欲による三すくみ

森本 晃次

第1話 相対するもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年12月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。


 学校などの成績で、

「クラスの中で、自分がどのあたりにいるか?」

 などという時、

「中の下」

 であったり、

「下の上」

 であったりなどという言葉がある。

 まずは、

「上中下」

 と三段階に分けて、その中のそれぞれにも、また三段階に分ける。

 そのやり方にて、ちょうど、9段階に分かれるわけだが、その中での表現として、

「中の下」

 などということが出てくるのだ。

 つまりは、最初の

「中」

 というのが、大分類となる分け方で、後ろの、

「下」

 というのが、その中での中分類で分けた場合に、下に位置しているということになる。

 ということは、

「下の上」

 というよりも、上にあるということになるだろう。

 もっといえば、例えば数字で表したとして、90人いて、それを点数ではなく人数で分けるとすれば、分かりやすいだろう。

「点数で分けるのはちょっと」

 という人がいるかも知れないが、そもそも、入学試験などというと、定員が決まっている中で点数を競うということで、問題は点数ではなく、

「上位何名」

 ということになる。

 つまりは、

「平均点が高いと、いくら点数がよくても、上位から見て、順位が定員に達しなければ、不合格ということになる」

 ということである。

 逆に、

「平均点が低ければ、自己採点などで、点数が低かったとしても、順位が定員内にいれば、合格ということになる」

 ということだ。

 しかし、この場合は、

「学力的に、許容される点数すら満たしていなければ、いくら順位が定員を満たしていても、

「合格というわけにはいかない」

 というのは、普通にあることである。

 何といっても、成績を満たしていなければ、せっかくいい点数を取ったとしても、そこは、優先順位として、

「まずは、定員に見たる必要がある」

 ということで、さらに、

「最低許容点数を満たしているか?」

 という2段階となるだろう。

 ここでいえば、人数的に、

「中」

 には入っているが、

「中の下」

 として、

「その点数が、満たされていなければ不合格だ

 ということになり、結果、合格におぼつかないということになるのである。

 だから、この時の入学試験においては、テストの結果の点数によって、合格者というのは、

「中の下というランクは含まれない」

 ということになってしまう。

 だから、ランクは3つでは足りない。大分類だけではなく、中分類も必要だということになるのである。

 そう考えると、

「9段階」

 におけるランク付けというのは、本来なら必要ないのかも知れないが、合格、不合格の合否を決めるという特別な場合には必要だということだろう。

 それは、進学という意味での試験だけに限ったことではない。たとえば、

「国家資格」

 であったり、

「就職試験」

 あるいは、

「芸術家の登竜門である、コンテスト」

 と言われるようなものは、特にそうだろう。

 そして、基本的にそういう試験というのは、審査に関しては、問い合わせ不可というのがほとんどであろう。下手に問い合わせがあり、それに真面目に答えていると、このあたりの説明が必要になったり、たくさんの人が問い合わせをしてくれば、その人に対しての対応になると、他の不合格者との絡みや、合格者との絡みにおいても、理不尽であったり、どこか、捻じれた回答になってしまったりで、

「トラブルの下」

 ということになってしまうに違いないのであった。

 特に、

「芸術家の審査」

 なるものは結構、曖昧なところが多く、

「ブラックだ」

 と言われることも多いのではないだろうか。

 特に、小説家になるためということで行われる、

「新人文学賞」

 などという、有名出版社が行っているコンテストなどは、そうかも知れない。

 そもそも、昭和の頃までは、

「文学賞」

 と呼ばれるもののほとんどは、

「有名出版社による新人賞」

 であったり、

「文学賞」

 というものか、かつての文豪と呼ばれる人の名前を冠したものが中心だったりした。

 だから、文学賞というと、

「年に数回しかない」

 というもので、しかも、応募人数も、そこまでたくさんはいなかったことだろう。

 しかし、文学賞も最近ではどんどん増えてきていて、

「毎月どこかで数件の公募があったりする」

 というものである。

 特に増えてきたのは、出版社主催というよりも、現地の自治体が主催となって、たとえば、ご当地の祭りの一環として、

「当地のことを題材にした作品」

 ということで、文学賞というものが開催されるというところも少なくない。

 だから、従来型の有名出版社による新人賞などでは、ある程度ジャンルが絞られていた李したもので、例えば、

「ミステリー新人賞」

 であったり、

「SF新人賞」

 などと言ったジャンルごとが多かったりした。

 しかし、

「ご当地文学賞」

 というと、

「ご当地の文化や伝統を題材にしてくれれば、ジャンルは問わない」

 ということになるのだ。

 それは、そもそも、出版社の新人賞が、

「新人発掘」

 ということを目標にしているのと違い、ご当地文学賞というのは、あくまでも、作品によって、

「ご当地の知名度が上がる」

 ということが目的なので、最初からの趣旨が違うということになる。

「出版社系の文学賞」

 というのは、

「人の発掘」

 であり、

「ご当地文学賞」

 というのは、それこそ、

「人の問題ではなく、作品というものによって、自分たちの宣伝に一役買ってくれる」

 ということで、

「人と作品の違い」

 ということになるだろう。

 しかし、いくら作品だけと言っても、受賞したという経歴があれば、それが、作家としての箔になるということは間違いない。

 確かに。

「出版社系の文学賞」

 というと、基本的に、受賞作は、書籍化されたり、さらに、出版社と契約をして、その出版社ご用達の、

「新人作家」

 として売り出すことができるということで、

「一つの登竜門を超えた」

 ということになるだろう。

 しかし、それはあくまでも、

「スタートラインに立った」

 ということであり、実際に、

「自分が小説家として、本当にやっていけるか?」

 ということはそれからのことである。

「出版社系の新人文学賞」

 というものに公募するということは、基本的に、

「作家としてデビューしたい」

 と思っている人がほとんどであろう。

 だから、新人賞受賞後のことも、頭に入れていることなのは分かり切っている。

 しかし、中には、それが分かっていても、新人賞を受賞したことによって、自分の才能が、

「本当は、受賞作で燃え尽きた」

 ということに気づいていない人も多いだろう。

 逆に、

「自分は受賞で燃え尽きた」

 と自覚する人もいるだろう。

 次回作を、もちろん、出版社も期待するし、自分では、

「それにこたえなければいけない」

 という風に考えてしまう。

 だから、そのことを考えてしまうと、余計にプレッシャーに掛かり、

「まさか自分がこんな風になるなんて」

 と想像もしていなかったような、まだデビューもしていないのに、スランプに陥るということになるのであった。

 実際に、そういう小説家のタマゴと言われる人たちがたくさんいるという。

「新人賞を取ってから、次回作が書けなくて、そのまま消えていく人」

 あるいは、

「次回作まで発表にこぎつけることはできたが、その内容への批判がひどく、精神的に病んでしまい、そこから先の執筆活動ができなくなってしまう人」

 そういう人は、小説界から足を洗う人もいれば、新人作家のまま、原稿の依頼がないまま、作家として中途半端な状態で、

「アルバイトをしながら、食いつないでいる」

 という人や、

「奥さんの稼ぎ」

 で生活をしている人というのも少なくはない。

 自分は、文筆界において、とりあえず席が残っているということで、

「できる執筆界のアルバイト」

 というものをしているということになるのだ。

 それがどういうものなのかというと、これが皮肉なことなのだが、

「下読みのプロ」

 と呼ばれることをしている人もいるのではないだろうか?

 この、

「下読みのプロ」

 と呼ばれるものは、そもそもが、自分が執筆界に入ってくるきっかけになった、

「出版社主催の新人文学賞」

 にかかわりのあることであった。

 これは、一般的には知られてはいないことで、出版社が、

「審査に関しての問い合わせは一切不可」

 と言っているところでもあった。

 実際の審査としては、ほとんどのところは、

「第二次歳差」

 というのが、予選のようなもので、

「最終審査が後残っている」

 ということになる。

 応募要項などに乗っている、

「有名作家の審査員」

 というのは、この最終審査でしか出てこないのだ。

 だから、ほとんどの作品は、最終審査のプロの人に読まれることもなく消えていくということになる。

 そんな中で、第一次審査というものの合否を決める人が、

「下読みのプロ」

 と呼ばれる人たちである。

 彼らは、

「送られてきた作品のいくつかを受け持つ」

 ということになる。

 そして、彼らがそこで審査することというと、実際には、

「審査と呼ばれるところまで行っていない」

 と言ってもいいだろう。

「下読みのプロ」

 と呼ばれるように、第一次審査というのは、あくまでも、下読みでしかない。

 下読みというものは、

「誤字脱字などがないか?」

 ということであったり、

「執筆作法の最低限のマナーが守られているか?」

 というあたりを審査するのであり、

「作品の良し悪し」

 というものにはまったく審査を入れるものではない。

 ということになるのだ。

「段落がちゃんとできていなかったり、誤字脱字が多いということになれば、その時点で、最後まで読まれることもなく、落選する」

 ということだ。

 だから、文学的にどんなにいい作品であっても、

「下読みのプロ」

 の段階で落とされてしまうということになると、結局、

「作品評価ということに至るわけもなく、ひょっとすると、優秀作品がこんなところで埋もれてしまう」

 ということになるかも知れない。

 だから、中には、最初の応募で、一次審査で落とされた作品ということであっても、再度の推敲を行い、他の新人賞に応募すれば、そこで、新人賞受賞したということになるかも知れない。

 もちろん、まれであるということは当たり前のことだろうが、こういう審査方式を取っている以上、ありえないことでもないということになるのだ。

 下読みのプロというのは、よく考えると、

「自分の作品でもないのに、これからプロを目指すという過去にあった自分の心意気いを持っている人たちの作品を読むことが精神的に耐えられるものなのか?」

 と思えるのだ。

 確かに、

「新人賞を取ったのだから、これからプロになるということで、執筆活動に専念するために、会社を辞めてしまった」

 という人もいるだろう。

 しかし、出版業界、あるいは、作家のプロというのが、そんなに甘くはないということを身に染みて感じさせられたということになれば、

「会社を辞めてしまい。退路を断ったことが、どれほど自分を苦しめることになるかというのを、感じさせられることであろうか?」

 その行きつく先が、

「下読みのプロ」

 というわけだ。

 いまさら会社に戻れるわけもないし、かといって、他の仕事に就くのも怖い。

 では、小説家として、

「文筆界にいるしかない」

 と思うと、

「下読みのプロでも仕方がない」

 といえるのだろうか。

「俺がそれまで持っていたプライドってどこに行ってしまったのだろうか?」

 ということを考えてしまうと、

「下読みのプロ」

 に徹することは、持っていたであろう自分のプライドを著しく傷つけるものだということになるであろう。

 そうなってしまうと、

「これからどうすればいいのか?」

 ということになり、サラリーマン生活しかしたことがなかった人間が、どこの会社に所属するということもなく、一匹狼といえば聞こえがいいが、実際には、

「依頼がないと何もできない」

 ということで、食っていくために、アルバイトで食いつなぐということになるのであった。

「こんなことなら会社を辞めなければよかった」

 と思うのは当たり前のことで、ひょっとすると、

「小説家になりたいなどという夢を見るのではなかった」

 というところまでさかのぼって、後悔することになるであろう。

「一度は、新人賞という高みを見ることができた」

 というのは事実であって、ただ、それが最終目標というわけではなかったのだ。

 それを最終目標だということにしてしまうと、

「それ以上の成長はない」

 ということになるわけで、それまでに、いくつも段階があり、その段階が、自分のターニングポイントになるということも本当は分かっていたはずなのだ。

 しかし、

「さすがに、新人賞を取って、あからさまに、自分の限界のようなものを知ることになるなんて」

 ということを感じてしまうと、

「小説家というものが、どういうものなのか?」

 ということになるのかを考えさせられてしまうだろう。

「やはり、自分には無理だったのか?」

 と考えるが、そもそも、最初の頃は、

「どうせ俺には無理なんだ」

 と思っていたはずだ。

 それは、そこまで深い考えではなく、

「小説家のプロになれれば、儲けもの」

 というくらいの軽い気持ちだっただろう。

 ただ、それでも、小説を書けるようになるまでに、だいぶ努力が必要で、場合によっては、

「考え方を変えないと小説を書くことはできない」

 というように考えるようになったのだった。

 そして、書けるようになると、今度はいろいろなプロの作品を読んだり、ハウツー本などで勉強し、それまでは、

「ただ、最後まで書ければいい」

 という段階から、今度は、

「プロになるための階段」

 というものに差し掛かっているということを感じるのであった。

 小説を書くということは、

「段階を踏まなければできない」

 ということであり。それは、他のことでも同じには違いないが、特に小説家になるとなると、その段階が明らかに他のこととは違うということに気づくことになるのであろう。

 それを考えると、

「最初から、無理だったのではないか?」

 ということで、今度は、

「小説家になった自分を、そのまわりから、いわゆる、他人事のように見る」

 ということになるのではないだろうか?

 そうなると、余計に、

「小説家に対して感じていた思いが、どんどんその道に近づいてきて、見えるようになると、自分が実際に小説家になった時、そのギャップやジレンマを感じることになる」

 ということを感じていたのかも知れない。

 だから、

「新人賞を取った」

 という時、うれしい反面、どこかに不安めいたものがあったのだと感じていたようだった。

 これも、他のことでもいえることであろうが、特に、それが、

「自分の目標として目指すものだ」

 と考えると、

「目標というものが、どれほど大変なことなのか?」

 ということを感じさせられるのであった。

 そんな中で、

「中の下」

 であったり、

「下の上」

 であったりするものがあれば、

「実際にはどちらがランクは上なのか?」

 ということを考えると、ほとんどの人は、

「中の下の方が上である」

 と答えるに違いない。

 それは当たり前のことであり、

「最初のランクが、後ろよりも優先する」

 ということだからである。

 最初の比較が、

「中と下」

 なのだから、当然のことながら、

「中の下」

 の方が上だというわけだ。

 これが、

「中の中」

 と、

「中の下」

 との比較であれば、最初のランクは同じなのだから、後者の方での比較になるので、

「中の中の方が上だ」

 ということになるのである。

 こちらの方が、比較する場合に、

「分かりやすい」

 と言ってもいいだろう。

 それを考えると、

「前よりも後ろの方の比較の方が、無意識に比較しやすい」

 と言ってもいいだろう。

 それを考えると、

「人間というのは、無意識に考える方が、結構考えやすいということになるのではないだろうか?」

 ということであった。

「次の瞬間には、無限の可能性というものが広がっている」

 ということを聞いたことはないだろうか?

 それを普通に、

「当たり前のことだ」

 と思うのか、誰もいちいちそのことについて言及しようという人はいない。

 もちろん、心理学の先生であったり、ロボット工学の先生などは、意識しないわけにはいかないのかも知れないが、一般人であれば、誰も気にすることもないといえるだろう。

 それは、

「人間の潜在意識というものが、それを考えさせる」

 ということになるからだ。

 人間にとって潜在意識というものが、どういうものであるのかということを考えると、

「普段から、意識することなく、行動ができ。その判断が正しいのか間違っていたのかということは、意識しなければ分からない」

 というものではないか。

 人によっては、

「その判断が正しかったのか間違っていたのかということが、人生において、大切なことではないか?」

 というのだろうが、果たしてそうなのだろうか?

 確かに、その判断をするのは自分かも知れないが、その自分の判断が本当に正しいのかどうか、誰が判断するというのか?

「勉強していれば分かる」

 と、大人によってはいうやつがいるが、それこそ、

「自分の考え方の押し付け」

 ではないだろうか。

「親だから、いいんだ」

 というやつもいるが、そうやって子供を押さえつけることで、子供がろくなことにならないということだってあるではないか。

 特に今の時代には、幼児虐待」

 というものがある。

 いまさら、

「親の威厳」

 というのは、

「昭和時代の古めかしい考え方であり、令和の今の時代にいえることではないだろう」

 昭和時代の勝手な押し付けによって、子供がいかに大変な思いをしてきたのかということは、いまさらながらの問題である。

考えてみれが、昭和の時代の、

「父親」

 というと、

「父親というのは、絶対的な存在であり、子供は父親のいうことを聞いて当たり前だ」

 という考えだったのだ。

 それは、子供というものが大人に対して、

「逆らえない」

 ということなのか、逆にいえば、

「それだけ父親には威厳があった」

 ということであろう。

 ただ、昭和という時代が、

「父親に対して、威厳を持たせることができた時代だった」

 ということになるのかも知れない。

 父親が威厳をいうものを持つことによって成り立つ、

「家長制度」

 というもの。

 戦後から、昭和の高度成長時代くらいまでは、確かに、

「父親の威厳」

 というものがあった。

 しかし、子供からすれば、父親の威厳という力で、操られていたといってもいいだろう。

「父親から言われたことは絶対で、逆らうことはできない」

 という思いはありながら、他の家庭と比較してみたりすると、理不尽さに気づいてくるというものであろう。

 学校では、

「差別や同和問題」

 などというものを、道徳の授業で教える。

 さらに、社会科で、

「人権問題」

「個人の自由」

 などというものを教えられると、いくら家族とはいえ、

「他人ではないか?」

 ということを思うようになると、父親に対しての思いが変わってくるというものだ。

 しかも、同じ父親でも、

「自分の父親と、友達の父親では、まったく性格もタイプも違う。だから、家庭でも、その威厳というものが違う」

 と思うようになる。

 だから、

「どうして俺だけ、こんなに父親に縛られなければいけないのだ?」

 ということを考えてしまうに違いないのだった。

 それが分かると、

「父親に対して下側寝蹴ればいけない」

 という気持ちと、

「縛られなければいけない」

 という理不尽さを考えると、

「親には逆らうものだ」

 ということを感じてしまうのであり、もっといえば、

「押さえつけようとするから、こんな風に、逆らいたくなるというものではないだろうか?」

 と考えるのであった。

 実際に、父親の権威というものは、高度成長時代くらいまでであっただろうか?

 何といっても、

「お父さんが帰ってくるまで、晩御飯はお預け」

 というような、今では信じられないような時代だった。


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