第2話 黒にゃんこ

 驚いたせいで姿勢が崩れて失速したが、辛うじて前脚は向こう岸に届く。

 後足が沈んでパチャンと水が跳ねたが何とか根性で這い上がった。

 ふう。危ねえ。

 水に濡れた体が妙に気持ち悪いな。

 べったりと張り付いた毛は、不快なんてもんじゃねえ。

 こりゃペットの猫が風呂に入るのを嫌がるわけだよ。

 体を大きく弓なりにしてぶるぶるっと震わせ下半身の水気を飛ばす。

「この泥棒猫めっ。次に来やがったら絶対にぶっころしてやる!」

 俺がもともと居た側の水際で巨人が吠えていた。


 いや、あれは巨人なんかではなく普通サイズの人間なのだろう。

 逆に俺の体が小さいのだ。

 そっと縁から体を乗り出して水面に顔を映し出してみる。

 金色の目をした黒猫が見つめ返してきた。

「にゃ」

 声を出してみれば映っている猫も口を開ける。


 間違いない。

 俺は猫になっていた。

 まあ、カマドウマよりはいいけどさあ。

 声は出せるし、まあまあ可愛い顔立ちの美猫ではあるからして謎の存在は嘘は言っていない。

 だけど猫だぜ。

 これからどうしろって言うんだよ。

 一応、人間様の言葉は理解できるようだ。

 まあ猫は人の言葉を理解しているっていうし不思議でもないな。


 でもなあ。

 猫か。

 そりゃ確かにペットショップの猫ちゃんに、お前たちはいいよなあ、と言ったこともあるよ。

 前世の家からちょっと離れたところにあったショッピングモールに入居していた店のショーケースのソマリの前でさ。

 ガラス越しに、愛想振りまいていれば3食昼寝付きで羨ましい、とか思ったこともあったよ、うん。

 でも、あの生活は豊かな現代日本のペットだからなんだよな。


 周囲を見回してみれば、道行く人は手にスマホを持っていないし、自動車も見かけない。

 あ、代わりに馬車が走っているな。

 どう見ても近世以前の文明レベルです。本当にありがとうございました。

 しかし、この猫の耳というのは良く聞こえるな。

 向こうの方で立ち話をしているおばちゃんの声を拾った。

「やーね。黒猫よ。きっと災いが起きるわ」


 なんだよ。

 ここの人間は黒猫に対して忌避感情を持っているじゃねえか。

 ちょっと離れたところにいるクソガキが石を拾っているのを見かけて反射的に逃げ出す。

 後方で石が跳ねる音がした。

 くそ。油断も隙もありゃしねえ。


 喉が渇いたので、堀割に顔を近づけてぺちゃぺちゃと舌を湿らせる。

 ああっ、まだるっこしい。

 一気に飲みたいが体の構造がそういうようにはできていなかった。

 水を飲んでいる間も耳は忙しく色んな音を拾っている。

 残念ながら俺のことを可愛いという声は聞こえなかった。


 とりあえず喉の渇きは収まったので歩き出す。

 俺の方に向けられる視線に好意的なものはなさそうだったので、塀に開いている穴から向こう側に逃れることにした。

 穴の縁にヒゲは触れない。

 よし、これなら通り抜けられる。


 俺の思考とは別に本能的な判断が下って、塀の向う側へと通り抜けた。

 草ぼうぼうの荒れた庭のような場所に出る。

 ちょっと先には崩れ落ちそうなボロ屋が斜めに傾いでいた。

 鼻をうごめかせて脅威となる存在、特に犬がいないかを確認する。

 問題ない。

 ここなら人間の目に晒されることもないし、ちょっとは落ち着いて考え事ができそうだ。


 勝手に体が動いてコロンと転がると全身をチェックしつつ舌で舐めて毛繕いをする。

 意識が戻った時に脇腹に痛みを感じたが、体を捻った感じでは骨にヒビが入ったり折れたりしているということはないらしい。

 推測するに、何か店先のものを失敬しようとして蹴飛ばされたが、衝撃を上手く吸収したというところかな?

 後ろ足の毛づくろいをするときに股の間が目に入る。

 ちんまりとしたものが見えて性別はそのままということが判明した。


 さて、これからどうする?

 人間様だって満足に食べることができなさそうな世界で愛玩するだけの動物を飼う余裕はないだろう。

 黒猫は嫌われているようだし、ペットになるという計画は早々に諦めるしかない。

 ああ、腹が減ったな。

 ちと腹ごしらえをしないと考えもまとまらなそうだった。


 

 

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