ドラゴンテイル・外伝~竜にまみえし光輝の王

四號伊織

1


 遥か昔、遥か遠き虚空のことである。


 大いなる虚空のうちで、三つの輝きがあった。

 まず語ったのは太陽の神である。

「同胞よ。ここで最も優れたる者はいずれだろうか」

 朗々たる太陽の神の声は続く。

「万物をあまねく照らし灼く我こそ、それに値するものではないか」

 太陽の神に応じたのは別の輝き――星の神であった。

「この虚空を占める我が劣るとは思えぬ。この輝きはそれぞれ無二のもの、優れることはあっても劣るはずがない」

 太陽の神は自らの言葉が誤りではないこと、同じように星の神の言葉が偽りでないことを悟った。ともに神であるがゆえに。

 星の神もまた、太陽の神の言葉が正であることを認めざるを得なかった。かの神は素晴らしく優れており、〝最も優れている神〟の位置にとても近いということを。

 二つの輝きはそばに控える月の神の言葉を待った。

 月の神は揺れる声で(月の顔を思い出すとよい)、〝二輝〟に応じる。

「太陽の神の強さも、星の神の知恵も、いずれも素晴らしきもの。その二つが重なれば、さらによきものとなるのではありませぬか」

 月の神の言葉はもっともなものであった。

 太陽の神と星の神がうなずいたときである。


 そこに、一際優れたる輝きがあった。


 三輝の神はその英明で、新たな神の出現を認めた。

 太陽の神の強さある言葉と、星の神の知恵ある言葉と、月の神の慈悲ある言葉より生まれた神である。

 バイラーヤシュルール。虚空にて太陽と星と月より生まれた美の神は、さらなるよきものを産み出そうと、大地を作り生命を作り、人を作った。



 かくの如く。

 我等が大地は虚空より神の掌によって護られしもの。

 我等は等しく美の神より生まれたるもの。

 その加護を受けし者である。



 ※

 


「――偉大なる美の神よ、護り手よ」

 あたりには華やかな香りが満ちている。万では足りぬほどの花から作られた貴重な香が惜しみなく焚かれていた。五百人は座することのできそうな広さの礼拝所で、薫香が届いていない場所はない。

 王宮内の祭壇の前、四十路に入ったばかりの王はひざまずき、頭を垂れる。その後ろに数百の男たちが地に伏していた。祭礼はなにかしら日毎にあるものだが、月に一度の〈四輝の日〉は、主だった臣下を従えての大祭礼である。

 皆が揃って華やかな正装だ。神前で美を示すのは神への畏敬の証。諸人の下に敷かれた厚い絨毯も、色とりどりの花の柄を織り込んだ最上級のものだ。

 その中で響いたのは実に朗々とした、なめらかな声。

 祭礼は王の務めであった。この場で――神前で声を発することが許されているのは王のみ。真に神々に言葉を捧げられる者こそ、この地の王なのだから。

 王たるに相応しい、敬虔さと美しさを宿した声の主はわずかに顔を上げる。

 美丈夫、と呼んで差し支えないだろう。その顔立ちからは高貴の産まれらしい華やかさと、重々しすぎない不思議な軽さが垣間見える。祈りの場という、この国でもっとも真摯なところにあってなお消えぬ、愛嬌に似た軽さこそ、この男の本質かもしれなかった。

 

「輝けるバイラーヤシュルール、我等に御身の加護を。真に強きものを見極める目を」


 幼い頃から何千回と唱えた讚句はとうに身にしみついていて、この場にいるだけで自然と歌うように声が出た。

 かつては幕の向こうで聞くだけだった。

 長じては王の後ろでその声を聞いた。

 今の己は人々の先頭にあり、神に祈りを捧げている。


「真に知恵を用いることができる心を。真なる慈悲を持つ魂を。御身の恵みをこの身と、この身が統べる者たちに等しく与えたまえ」


 ――美とは。


 クレイグの王――ジャライル・ルルカ・バーサラディは己に問いつつ顔を上げる。

 眼前には物言わぬ神像。だがその姿は白銀の絹で覆われて見えない。神の姿をゆえなく拝するのは不敬とされている。

 楽隊が礼拝曲を奏でだした。祈りの後に演奏する〈暁にかの光を見ゆ〉という古い曲だ。

 ジャライルは神に深く頭を下げる。神像の前に左右から絹の幕がかかった。幕が閉じたのを察し、ジャライルはゆっくり立ち上がる。

 立つ足の歩幅まで退出の際の作法はこまかく定められていたが、それらを誤るような王ではない。

 古めかしい音曲を背に臣下たちの並ぶその中央を歩き、ジャライルは礼拝所を出た。



 ※



 礼拝所を出てもなお、己の周囲に香りが残っている気がした。

 扉を出たところで、そぱにひかえていた黒衣の男が一礼し、極彩色の回廊を歩くジャライルの横に並ぶ。二人の年は似たようなものだが、男はジャライルよりも細く顔色がやや暗い。顔だけでなく立ち振る舞いや姿そのものにどことなく影があった。

「更衣の準備は整えてございます。陛下」

 隣に立つ男がうやうやしく言うのを聞き、ジャライルは顔をしかめる。

「いい加減、口調を戻せばどうだ、エシャール」

「それこそ王への無礼でございましょう」

「たった二人の兄弟だろうが」

 さてこのやりとりも何度目のことだろうか。

 先王は漁色家ゆえ、王の兄弟姉妹は何人もいるが、同腹の身内はこのエシャール・ルルカ・バーサラディのみ。

「王と王子では立場も違うというもの。――それに私は継承権を捨てた身でございますれば」 

「それを認めたのが余の唯一の失策だったわ」

 わざと軽口めかして返すと、エシャールの口元がわずかにほころんだ。

 自分は王になるほどの才はなく、なによりも子をなすことがない身だからと、エシャールは継承権を放棄した。今では王宮の内部を差配する〈王の扇〉という役目についている。国を動かすには足りずとも、こまごまとよく気がつく弟は、身内として〝家〟を任せるには最適だった。

 王とその弟はゆっくりと回廊をゆく。回廊横の庭園では極彩色の宮殿に負けじと、色とりどりの花が咲いていた。

「今日の宴はデグエダとだったか」

「はい。それゆえいつもよりおとなしめの衣を御用意いたしました」

 王にとっては夕食も外交の場だ。美を尊ぶこの国では、他人をもてなすならば、主が着るものも客に出す料理もより華やかにというのがならわしだが、隣国デグエダは質素を重んじる属国だった。

「陛下の好みとはいささか異なることもございましょうが――」

「かまわぬ。もてなしとは、相手に添ってこそだろう」

 デグエダから訪れているのはまだ二十にもなっておらぬ王子だった。表向きはより栄えた隣国に留学している、ということになっているが、なんのことはない、ていのいい人質だ。

 デグエダは貧しく、大陸に覇を唱えた〈盟王〉に献じられるだけのものもない。ゆえにクレイグの属国となることで、クレイグがあれこれと肩代わりをしてやっている。

「あの王子、頭は悪くないが――少々危なっかしいのが気になるな」

 独立。それはデグエダの悲願だ。それはジャライルにもわかる。

 だが今こちらの庇護を抜けたところで、国に何が残る?

 わずかな農業ができるかという狭い国、目立つ産物もなく他国に繋がる街道も大河も海も産物もない国に、何をもたらすことができるというのか。

 悲願を追う熱い心情は理解できるが、その熱さが先を見る目を曇らせている。

「釘をさしておきますか?」

「そうだな、余から話をしておこう」

 脅しにならぬよう気をつけねばならない。とはいえ年長者の忠告に耳を傾けられるかどうかは、彼の才次第だ――とまで考えてジャライルは足を止める。

「ああ、王太子殿下たちですな」

 ジャライルの視線を追ったエシャールがうなずく。

 二人の目線は中庭に向けられていた。

 その先にいるのは椅子に座る二十代の女性と、彼女を護るように立つ、十代半ばにいたるかというほどの少年。

 静かに微笑み、座っている女性は、この国の王妃だ。名をサルナリカ・ドゥディット。そのそばにいるのは王太子イシュバール・バーサラディ。

 そこから少し離れたところで、二人の侍女たちが五人ひかえている。

 やりとりの声までは聞こえないが、お互いを静かにいたわり合うような、ゆったりしたさまに見えた。

「……かの王子はイシュバール殿下と仲がよいと聞いておりますが、今宵の宴に呼ばれますか」

「――まだ早い」

 ジャライルが歩きだすと、エシャールもついてくる。

 わずかにエシャールの口元が動いていたのは、苦笑しかけたのを抑えたのだろう。

 

〈王は太子に――自分の唯一の子に厳しい〉


 いつからか王宮の内外でそんな噂が出ているのは知っている。特にジャライルは気にしていなかった。

 厳しい? 当然ではないか。自分が見初めた女性が命がけで産み、残してくれた、ただ一人の我が子だ。どんな困難にあろうと生きのびられるほどにしなくてどうするというのか。

 ただ、この心情を知るのは王に近いごくわずかな者たちだけだ。多くの者は口数少ない王太子と華やかな王のあいだは冷め切っていると考えている。また、生母の格の低さゆえに、王は廃嫡を考えているのだとも。

 馬鹿馬鹿しいかぎりだ。多忙ゆえ、普通の親子より話す時間は少ないかもしれないが、情がないはずがない。生母の格云々にしても、そんな女性を妃にと望んだのは他でもない、ジャライルのほうなのに。


 ――人の目も耳も、思いたいものに寄るものだ。


 どちらかといえば、ジャライルから息子に向けた情は溺愛に近い。それはまずいと自覚するがゆえに、落ち着こうとする。外からそんな王の様子を見るとそっけないように見えるのだ。

「今のイシュバール殿下の年のころの陛下は、先王の代理も務めておられましたが」

「あれは父上が出られなかったからだ。今の余とは違う」

「そういうことにしておきましょう」

 王の内心を知る〈扇〉はしたりとうなずいた。物心つく前から一緒にいる兄弟は、こういうとき厄介だ。

「それから、今宵の宴に姉上と兄上をいうことでしたが」

「二人の都合はついたか?」

「兄上は問題なく。ただ、姉上が少し遅れるとのこと」

 異腹の兄弟姉妹は両手両足の指の数どころか、その数倍はいる二人だが、ともに「姉上」「兄上」と呼ぶのはそれぞれ一人しかいない。血族の中でも、ジャライルが幼い頃から吟味し「これは使える」と特に才を認めた者たちは。

 ――三十人は超えていたのだがな。

 己の兄弟姉妹のうち、国を預けてもいい、ジャライルがそう思えたのは二人だけだった。その二人がわかりやすい野心をもっていなかったのは幸いだったといえるだろう。

 いすぎても、いなさすぎても面倒はおきる。王の子とはまったく厄介なものだった。

 


 ※



 夕食の宴席は、王宮の〈星夜の間〉で行われた。いくつかある広間の中でも一応小ぶりなものである。

 宴は、両国の中でも主だった者のみを招いたささやかなものだった。客人が五十に満たない宴席は、王宮内、あるいはこの国では「ごくつつましやかな」宴の部類に入る。

 クレイグでは椅子を使うことが少ない。宴席の場でも毛足の長い絨毯を床に敷き、その上に直接腰をおろす。王などの貴人に対しては絨毯の上にさらに別の敷布を重ねるのが通常だ。

 宴の間の奥、最も位が高い場に、ジャライルはいる。

 そしてその隣にもう一人。

 王の横に座った若者は、クレイグ式の礼をとり、頭を下げる。二十にも満たぬ年だが、褐色の肌がよく目立つ、鍛練を怠っていないのがよくわかる長身の青年だった。

「このような盛大な宴にお招きいただき感謝いたします」

 相手に合わせ簡素にしたはずの宴席だった。

 それでも、今夜の主賓にとってはそうではなかった。王の隣に座すのはデグエダの王子、ヒーゼネッダである。

「こちらこそ、招待が遅れたことをお詫びする」

 にこやかに答えるジャライルの服は、青を基調としたもので、祭礼時のものとは異なり刺繍は入っていない。一見すると簡素な衣に見えるが、織る段階で複雑な模様を仕込む、大変手間のかかる生地だ。

「なにより、息子とよく話してくれていると聞いている。これは是非御礼を言わねばと思っていたところだ」

 ジャライルが手を上げると、下位に控えていた楽師たちが明るい曲を奏で始める。それに合わせて女官たちが主人と客人たちの前に皿を並べていく。

「デグエダの方々はこちらほど豪奢を尊ばれぬと聞く。御国の気風に合わせてはみたが――不足あればなんなりと申されよ」

 は、とヒーゼネッダはかしこまってうなずく。

 賓客の紹介と主だった者たちへの紹介。これらを隣国の王子は笑顔でこなした。

 そんな王子の顔色が変わったのは、己の前に饗された皿を見たときである。

「陛下、これは」

 ヒーゼネッダが手にした柄のない白磁の器には、よい匂いのただようほぼ透明なスープ。湯気をたてたスープの具は小ぶりな薄紅色の肉団子と、小さく刻んだ緑の葉のみ。

 クレイグの宴席ではまず出ることのない地味な一皿である。

「さあ、冷めぬうちに。我が料理人の労作ゆえ」

 ヒーゼネッダは器を捧げるように軽くかかげてから、匙をとった。それを見てからジャライルも匙をとる。

 これはクレイグの料理ではない。デグエダの、それも北部でのみ食べられる川海老のスープだ。滋味ではあるが、この川海老が厄介で、それほど大きくない身と殻を分けるのは手間がかかるうえ、とにかく傷むのが早い。北部でしか食べられないのはそのためだ。

「まさかこちらでこれを味わえるとは思いませんでした」

「こちらに来てじき半年。そろそろ故郷の味を懐かしむころかと思ってな」

 口にしたスープは美味かった。雑味がなく、海老の旨味が具からも汁からもしっかりと味わえる。

 料理もまた、美を良しとするのがクレイグだ。日々の糧でも、舌の上で美を尊ぶべきだと。


 ――とはいえ、気づかぬほど愚かではないらしい。

 

 クレイグで――他国でこれを食べられるという意味が。

 国内でも北部でしか食べられない食材が、〝南隣の〟この国で味わえる。つまりは故郷デグエダの中にクレイグの手が様々な形で入りこんでおり、海老が傷まないほどの早さで移動が可能ということだ。 

 もちろん、ただ威圧の意のみでこんなことをしているわけではない。純粋に相手をもてなしたいという善意と、未知の料理を味わいたいという好奇心があった。ジャライルにとってはむし残り二つのほうが大きいといえる。

「ふむ。確かにこれは美味い」

「故郷のものよりも美味しい気がします」

 続く煮魚の皿も、クレイグらしく色とりどりの花で飾られてはいたが、料理そのものはデグエダのものだった。これも当然ジャライルの意向である。

 二皿目の煮魚を平らげたあたりで、「陛下」と一人の貴人が進み出てきた。男の服は王に合わせたような青。こちらにも刺繍はないがやや色が薄いために、生地の紋様がよく見える。剣と矛を交互に交えた武門の吉祥紋様だ。

 ひざまずいた男の年はといえば、三十か四十か、どうもとらえがたい。若くもあり老成もしているような不思議な面差しの男だ。派手な装飾品は身につけておらず、ややのびた茶色の髪をぞんざいに後ろで一つにくくっている。

 隣のヒーゼネッダの目線は、男が腰にさした短刀にむけられていた。

 短刀一つといえ、王の御前で武装できる者はそうはいない。ましてやここは他国の王子を招いた宴の場である。王がそれを許したということは、この男は相応の男であるに違いない――王子の目から、そんな考えは読み取れた。

 宴のにぎわいをよそに、男は言う。

「どうか御紹介いただけますか。御名は耳にしておりますが、長く遠征していた身ゆえ、こうしてお目にかかるのは初めてにございますれば」

 ――こいつ、面白がってるな。

 そんな内心を沈めに沈め、ジャライルは鷹揚にうなずいてみせた。

「殿下。これなるは我が剣にして盾。トゥルイディール・シジェン・バーサラディ。是非お見知りおきあれ」

 ヒーゼネッダが息を飲むのがわかった。

 トゥルイディールは〈王の剣〉、すなわちこの国の最高位の将である。そしてもう一つ。

 ジャライルと同姓であるということは――王の血筋。

 この国では、母方の血筋が特に重視される。中でも尊いとされる八の血筋〈尊貴の家〉があり、母やその母というように女系でその血筋を辿れる者だけが、〈母族名〉を名乗れる。

 ジャライルの「ルルカ」はルムルーディカ家から、そしてトゥルイディールの「シジェン」はシージェヌフォム家由来であることを示す。

 原則、王の正妃に立てるのはこれら〈尊貴の家〉出身の女性だけだ。その息子も当然母族名を名乗る。母族名を持つ王子は王子の中でも別格である、ということだ。

 先王の五人の正妃が産んだ男子は十四人。その中でも現王より年長の者が二人いることくらいは、この王子も知っているはずだった。その片方がトゥルイディールである。

「お初にお目にかかる、トゥルイディール殿下」

 若い王子の目が輝くのも無理はないというもの。

 現王の兄、それでなくともトゥルイディールの名は知られているはずだった。将として前線に立つことを厭わない〈戦塵の王子〉の名は、下手をすると王よりも周囲の国に名が響いている。なんせこの男、何にも熱くなることなどないような軽いそぶりをしながら、負けるということを知らないのだ。

「私はデグエダの王コーラシュが長子、ヒーゼネッダ。勇名高き殿下にお会いできて光栄の至り」

「こちらこそ。王太子殿下よりたびたび話を聞いていた相手にこうしてお会いできて感激しております」

 トゥルイディールがこちらに目配せしてくる。好きにしろ、という代わりにジャライルは軽く手を振った。

 王子を挟んで反対側にトゥルイディールが座る。それを見た女官が新しい皿を持ってきた。蓋を開ければ白い湯気がふわっと広がって消える。中身は蒸したバル芋とシャギ草に、甘酢のあんをかけたものだ。

「これはいい!」

 声をあげたのはトゥルイディールだった。この異母兄は戦場か酒場にいるほうが長いというくらいで、およそ美食とは遠い王子らしからぬ舌の持ち主だが、そういう人間にはぴたりとはまるのだろう。

「実に懐かしい気持ちです」

 目を細めてヒーゼネッダが言う。

「よく兄弟で食べていたものです。互いにそちらの芋のほうが大きいと喧嘩になったりもした」

 匙を置き、ヒーゼネッダはジャライルのほうを見る。

「他国の料理まで揃えられるほどに、この国は豊かだ」

 ジャライルはあえてにこやかに、若者の言葉を待つ。年長者として、また先達としてみせるべき余裕のために。

「そんな国でも、〈盟王〉の下にあるのが不思議でなりません」

 ヒーゼネッダのむこうの異母兄を見れば、〝やれやれ〟とばかりの苦笑い。一瞬あった目は〝やりすぎるなよ〟と言いたいらしいものだった。

「ふむ。豊かさというのはきりがないものでな」

 ジャライルはヒーゼネッダに向けて言う。

「余は二度〈盟王〉の都にいたことがあるが――それは見事なものだった」


 ――だがあれは、偉大なるバイヤーラシュルールの加護を受けたものではない。

 ジャライルから見れば、〝ただ美しいみかけ〟だけの都だった。美が備えるべきものを何一つもっていない。

 人も、都も、王も。


「それに勝てるものは何か。余は常に探しておる」

「――では」

 身をのりだしかけた若い王子を、ジャライルは微笑で制した。

「余が、この国が〈盟王〉に抗うかと思われたか?」

 上機嫌を装い、ジャライルは続ける。このにこやかさがうわべだけのものであることくらい、この王子には伝わっているだろう。

 それくらいはわかる者でなくては困る。

「熟慮こそ決断の薪。貴公に今必要なのは情熱よりも慎重さかもしれぬなぁ」

 陛下、とヒーゼネッダが姿勢を正す。まるで師に対するかのように。

「何も思われぬわけではないでしょう。それでも、下位に甘んじると」


 今、諸国を動揺せしめることがおきている。

 遥か西の小国が、大陸のほぼすべてを手中にしたというに等しい〈盟王〉の国に挑んでいる。

 ナクルというその国は、国力はデグエダよりはましというところだろう。けして強い国ではない。

 そんな国がすでに四年、〈盟王〉とその傘下の国々と戦い、勝利している。今ではナクルにつく国も増えた。

 彼の気性ならば、「この国はどうなのか」――いや、もっと直接「ナクルにつかないのか」と問いたいところだろう。それをこらえたことは褒めてやりたかった。


「これはかつて王子だった者として言うことだが――」


 さて――どこまでこの王子は知っているだろうか。

 クレイグとカナレイア――否、ジャライルと〈盟王〉のあいだにあったことを。

 真実を知る者は少ない。息子と親しいヒーゼネッダでもほぼ知らないはずだ。単純に、大国でありながら〈盟王〉の下に甘んじていることはよしとすまいというていどに考えているのだろう。

「思うは自由。されど言葉は口に出してしまえばどこに飛ぶかわからぬ鳥のようなもの。誰が聞いて伝えるかわからぬのが言葉ゆえ」

 ジャライルは器を載せた盆の隅をさす。そこには枝から飛びたった小鳥が描かれている。

「無論用心を重ねてはおるが――ここに〈盟王〉の配下がいないとは限らぬ」

「まさか」

「いや、実は目の前におるこの男こそが〈盟王〉のしもべで、反逆の芽をあぶりだしにかかっている。――それくらいに思ったほうがよい」


 自分が〈盟王〉に心服することなど、絶対にない。

 〈盟王〉の配下が国内に潜伏していることも察知しているが、ほぼそのすべては把握できている。

 把握できる数に留められるよう、服従しているのだ。疑われぬように膝をつき頭を垂れているのだ。それがどれほどの屈辱であろうとも、その後の利を思えば耐えられる。 

 耐えることすらできなくなった者のことを思えば。


「イシュバールにはそこを強く教えすぎて口数少なくなってしまったが――殿下ならそういうこともなかろう」

「そうでしょうか」

「うむ。それこそ生来の得難い気質というものだ。大事にするがいい」

 まっすぐで奇をてらわない。この性質はデグエダの民には好まれるだろう。それに、いずれ己の子が王になった折には、隣国の王とつながりがあるのはよいことだ。

「御言葉、胸に刻みます」

「忘れてもかまわぬぞ。宴の戯言だ」

「〈盟王〉の豊かさに勝ちたいというのも、戯言ですね」

「いやいや、豊かさくらいは勝ってもよかろう。高みを目指すのは悪くはない。国が豊かになるのを望まぬ王などおらぬよ」

「確かに」

 納得するようにうなずいてから、ようやくヒーゼネッダは目の前の皿に手をつけた。

 とろみのついたあんがいくらか冷めたおかげで、食べやすいくらいの熱さになっている。ジャライルが食べきったころには、トゥルイディールは二皿目を空にしていた。

 主賓たちが美味を満喫していたときである。唐突に一瞬だけ、宴のざわめきが消えた。「来たな」とつぶやいたのはトゥルイディールだ。

 消えたざわめきが入口のほう――下位の座から新たなざわめきになって戻ってくる。いくつものため息が混じったそれは、さっきよりもやや大人しい。

 座の中央を一人の貴人が歩いている。従者も連れずにただ一人、凛とした歩みで。

 まず目を惹くのはその豊かな金の髪だ。肩に背にかかる髪は流れる黄金の波のよう。まとうのは薄い灰の空にも似た衣で、わずかに下の方が濃くなるように丁寧に染められている。伝統的なクレイグの衣はほとんど露出などないにもかかわらず、その類まれなる四肢の素晴らしさを覆い隠せてはいなかった。

 宴席というのに身を飾る宝石は何もない。そんなものは必要ないとばかりの堂々とした姿と美貌。この場にいるほとんどの人間がその姿に見惚れていた。

 バイラーヤシュルール、と誰かが女神の名を呼んだ。確かに彼女はそれに値した。美しく、強く、知恵があり、深い慈悲をもつ者。

 彼女は王の前まで来て膝をつく。

「まずは遅参お許しを」

 立ち振る舞いだけでなく、その声すらも美しい。

「我が王と、親愛なる殿下に寿ぎを」

 こういうとき、ジャライルは周囲の反応を楽しむ。そばのトゥルイディールはあたりの様子を観察しつつ、平然と追加の芋を味わっている。さすがに慣れたものだ。

 その隣のヒーゼネッダはというと、わかりやすく完全に硬直していた。

 無理もない。二十前の若者に、この美は強すぎる。特に胸のあたりが。

 若者らしい素直な反応は実に見ていて楽しいが、楽しむばかりが年長者の役目ではなかろうと、ジャライルは口を開く。

「さすがに知っておろう。アルカグラ・バーサラディ。我が国の宰相、余の異腹の姉でもある」

 はっとヒーゼネッダは顔をひきしめた。

 王が宰相を選ぶのは珍しくない。しかしそれが女であるというと、大陸の歴史上でも類のないことだった。

「名高き〈宰相姫〉、お目にかかれて光栄です。デグエダの王子、ヒーゼネッダと申します」

 心なしか先ほどトゥルイディールと交わした挨拶よりも声がうわずっている。話には聞いていても、実際に会って話をするのとはまた別だということだろう。

「急ぎ解決せねばならぬことができましたゆえ、今宵は御挨拶のみで失礼いたします」

 アルカグラがこちらに目線をむけてきた。

「急ぎというと、あれか」

「はい。段取りがつきそうでしたので」

「そうか、頼む」

 殿下、とアルカグラが半歩ほど王子に近づく。

「何かございましたら、我が屋敷においでくださいませ。どのようなことでも、この国で起きた、起こることならば対応いたしますゆえ」

 豪語、と言ってよい言葉だったが、嘘ではない。この国で〈宰相姫〉が動かせないものはないと言われるほどだ。山ですら、彼女の言葉があれば崩せるだろうというのが民の声である。

「実に頼もしい御言葉だ。イシュバール殿下が頼りとするのもわかる。また是非お話を」

「はい。――それでは失礼致します、陛下」

 優雅に一礼し、異母姉は宴の場を去っていった。その麗姿が消えてから、人々はようやく安堵に似た息をつく。それは隣の賓客も同じだった。

「……噂には聞いておりましたが、噂以上でした」

「どんな噂もあの姉を言い尽くすことはできぬもの。――おや、酒が入ってもおらぬのにお顔が赤く」

「あのお方を見てそうならぬほうがおかしいでしょう」

 からかうな、とでも返してくるかと思ったが、やはり真面目な王子だった。

「ちなみにあれは独り身、口説いても罪にはならぬと申し添えておく」

「――陛下!」

 カサンの実よりも赤い顔でヒーゼネッダが声をあげる。

 他国にまで聞こえた宰相を妻になぞ、普通に考えてあり得ることではないし、格が下がるといえ王女だ。それもかなり年上の。

「まあ先達として言わせてくれ。――王の子として生まれると、結婚も何かと不自由だが、それでも惚れた相手を口説き、共にいられるならば――それは間違いなく素晴らしいことだ」

 ジャライルが場にまかせた軽口のように言っていることの重みを、ヒーゼネッダはしっかりと受け止めている。それができる若者であることが喜ばしかった。 

「日々が輝き、己の力が増し、生きることが喜びとなる。そういう出会いがあれば、決して逃がすな。何をもってしてでも追い、捕まえて離すな。どんな黄金、どんな宝石よりもそれは尊いものなのだから」

 ヒーゼネッダもわかったことだろう。ジャライルの妃は二人とも〈尊貴の家〉の生まれではない。

ともにジャライルが譲らず、慣習を破って正妃としたことは国内外にも伝わっている。

 考えこみはじめたヒーゼネッダをよそに、ジャライルは立ち上がり、手を叩く。

「さあさあ、我等がバイヤーラシュルールは夜に去った! だがこの宴を彩る美しき舞い手がおろう!」

 王の言葉を聞いた楽団が明るい音を奏でだした。するりと豹のように二人の舞い手が中央に滑り出してくる。実になめらかな動きを見た人々が、喝采の声をあげる。

 それから宴はさらに続いた。



 ※



 ジャライルは王宮の回廊を進む。前後には護衛を兼ねた従者が四人。

 後方から宴の間のにぎわいがかすかに聞こえてくる。まだ若い王子と翌朝も政務がある王は先に切り上げたが、クレイグで宴といえば空が白むまで続くのが常だ。きっとこの宴も朝の鳥が鳴くまでは誰かが歌い、踊っていることだろう。

 クレイグの王宮は十ほどの宮殿がつながりあっている。ジャライルがむかっているのは一番北の宮殿だった。〈常緑の邸〉と呼ばれる宮殿は現王の〝私邸〟ともいうべき、王宮の中でも一番小さな宮殿である。その小ささゆえに、今までの王とその係累からは評判がよくなかった。

 ジャライルがこの宮殿を選んだのは、〝手頃な大きさ〟だったこと、なにより他の王族の意が感じられないのがその理由だ。いくつかの宮殿は、ジャライルからみてとても趣味がよくない。

 大きいものは守るのも大変だ。妻と子の警護を考えるならば、〈常緑の邸〉ぐらいまでが限界だろう。

 その名の由来となった、常緑樹を彫った石門をくぐり、ジャライルは中を進む。門の前後それぞれについた兵が軽く膝を曲げて頭を垂れ、王への敬意を示した。

 ジャライルが着いたのは二つの棟の東側。棟のほぼ中央の部家の前まで来て、ジャライルは足を止めた。

「ここからは護衛は無用。余が出るまでここで」

 王の意をくんだ従者たちが一礼する。それを見てからジャライルは扉を開けて中に入った。

 扉の先は応接の間。来客を迎えるために一際鮮やかな絨毯が敷かれている。

 奥には、部屋の主である王太子イシュバールとその伯母が座っていた。二人とも平服である。それでもよそから見れば十分に華やかだろうが。

 二人の反対側には彼の叔父、エシャールがおり、なにやら巻物を広げている。

「父上」

 奥の少年――イシュバールがこちらを見て背を正す。

「人の部屋を謀の間にするのはやめていただけませんか」

「まあそういうな。ここが一番都合がいいんだ」

 王子のところにその父や叔父伯母が顔を出しても、なんらおかしなところはない。集った人間がたまたま国の中枢なだけで。

「それに、今度の話はお前にも聞いてもらいたい話だからな」

 言いながらジャライルはイシュバールの後ろに腰をおろす。あわててどこうと動いたイシュバールの腕をつかみ、あぐらをかいた己の上に座らせた。暴れられこそしなかったが、不満はしっかりと伝わってくる。

「……もうこういうのを喜ぶ年ではありませんが」

「お前はそうかもしれんが、余は喜ぶ。まあ父のわがままだ。しばらくこのままでおれ」

 わざと軽く言うと、息子は諦めたらしかった。こういうときには伯母も叔父も味方にはならないと見切りをつけている。そんな息子の頭を撫でたい気持ちをぐっと我慢しつつ、ジャライルは言う。

「兄上が来てないが、何か聞いているか、エシャール」

「……兄上なら厨房の方に走っていったのを見た者がおりますが」

 きっと今日の料理を追加で頼みに行ったのだろう。王子らしく人をやればいいのに、まず自分で動いてしまうのがトゥルイディールだ。

「まあいい。あれの役割は後で話すとして、アルカグラ」

「はい」

 かつては「姉上」と呼んでいたが、彼女を宰相に任じてからは当人を前にしたときはジャライルも名を呼ぶようになった。「王と宰相という互いの立場を優先させるべき」というアルカグラからの申し出である。断れなかった。

「現在ナクルについた国の一覧です」

 巻物の上にアルカグラが書簡を広げた。

 伯母の言葉にイシュバールは体を強張らせながらも、目は広げられた書簡にむけている。

 父たちが今宵なにを謀るか、自分に何を伝えようとしているのか。彼にも大きな流れは見えたに違いなかった。

「大国と呼ばれるような国はほぼ静観していますが。この二年で大きく勢力が増しました」

「〈竜王子〉か」

 小国のナクルがカナレイアに抗しえているのも、その兵の強さあるゆえのこと。

 中でも王の信あつく、武勇に優れた者がいるという。

 〈竜王子〉と呼ばれる青年だ。竜の力を持つという兵をまとめ、戦陣に立つ貴公子の話は、ジャライルも聞いていた。恐ろしく強く、そして恐ろしく美しいと。

「それもあるでしょうが――おそらく静観している国々には、ナクルからの働きかけがあったものでしょう。こちらにも使者が参りましたし」

「知恵者がいるな、あの国に」

 ジャライルがうなずいたとき、扉が勢いよく開いた音がした。早足でトゥルイディールがかけこんでくる。両腕に素焼きの皿と瓶をかかえて。

「すまん、遅れた!」

「始まったところだ。……しかしなんだそれは」

「せっかくだしイシュにも味わってもらおうと思ってな。デグエダの果実は美味いぞ」

 ほれ、とさしだした皿は、蜜漬けの黄色い桃だった。父のひざからおりられず、イシュバールはそのまま匙と皿を受け取る。

 もう一組の皿をアルカグラに手渡し、トゥルイディールはジャライルの前に座りこんだ。そのまま彼は体をやや前に傾けて書簡をのぞきこむ。その眉間にしわができた。

「……これはまだ増えるな。なびきそうなところは十ではきかんぞ」

 将の顔でつぶやいたトゥルイディールに、宰相が返す。

「あくまで、現在把握できているものですから」

「俺としては、ここにアスリングリッドが入っていてほしかったが」

「さすがにあの国は無理でしょう。王妃がカナレイアにいますから」 

 父上、とイシュバールが振り返った。

「どうかしたか?」

「……なんでもありません。失礼いたしました」

 何事もなかったかのようにイシュバールは前をむき、手にしたままだった桃を口にする。

 わずかなこちらの動揺を察するとは、勘のいい子だ。いったい誰に似たのやら。

 ジャライルは書簡をにらむ兄を呼ぶ。

「トゥルイディール」

「うちで出すなら五年で十万」

 〈王の剣〉の返答は簡潔だった。問われることを予想している。

「国の守りを考えたらそれ以上は危ない。もっとも、これは将としての『出せるだけ出すのなら』という計算だ。宰相なら違う計算になるだろう。――アルカグラ」

「最初に十万。追加で二万までは可能です。ただし、あくまで五年まで、という条件がつきますが」

 冷静に〈王の筆〉が答える。こちらもまた、予想と計算をくり返した答えだ。

「五年を越えると前線に国内が引きずられます。最大期限とお考えください」

 黙っていたエシャールが大きな巻物を広げた。クレイグを中心とした近隣の地図と大陸の地図だ。

 トゥルイディールがその上にドン、と酒瓶を置いてすぐにどけた。地図の一画に丸い跡ができる。クレイグの北側のあたりだ。

「デグエダは盾にはならん。北の抑えは自軍でおいておきたい。二万は常駐させておかないと厳しいぞ」

 デグエダを挟んだ北の国、タビールゴルとは長年にらみ合いが続いている。三代前の王が〝勝手に〟デグエダを助けたのが侵略側には気にくわなかったらしい。それ以来小競り合いが数年に一度はある。

「その他に、〈王の剣〉から見て危ういところはごさいますか」

「たいていは俺が潰したから、一番先に出てくるならここだろう」

 そこまで言って、トゥルイディールは表情を崩した。

「時間はあったからな。行けと言われれば、明日にも出られるくらいには整えてある。王命さえあれば」

 ひざの上の息子が息を飲む。

 王は出兵を考えている。――それも〈盟王〉側でなく、その敵として。

 ごくごく親しい者にだけ、ジャライルは己の意を明かしていた。それに今夜、息子が加わった。

「……その書簡を見ればわかるように、ナクルに与した国はそれほど大きくはない国ばかりだ」

 だからこそ起ったのだろう。このままでは国がたちゆかぬと。そんな国ばかりの連盟にクレイグが加わればどうなるか。少なくとも、〈盟王〉の下で〝いくつかある大国〟としてあるよりは、ずっと強くふるまえるはずだった。

「そこに余が加われば、カナレイアの者たちはさぞ驚くだろう。そう考えるだけで愉快だな」

 言葉につられるように笑みが出た。

 もうずっと考えていたことだ。――〈盟王〉に、かの美より遠き王に報いると。

「アルカグラもトゥルイディールも口惜しく思っていたはずだ。〈盟王〉に献じる分を自国で扱えたならと」

 二人は無言だった。だがその目が「是」と言っている。


 品を出し金を出し兵を出し――その対価は〝〈盟王〉の配下〟としての位。

 割に合わぬ。意に合わぬ。

 気に喰わぬ。 


「〈盟王〉の次がどのような王になるかはわからぬが、あれほどの王ではないだろう。あの王が死ぬまで待ってやろうと思ったが、やはり気長なのは性に合わん」


 クレイグの民ならば、王ならば知っている。

 神の御世より明らかだ。――強さだけで優れる者は最上ではないと。

 戦に酔い権力に酔い己の強さに驕れる者に、真なる美の報いを与えてこそ、バイラーヤシュルールの加護を受けし者の義務であろう。


「二月後だ。二月後の十五日。トゥルイディールと余はこの国を発つ」

 兵は三万、と言ったジャライルに、トゥルイディールが「三万」とくり返した。

 少なすぎるというのだろう。だがそれにも理由はある。

「先陣としてだ。戦えば兵は消耗するもの。増援として追加三万、機を見て投入する」

 イシュバール、とジャライルは声をかける。

「おそらく決着まで三年はかからぬだろう。余が戻るまでの間はこのアルカグラとエシャールを余と思い頼れ」

 はい、と短くもはっきりした声が返ってきた。

 一つの段を上った少年の緊張と、未熟ながらも愛おしい覚悟が決まった声が。



 ※



 ジャライルは〈常緑の邸〉を進む。前後には護衛を兼ねた従者が四人。

 ほぼ息子に――王太子に聞かせるためのようなものだった密談を終え、むかったのは自らの寝室だった。寝室といっても、寝台のある間までは廊下から三部屋ある。

 護衛と扉の前で離れ、中に入ると女官たちが王と王妃のための支度をすませてひかえていた。

 女官の手を借りて夜着に着替えたジャライルは、ゆっくり部屋の奥の幕を開ける。

 妃を目でとらえ、ジャライルはにこやかにほほ笑んだ。四人は横になれるだろう大きな寝台に、一人の女性が腰かけている。

 栗毛に近いやや色の褪せた髪といい、目鼻立ちといい、王の寝室にいるにしてはきらびやかさや派手さがない。どちらかというとごく慎ましやかな雰囲気だ。王宮の女官の中でも彼女より美しい者は百を超えるほどいるだろう。口さがない者たちがあれこれ言っているのも知っている。

 それでもジャライルが選んだのはサルナリカだった。

「陛下」

「すまぬ。遅くなった」

「いえ」

 どこか思うところがあるような王妃・サルナリカの横に座り、ジャライルは妃の手をとり、その甲に口づける。

「足の調子はどうだ?」

「以前よりはだいぶよくなっていると。杖をついて部屋を歩くくらいならばかえって体によいくらいだと、ミノルア様が」

「そうか」

 ミノルアはサルナリカが王妃となる前から彼女を診てきた医師だ。その言葉は信がおける。

 にこやかな顔のまま、ジャライルはサルナリカの、衣に隠れた足首のほうに目を落とす。

 彼女の右足には深い傷がある。出会った当初は歩くことすらおぼつかないほどだった。そのころから比べれば、ずいぶんとよくなったというべきだろう。

「……とはいえ、無理はいかんぞ。何かあればエシャールかイシュかアルカグラを呼べ」

「はい」

 どこまでもひかえめに、サルナリカはうなずく。

 そんな彼女にしては珍しく、サルナリカからジャライルの手を握ってきた。

「……アルカグラさまよりうかがいました」

 己を勇気づけるよう、ゆっくりと一呼吸おいてから、彼女は続けた。

「陛下も軍を率いられると」

「ああ」

 アルカグラはサルナリカの一番の友のようなものだ。出兵のことも、目途が立った時点でサルナリカに伝えていいとアルカグラには言ってあった。宴席での「段取りがついた」というのも、王妃に告げられるだけの状況になったということだ。

「止めるか?」

「陛下がお決めになったことならば、わたしが申し上げることはございません」

 そうは言うものの、握った手がわずかに震えている。

 サルナリカはもともとカナレイアにいたクレイグ人だ。家族が〝わけあって〟カナレイアの都ハビ=リョウにいたことから、クレイグ王室のハビ=リョウでの召使いとして働くようになった。

 ジャライルの妻と――王妃となった今でも、彼女の真の主は王ではない。


 彼女が無比の忠誠を捧げるのはただ一人。

 もうこの世にいない王太子妃――ジャライルのもう一人の妻、ミシュナーダ・インダルカだ。

 それをジャライルはよしとしている。


「心配するな。山ほどの土産を持って帰ってくる」

 ――望むなら、〈盟王〉の首も。

 そう思ったが、口にはしなかった。妻の性格からして、そのような言葉は望んでいないのはわかる。 

「……それは、誰のためですか」

 サルナリカの声が震えている。

「陛下は私情のみで軍を動かすような方でも、賭けに出るような方でもありません。けれど」

「確かに、私情だけならもっと地味にやってやったな」

 笑おうとして、ジャライルは失敗した。

 己の口元がぎこちなく動いたのを妻は見逃さなかっただろう。


 先の王は――父は凡庸だった。

 政治は有力者のほぼ言いなりで、色を好むことだけは人より大いに勝っていたが、それだけだった。

 このままでは国は傾く。できるだけ早く退位を願おう。そう若い自分は考えた。

 兄弟の中で一番才があったのはトゥルイディールだったが、彼は玉座よりも戦馬を好み、ジャライルにつくことを選んだ。「あの父がろくでもないのは確かだが、そんな面倒なことはお前のほうがいい」と。

 兄弟を蹴落とし、時には人に言えぬ類の手も使い、自分は王太子の位についた。

 その中で出会ったのがミシュナーダだった。王太子妃どころか、王子の妻という立場にさえ興味のない、そんな女だった。

 王太子の妃選びの場で――もちろん公然とそんなことを言っているわけではなく、表向きは名家の子女が集う茶会ということになっていた――主家の令嬢の侍女として来たミシュナーダは、王太子も王太子妃の座を狙う者にも目をくれず、庭園の葉についた虫を見ていたのである。

 なにをしているのかと思わず問うたジャライルに、彼女は臆することなくにこやかに返してきた。


 ――ここに、どんなバイラーヤシュルールの加護があるのか、考えておりました。

 ――あらゆるものに神の加護があるはずですから。

 ――殿下はどうお考えになりますか?


 衝撃だった。自分より年下の者の問いに答えられなかったことなどない。ましてや虫に美神の加護がどうあるかなど考えたことなど。

 だがこの世のあらゆるものがバイラーヤシュルーの慈悲より生まれているのだから、彼女の問いにも答えがあるはずだった。

 三日待て、といったのは次に会うための口実。

 何事も周囲の目を使い、利用してきたジャライルが、初めてそれを無視した相手がミシュナーダだった。

 乞うように口説き、口説き倒して、やっと結婚の承諾を得たときには、喜びのあまり美神の神殿に数年分の供物を捧げたぐらいだ。結婚の二年後、イシュバールが生まれたときも同じことをして。ミシャナーダには笑われたものだった。


 幸福だった。


 凡庸な王が最悪の決断をするまでは。


 ジャライルは笑みを作るのをやめる。

「そうだな、兵を出すならトゥルイディールだけでも事足りる。余が自ら出るというのは私情だ。決着をつけるならより近い場でというのは」


 隣国への遠征より戻ると、ミシュナーダはいなかった。

 王太子妃としての暮らしにも慣れたところである。なによりまだ乳飲み子のイシュバールを残していくなど考えられない。息子を抱き立ち尽くしていたジャライルに老臣が近づいて言った。

 

 ――妃殿下は、カナレイアに発たれました。

 ――ええ、陛下の命にございます。


 イシュバールを抱き、ジャライルは王のもとに走った。

 怒りのままに王のもとへむかうと、王は大層な上機嫌であった。

 曰く、〝価値ある姫〟をハビ=リョウにさしだすよう言われたと。

 だが王宮の中の〈尊貴の家〉に連なる娘たちを外に出せるものではない。

 だがミシュナーダはよい生まれではなく、だが仮にも王太子妃であり、立場として国外に出しても見劣りするものではない。

 自身の〝良案〟に御満悦の王を殴らなかったのは、両腕にイシュバールを抱いていたからだ。そうでなければその場で退位させている。

 ジャライルがその忠臣というべき兄弟とともに遠征し、直接反対されない時期を狙う姑息なところも、自分が目をつけた女を出さずにすんで喜んでいるところも、何もかもが腹立たしかった。

 

 ミシュナーダは帰ってこなかった。


 どれだけ帰還の願いを出しても許されず、ハビ=リョウからは「病篤く長旅に耐えられるものではない」という返答がくるばかり。それならば自分がむかうと言った王太子を王が止めた。

 出した者にこだわるな、代わりならいるだろうと。

 それ以来、ジャライルは父に言葉をかけるのをやめた。言葉をかけることがないということは、情をむけることがないということでもある。

 譲位をうけ、即位した翌年、訃報が届いた。届いたのはただの紙一枚で、遺体も形見も何もない。

 ミシュナーダの身に何があったのか。どれだけ調べさせてもなにもわからず、何者かが事実を隠していることだけが確かだった。 

 わからぬままに時はすぎ、ジャライルはミシュナーダの代役として、彼女の誕生日に美神の神殿に参じた。

 供物を捧げた帰りである。

 虚無のうちに戻る王の服の裾をつかんだ者がいた。

 神域内で養われている者のようであったが――神の加護を示すべく、そういった〈慈悲〉はどの神殿でも行われていた――その姿はひたすらにみすぼらしい。

 脂のてかった髪は伸び放題で、その下の肌など語るまでもない。痩せきった体がまとう衣もぼろぼろ。這いつくばって裾をつかむさまを見た神官たちが慌ててひきはがそうとするのをジャライルは止めた。

 先に目が合ったのだ。落ちくぼみ、隈を濃くした目と。その姿とは裏腹に強い――必死なまなざしと。

 その目の強さが、かつて答えられなかった問いを投げた女を思い出させた。


 ――ミシュさまの、手紙。


 割れた唇から出たかすれた声が懐かしい名を呼んだ時、ジャライルは彼女の前にひざをついていた。


 ――殿下に。渡してほしいと。


 手渡された手紙はあちこちが汚れていた。書き損じなどではない。ここまで来るまでの苦難の証の色だ。端の朽ち具合からして書かれてから何年もたった紙なのは、一見して明らかだった。

 封の中にあったのは、まぎれもないミシュナーダの字。

 これを読んでいるということは、きっと自分はこの世にいないだろうこと。イシュバールをお願いする、けれど貴方にはよりふさわしい妻がいるはずだから、自分のことなど忘れてほしい、と別れの辞が綴られている。

 確かにミシュナーダの言葉だ。けれどここにも「事実」はない。

 問えばこの女はハビ=リョウでミシュナーダに仕えていたのだという。どうして今まで時間がかかったのかと問いかけて、ジャライルは女の足が不自由なことにようやく気がついた。

 ――なにがあった。

 問うても彼女は泣きそうな顔で首を横に振るばかり。

 知らないのかと重ねて問えば、また首を横に振る。

 知っている、だが言えない。そうと知ったジャライルは女を抱き上げると、そのまま王宮に連れ帰った。

 話をするにも治療をするにも、そちらのほうが手っ取り早いという理由をつけて。


 女は――サルナリカは強かった。

 どれだけ王が問うても、その周囲の者がなだめても、かの都であったことを口にはしなかった。

 ただ一言、「ミシュさまが、言うなと」という答えを返した他は、ずっと黙って庭を見ている。

 そんなサルナリカの心を解いたのは、アルカグラと幼いイシュバール――主の忘れ形見だった。

 アルカグラは弟よりずっと頭が冴えていた。

 彼女はこう提案したのである。

 それほどまでに慕う方の御子を、主に代わって見守りたくはないかと。そのための立場も自分は用意できる。その代わり、王太子妃になにがおこったのか教えてほしいと。

 三日悩み、サルナリカはぽつぽつと言葉を紡いだ。

 ひとしきり話し、王に伝えてもいいとサルナリカは言ったが、聞いたアルカグラが躊躇するほどに、サルナリカが告げた〝事実〟は凄惨なものだった。


 ミシュナーダはハビ=リョウに着いて二年目に亡くなっていた。暴力と陵辱の末に。

 かの都では、人知れぬ場所で暗く淫蕩な宴がくり返されているのだという。王妃や王女、王子といった貴人たちも含め、〈盟王〉のお気に入りになった者たちが招かれるのだと。

 ミシュナーダは選ばれてしまった。サルナリカは巻き込まれる形でその〝宴〟に組み込まれた。そこで亡くなった者がその先どうなったのかまでは、サルナリカも知らないという。誰一人返されてはいないと。

 サルナリカを帰すように言ったのはミシュナーダだったという。

 死を覚悟したミシュナーダは遺書のありかをサルナリカにのみ伝え、彼女は〈盟王〉に賭けを挑んだ。

 勝てばサルナリカを帰すようにと。

 その〝賭け〟の内容だけは、いまだにサルナリカは口にしていない。

 彼女は勝ち、ミシュナーダは外――それもハビ=リョウの外に出された。文字の読めない女はそのていどでよいとばかりに。

 サルナリカは言われた場所から主の手紙を探しだし、クレイグに戻ろうとした。そのときにはもう、さんざん玩具にされた右足はろくに動かなくなっていたというのに。

 そこに二人のクレイグ人がやってきた。クレイグの大使館で見たことのある男だったから、サルナリカも油断したのだ。斬りつけられた、とわかったときにはもう体が動かなくなっていた。


 ――舌を切っておいたほうがよくないか。

 ――いやもうこれは死んでいるだろ。


 その足をさらに斬りつけたのは、〈盟王〉についたクレイグ人だった。クレイグの王直下であるはずの者である。

 瀕死のサルナリカはとある婦人に救われ、かろうじて命をとりとめた。彼女の助けを借り、手紙を見つけ、ようやくクレイグまでこられたのは、ミシュナーダが命を落としてから一年後。

 人はあてになどできなかった。頼れる知り合いなど本国にはおらず、なによりも自分を斬ったのも主を売ったのもクレイグの人間だったから。

 各地の神殿で保護を求め、雑多な小銭仕事を請けおい、なんとかして王太子――否、王に会う機会をひたすらに待った。

 ただ一通の手紙を渡すために。


 彼女を王妃にと決めたのは、ミシュナーダの話ができる相手を王宮に留めたかったからだ。最初こそそんな理由もあったが、彼女を見ているうちに違う理由ができた。なによりイシュバールがなついたのもある。

 イシュバールの世話をさせるなら乳母でもいいではないかという家臣もいたが、ジャライルはそれを拒んだ。


 ――これだけの強さをもつ者を、妃にしてなにが悪い。

 

「私情だが、余が動くのはそれだけではない」

 ミシュナーダもサルナリカも。まさしく美の神の加護を受ける者だ。強く、聡く、慈悲を知る。それが王妃にふさわしくないというのなら、その者の目のほうが邪に曇っている。

 そんな二人の妻を、なにより尊敬すべき者をかの都の者たちは踏みにじった。その報いはくれてやらねばならない。

 それともう一つ譲れぬものがある。


「どうしても待てぬ。イシュバールの世に、〈盟王〉の権勢など残しておけるものか」


 自分が頭を下げるのはいい。王の下の王として、世に笑われようともかまいはしない。

 だがイシュバールが同じ屈辱を味わうことは絶対にあってはならなかった。

 母を喪った子に、その仇へ頭を下げさせて、ひざをつかせてよいものか。

 

 いつのまにかサルナリカの手の震えが止まっている。

「どうして陛下は出兵を決められたのか。そうアルカグラさまに尋ねました。アルカグラさまは『陛下は〝南の男〟になりたくはないのだろう』と」

 〝南の男〟とは、卑怯な者を言うクレイグでの俗語だ。  

「陛下は卑怯ではありません。堂々と、クレイグの王らしく戦場を往かれるでしょう」

 バイラーヤシュルールの加護を、とこの国の誰もが知る聖句をつぶやき、サルナリカは握った手に力をこめた。 

「大勝利は陛下の御前に。わたしはクレイグで吉報をお待ちしております」

 握られた手を握り返し、ジャライルは言う。

「では待つのも苦にならぬよう、毎日手紙を出そう」

 毎日、とサルナリカがくり返す。

「それはさすがに多うございます。年に一度で充分かと」

「なら三日に一度にしよう」

「使いの者のこともお考えくださいませ。一月に一度でも畏れ多いくらいでございますのに」

 このやりとりを聞く者がいれば、手を握り互いの額をつけたこの二人が肌を合わせたことがないなどとは、とても信じられぬだろう。

 王妃となることまではなんとか口説き落とした。

 けれども、主が誰より愛した相手と自分が寝所を共にするのは、とサルナリカはどうしても首を縦に振ろうとしなかった。

 彼女のミシュナーダのへの愛は、誰よりも深い。だからジャライルもここで折れた――ふりをして、イシュバールを連れてきた。親子で寝るなら問題なかろうと。

 寝台まではともに。けれども肌を交えるような真似はしない。それが互いへの尊敬ゆえに成立した、王と王妃のあいだの、無言の約束だった。


 後に王妃は義姉に王からの手紙の多さをこぼすことになるが――それもまた、二人の尊敬と愛ゆえのものだった。



 ※



 街道を征くこと三月。クレイグ軍は大きな妨害もなく、ナクル軍に合流できた。

「……まさか、一万近くの商隊を連れてくるとはなあ」

 武装したトゥルイディールが言うように、クレイグは三万の兵と一万近くの商人の団体を同行させていた。

「こんな商機を逃がす愚かな王のつもりはないが」

 トゥルイディールに答えるジャライルも、武装はしている。ただし鎧はまとわず、クレイグの正装に剣を帯びただけのものだ。

 二人の周囲には護衛兵が十二人。これを多いとするか少ないとみるかは、トゥルイディールの武勇を知るかどうかで分かれるだろう。

「そういえばアルカグラが言っていたそうだが。――余は〝南の男〟になりたくないと思っているそうだ」

「また嫌な話を出すな」


 〝南の男〟とはクレイグの寓話が元になっている。

 東の地に、乱暴な男がいた。東の男は周囲の恵みを巻き上げて暮らしており、周囲の者は難儀していたという。

 そこに北の男が訪れ、暮らしぶりを改めるよう説得したが、東の男は聞く耳をもたない。北の男は諦めて帰路についた。

 続けて西の男が東の男のもとを訪れた。西の男は毎年東の男に作物を奪われており、それをやめてくれと言いに来たのだった。

 だがもとより乱暴な東の男は耳を貸さない。怒りのあまり、西の男はついに東の男を刺し殺してしまった。

 もともと西の男は武器など持ってきてはいなかった。たまたま東の男の門のそばに短剣が落ちているのを見つけ、紋様から北の男の物だと知って、東の男に拾われる前に返してやろうと後ろ腰にさしていたものである。

 ――南の男は、それを予想していた。

 門のそばに北の男の短剣が落ちていたのを見つけ、また恨みをかかえた西の男がやってくるのを見た南の男は、ただ黙って様子を見守ったのである。

 この場合、最も罪深いのは誰だろうか、という話だ。


「卑怯か卑怯でないかというと、余もたいがいだと思うのだがな」


 まさにジャライルは〝南の男〟そのままなことをしたことがある。

 先王は病を得て亡くなったということになっているが、本当は違う。

 実際は後宮で妃の一人に毒を盛られたのだ。己に寵をかけながら、己を尋ねてきた妹にまで――彼女には思い交わした許婚がいたという――手を出した王を激しく恨んでのことだった。

 驚きはない。いつかそうなることがあっても不思議はないというのが兄弟の認識だった。

 その妃が恨みを持っているのを知りながら、彼女に手を貸す者がいるのを知りながら。ジャライルは一切かまわずにいた。隣にいるトゥルイディールも。

 この件は、表むきは病死による崩御として取り扱われ、裏では荒淫によるものと噂された。

 その奥で、あまたの〝南の男〟がいたわけである。そうでなければ妃は毒など手に入れられず、警護の厳しい後宮から逃げ去ることもできなかったであろう。表むきは「病死」とされたがゆえに「犯人」を追う必要もなくなったわけだ。


「卑怯であることをわきまえているだけ、互いにましだと思いたいが」

「それもまた強さ、ということにしておこう」

 やがて一行はナクルの陣に迎え入れられた。通された幕舎は大きくはあったがほぼ装飾の類がない。このあたりに国の気風が表れているようだった。

 ナクルの陣ではあるが、訪れたのが格上の国の王と王子とあって、二人のほうが上座の席である。

 二人の前にひざまずいたのは鳶色の髪をした鎧姿の男。ジャライルよりはいくらか下という年だろう。

「遠路の参陣、我が王に代わって御礼申し上げます」

 戦場ゆえと、直答は許す旨伝えてあった。

 公用語も美しく、立ち振る舞いも洗練されている。かの王は良き臣下をもっているようだ。

「ナクルの軍を預かるオーシャ・グリング。御前にて御挨拶できること、この身に余る光栄でございます」

「――クレイグ王、ジャライル・ルルカ・バーサラディである。こちらはトゥルイディール。余が兄にしてクレイグ無二の将である」

「長く戦場を駆けたオーシャ卿の武勇、はるかクレイグまで届いておりますぞ」

 二人の前、苦笑を伏せるように、彼は一度頭を下げた。

「腹蔵なきことを申し上げますと、陛下の参陣は大いに力になっております。兵だけでなく、補給や休養もできるとあり、士気も高まりました」

「うむ。それをみこしてのものだからな。――それより余から一つ尋ねたいのだが」

「なんなりと」

「ナクルの〈竜王子〉はいずこに?」

 今度は明らかに、オーシャは苦笑した。

 この幕舎にいるのはクレイグの王とその臣下。ナクル側はオーシャのその護衛しかいない。

 〈竜王子〉は一際目立つ美貌の主だという。そのような者はここにはいなかった。

「申し訳ありません。あれは今偵察に出ております」

「貴公と並ぶ将が、偵察に?」

「あれは……そういうものなので」

 他に説明しようがない。オーシャの表情を言葉にすればそんな感じになる。

「いずれ陛下に拝謁することもございましょう。その際は必ずお伝え致します。本日は――」

 オーシャの言葉を覆うように、幕舎の外で歓声があがった。男どもの勢いがついた叫びだ。


「御帰還だ!」「さすがは閣下!」

「あれを蹴散らして来られるとは!」「迎えを!」


 そんな声が聞こえてくる。ふと見れば、外の歓喜の声とは裏腹にオーシャは額に手をあてていた。

 幕が開く。外の光を受けて立つ黒い影が見えた。

 黒い影はずんずんと中に入ってくる。体格はよく、まとった鎧は黒。もともと質のいいものではあるが、度重なった戦傷が無数にあり、傷のないところのほうが少ないほどだ。

 砂と返り血を浴びてそのままのなりである。野蛮というならこの上ない野蛮であるのに、目が離せない。

 彼は兜をかぶっていなかった。それゆえにそのままのばしただけの、艶のある黒髪がよくわかり、白皙の美貌が明らかだった。白い肌と黒い髪。瞳は尋常ならざる青。

 そこにいたクレイグの民は呆然と、入ってきた青年を見つめるばかり。

 それに値する名を皆が知っていた。

 輝ける者。三つの輝きより虚空にて生まれし者。


 ――太陽の神の強さも、星の神の知恵も、いずれも素晴らしきもの。


 誰かが神の名をつぶやいた。思わず口にしていたのだ。

 それを聞いたかどうか定かではないが、血まみれの青年はこれ以上ないほど優雅に、王とその兄の前、ナクルの将と並ぶ位置でひざをついた。

「お初にお目にかかる」

 高すぎず、低すぎもしない、だがどこか不思議な遠さのある声だった。

 

「サーフィル・オンドゥート。ナクル王に代わって御礼申し上げる。急ぎ御挨拶に伺ったための諸々の無礼、お許しを」


 それだけ言うと彼は立ちあがり、幕舎を出て行った。

 残ったのは頭を抱えたそうなナクル人と、呆然とするクレイグ人。

 その中で――ジャライルは笑いだした。

「そうか、あれがそうか。なるほど確かにあれはまごうことなき〈竜王子〉よ」

 他の者はどう思ったかわからないが、あれはきっと只人の域にあるものではない。

 クレイグで言うなら、四輝の加護を受けた者のような。

 御無礼を、と頭を下げるオーシャの前で、ジャライルはこの上になく気分を良くしていた。


 バイラーヤシュルールは――美はいずれより生まれたか?

 強さからであり、知恵からであり、慈悲からである。

 すなわち、この三つを備えし美こそ、神の意にかなうもの、人が尊ぶべき美である。


「最初から勝利は疑っていなかったが――これは神が用意した幸運に違いない」


 ――真に強きものを見極める目を。

 

 己がそれを持ち得ていたことに、ジャライルは心から満足していた。


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ドラゴンテイル・外伝~竜にまみえし光輝の王 四號伊織 @shigou_iori

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