「その時のために、会社でたくわえが必要になる」
ということなのだ。
それぞれに、その態勢が中途半端であることから、
「会社というものが、不況になると、社員の首切りに走らないようにするために、今は蓄えておく必要がある」
ということになるのだ。
実際に、不況になったり、世の中の経済が瀕死の状態になった時でも、日本は、失業率がそれほどではなく、会社の倒産というのも、そこまではなかった。
ということだったのだ。
それが、数年前に起こった、
「世界的なパンデミック」
というものがその代表例だと言ってもいいだろう。
確かに、物価が上がって、給料が上がらないのだから、市民の生活は苦しいものであるが、だからと言って、内部留保を食いつぶしてしまうと、今度は会社が危なくなってしまい、何もできなくなる。
ただ問題は、
「そのバランス」
というものであった。
いくら内部留保が大切だといっても、物価の急上昇によって、
「働いていても、明日の性格が危ない」
ということになると、それこそ、内部留保を使わないといけない時期になるのではないだろうか?」
何しろ日本における内部留保の額というのは、
「安っぽいものでは決してない」
ということになるだろう。
だから、会社とすれば、
「内部留保で、リストラを回避している」
と言えば、何とか言い訳になるというものであろう。
しかし、
「内部留保」
というものが多くなり、社会のバランスが崩れてくると、世界情勢の中から取り残されるということになる。
内部留保がこんなにたくさんある国は日本だけであろう。
「終身雇用」
ということを中途半端に存続させてきたことが原因なのかも知れない。
今の時代において、就職活動もうまくいかず、ほとんど、正社員ということがありえない時代になってくると、
「契約社員」
や、
「派遣社員」
などという雇用形態が、当たり前のようになってくる。
いわゆる、
「非正規雇用」
という時代である。
非正規雇用というと、会社側からすれば、
「首を簡単に切れる」
ということと、
「給料がそれほど高くなくて、正社員がする仕事を振ることができる」
ということになるのだ。
社員側とすれば、会社から、理不尽な責任を押し付けられることもなければ、
「もし会社を首になっても、派遣先は他にもあるだろうし、派遣会社を辞めるという方法もある」
ということになるのだ。
給料がいくらになるかということが問題なのだが、最近は、法律でも、
「非正規雇用のベースアップ」
ということが決まってきているので、今までと、派遣社員に対しての待遇も変わってくるに違いない。
それは、確かにそうなのかも知れない。
今まで、派遣社員に冷たかった、派遣先の会社でも、
「世間の動き」
というものから、
「派遣社員の待遇もいい」
という会社も増えてきたのも事実だろう。
しかし、旧態依然として、
「今までのように、派遣社員というのは、給料が安く、簡単に首にできる」
ということを考えている会社もあるだろう。
そういう会社が、
「法の目を盗む」
かのようにして曖昧なことをしていたり、分からないところで、会社の都合のいい雇用をしようとしているのだろう。
だから、
「法の整備はできていても、それを扱う会社が、しっかりしていないことで、苦しむの社員という人間なのだ」
ということである。
会社というものをいかに扱うか?
ということが問題になる。
世間では、
「ブラック企業」
などと言われている会社が山ほどあるのに、それを行政はどうすることもできないというのは、
「年金問題」
「人手不足問題」
などと、解決できない問題を抱えながら、どんどん新しい問題が噴出してきて、しかも、「そんなことは、昔から分かっていることではなかったか?」
と言われている今であっても、世の中も行政も、
「見て見ぬふり」
ということになってしまうのではないだろうか?
それが、今ある、
「ブラック企業」
なのである。
そんな時代において、
「どんな時代がこれから待っているのか?」
ということを考えたことがあった。
「時代というものが、いかなる相手を追いかけるのか?」
と考えると、
「一つ頭に浮かぶものとして、
「偽善と、必要悪」
というものであった。
基本的に、偽善というものを、
「善の中にある悪」
というものが、
「偽善」
というものであり、
「悪の中にある善」
というものが、
「必要悪」
ということになるのではないだろうか?
つまりは、もっといえば、
「偽善と呼ばれるものの神髄は悪」
ということであり、
「必要悪」
と呼ばれるものの神髄は善だ」
ということになるのであろう。
必要悪と偽善というものは、それぞれに相対するものであり、それを、反対語のように考えれば、前述のような、
「中の下」
と、
「下の上」
とを見比べた場合に、どちらが上になるか?
ということに似ているといってもいい。
それはあくまでも
「後ろの言葉が、その神髄である」
ということであれば、必要悪と、偽善の関係というのも、分かり切ったことだといえるのではないだろうか。
「偽善というものは悪」
であり、
「必要悪というものが善だ」
ということに、一刀両断で考えていいものだろうか?
ということになる。
「善悪」
というものを考えた場合、そのすべてにおいて逃げられないものというのは、
「善からは逃げられない」
といえるのではないだろうか?
「悪というものと善を比べれば、勧善懲悪というものはありえるが、勧悪懲善というものはあり得ない」
といえるだろう。
つまり、
「同じ数だけ善と悪に分かれていれば、最終的には、悪が本当の悪だけが残ることになり、最後には、正義が勝つ」
と言ってもいいだろう。
だから、必要悪と呼ばれるものは、完全な善ではないことから、参加できないが、逆に、偽善も参加できない。
さらに、必要悪と偽善では、
「どっちの方が数が多いというのか?」
ということを考えてみる。
偽善というのは、表に正体を見せないようにするものであり、必要悪というのは、逆に、自分が善だとは思っていないので、悪だという意識から、まわりに知られないようにしようと考えるであろう。
だから、必要悪も、偽善者も、
「どれだけの数がいるか?」
ということは分からない。
それでも、必要悪というのは、まわりからその存在を認められている。それが、
「パチンコ」
などという遊戯だったりする。
逆に偽善というと、
「人を騙して私腹を肥やす」
というような、詐欺にかかわる連中のことをいうのだろう。
詐欺における偽善行為は、やっている本人たちは、
「これは偽善だ」
ということは分かっているだろう。
自分たちが、
「悪者だ」
ということを意識しているからであり、だから、
「確信犯だ」
と言ってもいい。
彼らは、自分たちのことを、
「悪である」
ということを分かってやっているのだ。
それは、偽善というものが、
「表向きにやっていることが善であることで、心根としては、悪であっても、自分たちが善であるという錯覚をしてしまうのであろう」
それだけに、
「相手を騙す」
ということが簡単にできるのだ。
というのは、
「偽善者というのは、本当の偽善者にしかできない」
ということだからである。
中途半端な気持ちで偽善行為をすれば、
「本来なら、偽善行為というものは、相手を騙すということでの、表向きの善である」
ということになるのに、実際には、
「相手を騙すという気持ちがなければ、そのうちに、後ろめたさによって、自分がやっていることが何なのか分からなくなるのだ」
ということである。
だから、
「偽善というものは、誰にでもできるものではない」
ということになり、
「必要悪」
というのも、善の心が最終的に、悪を抑えることができないと、本当の悪になってしまう。
そういう意味で、
「お互いに、なろうとしている本質の性格でなければ、務まることではない」
ということになり、それだけ、
「偽善も、必要悪も、自分の中で、覚悟のようなものが必要だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「善と悪」
というものが、それぞれに相対するものであれば、
「偽善と必要悪」
というように、それぞれに相対するものがあり、それが、
「善悪の正体となる」
と言ってもいいのではないだろうか?
その感覚が、
「中の下」
「下の上」
というものの本質を見極め。いずれは、
「大分類における、大中下というものの本質に近づくことになるのではないか?
ということになるであろう。
これから、
「偽善と必要悪」
この二つが、いずれ、見極められることとなるだろう。
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