第2話 先輩の秘密
燐翔は胸の痛みで目を覚ました。冷たい汗が額を伝い、心臓が鼓動を早める。吐き気はするし、体は鉛のように重く、昨日の怪我がズキズキと痛む。前日の戦闘で、千英の許可を得ずに魔法を使った結果だ。
(これも、あれも、全部、佐伯が悪い……。何が簡単な仕事ですか……)
燐翔は布団の中で悪態をつきつつ、何とか起き上がろうとする。しかし、動こうとした瞬間、胸に鋭い痛みが走り、思わず息を呑んだ。
(今日は仕事に行けそうにないか……。あの時、光海を見捨てた方がよかったですかね……)
燐翔はしばらくそのまま横になり、天井を見つめていた。ふと、「あの後輩を一人4課に残すのは不味い」という不安が頭を過る。
しばらくして、障子が無造作に開けられ、使用人の千英(ちえ)が入ってきた。
「お嬢、おはよう。気分はどうだ?」
「良さそうに見えますか?」
「はっはっは、まあ、そりゃそうか。ちょっと、体温計とってくる」
千英は直ぐに戻ってくるなり、燐翔に体温計を投げて渡す。
「一応、報告しないとだから測っとけ。全く、一般人ならワクチン打っときゃ大丈夫だってのに、どうして庇ったりしたんだ?」
「ワクチンだって副作用があるじゃないですか。私の場合であれば、稀にこうして発作が起きるだけで、そうでなければ特にPWWウイルスなんて効かないので、最適だと判断しただけです」
「稀にって言う割には、毎度な気もするが。さては、新しく後輩ができたからって、はしゃぎすぎたんだろ」
「別に、見てられない程だっただけです」
千英に体温計を渡すときに、再び胸に痛みが走り、めまいがして燐翔は目を閉じる。
「だが、あんま力使いすぎるなよ。いざという時、使い物にならないとわからない訳じゃないだろ?」
「……勿論、わかってますよ」
「あと、佐伯から電話があったぞ。今日ばっかりは出社してくれってさ。何でも、例の後輩がやらかしたらしいぜ」
「嘘ですよね……?」
「残念ながら、本当さ。さて、準備してさっさと行ってきな」
「流石に、今日は動けないんですが……」
「頑張ってな!」
薬でごまかしごまかしの状態で職場に着くと、待ち受けていたのは上司の冷たい視線だった。
「先日の戦闘の報告書は不備だらけでね。体調不良なのは知っているが、即刻書き直してくれないか?あと、今回の件については君の責任だから、休むのは認めないそうだ」
「あれは、星さんが勝手に……」
「それも込で、君の仕事だから。まあ、怨むなら霧生さんを恨んでくれ」
「……はい」
兄の名前が出たからには燐翔は沈黙し、指示に従うしかなかった。反発を感じながらも無言で頷く。
佐伯から手渡された報告書の内容を見た瞬間、燐翔は言葉を失った。
光海が適当に書き上げたその報告書には、「敵の動きは予測できたが、失敗に終わった」としか書かれておらず、具体的なデータや状況の詳細がまったく欠けていた。
「ね?不備だらけだろ?」
「不備とかその次元じゃないですよ……。はあ、修正したら帰っていいですか?」
「他の書類とかの処理もあの子に任せる気があるなら、いいよ」
「それって、実質的に帰れないじゃないですか」
遅くに出社したせいで、廊下を歩く燐翔に他の同僚たちの冷ややかな視線が集まる。
「またズル休みするつもりだったのに、佐伯部長にばれたってところか」
「流石に、今月も休みすぎだからな。いつも遊んで夜更かししてばかりって話だぜ」
「本当、良い御身分だよな」
考えなしの偏見が聞こえてきて、燐翔はため息をつく。
ふらふらとした足取りで、4課の古びたオフィスに辿り着くと、中では呑気にスマートフォンを弄りながら大音量でロックを聴く光海の姿があった。
「あ、先輩!おはようっす!てっきり、今日は休むんだと思ってましたよ。もう11時だし」
「ええ、そうしたかったですよ。これ、どういうことですか?」
燐翔は光海に報告書を差し返す。
「報告書っす」
「どこが報告書なんですか。今まで、書き方を教わってなかったんですか?」
「そうっすね」
「それなら、どうした早めに相談しないんですか。今から教えるので、音楽を止めて下さい。あと、機密保持の観点からスマートフォンの利用は禁止されてますよ」
「……そうっすね」
燐翔は他の課の報告書の確認や、PWW研究の報告、装備管理書報告書の作成等を行いつつ、光海に報告書の書き方を指導する。
(今まで1課で彼女は何をしてたんですか。そもそも、1課の人は何をしてたんですか……)
まだ4課が新設されたてなお陰で、まだ業務量は少なく、昼休憩の頃には全ての書類作業は終了した。
「さて、帰りますか」
「先輩、佐伯部長から呼び出しっす」
「……今ですか?」
「そうっす。私も一緒に来いとのことで」
「わかりました……」
昼休みの人為感染症対策研究所内は人で賑わっていて、誰もが食堂を目指して歩いていた。その中を黙って燐翔と光海は逆に歩いていく。その様子を見た他の課の連中が話す陰口が自然と聞こえて燐翔は眉をひそめる。
「4課って、あの怠け者の集まりだろ?」
「また何かやらかしたのかな?」
「光海なんて、1課の時から問題ばかり起こしてたが、4課でも相変わらずみたいだな」
「まあ、無能同士、お似合いじゃないか」
「まあ、蛙の子は蛙って言うだろ?結局、親も無能だったわけだし」
ここでいくらでも言い返そうと思えば言い返せるが、事情が事情なので燐翔はただ黙って通り過ぎていく。すると、光海が突然立ち止まったかと思えば、拳を握りしめて去っていった1課の連中に向かって歩き出した。
「先輩、すいません。少し、時間を下さい。一発殴ってきます」
「……気にするだけ時間の無駄ですよ。今は部長の元に行くことを優先してください」
燐翔は実の所、既に体力的には限界だった。その為、直ぐに帰って寝たい所だったのだが、光海はそんな燐翔の気持ちは露知らず、どんどん1課の方に歩みを進めていく。
「星さん!勝手な行動は……」
「ああ、光海じゃないか。俺たちに話しかけるってことは、お前もPWWになりたくなったか?」
「おい!それ以上、父さんと母さんのことを馬鹿にするな!」
光海の叫び声は怒りに震えていて、辺りに響き渡った。周囲は驚き、瞬間静まり返る。その様子にさえ気づかないまま、光海は握りしめた拳を目の前の1課の男にぶつけた。しかし、相手は微動だにしないどころか、にやけながら肩をすくめる。
「おいおい、今、そよ風が吹いたのかと思ったぜ。あのな、本気のパンチっていうのはな」
殴られた男は流れるような動作で光海の顔を殴り返した。光海は反動で地面に倒れる。
「こういうのをいうんだよ。あーあ、無駄に体力を使っちまったぜ」
「この!」
直ぐに光海は起き上がるなり、再び殴ろうとするが、男に足を掛けられて、その場に転ぶ。
「こんなの、時間の無駄だな。そろそろ行くか」
「待てよ!」
光海は男の足を掴むが、男は腕を踏みつけて光海を冷ややかな目で見つめる。そして、さっきまでとは違い、低い声で話しかける。
「いい加減にしろよ。あー、うざくなってきた」
男はそう言って、ポケットから銃型の注射器を取り出した。対PWW用の麻酔銃だ。その照準を光海に向け、引き金に指を掛ける。
「静かにしてろ」
銃声が鳴り響き、誰もが眼をそむけた。一人を除いて。
「職員同士の戦闘は禁止されています。また、PWW用麻酔銃の人への使用も禁止されています。見た所、顔もやつれていますし、目の充血も酷いようで、他の1課の人の静止も聞こえなかったみたいですね。アルコールを控えることと、カウンセリングに行くことを推奨しますよ」
燐翔が銃口を下から持ち上げて、下に逸らしたことで、弾丸は光海に当たらず床に当たっただけだった。
「せ、先輩……!」
「お、おい、今、何をしたんだ?さっきまで、向こうにいたはずじゃ……」
「単に走って来ただけです。星さん、早く行きますよ」
燐翔は倒れている光海に手を差し伸べる。
「先輩、止めるならもう少し前で止めてくださいっすよー」
「無視したのはあなたの方です。後で、二人の件は部長に報告させてもらいますよ」
光海が手を握り返したその瞬間、燐翔は心臓の鼓動が激しくなり、意識が遠のいていくのを感じ、その場にしゃがみ込む。
「先輩?」
突然、胸の痛みが増幅し、めまいがした。燐翔は口を押さえ、咳き込む。手には真っ赤な血がついていた。
「……最悪な状況ですね」
「先輩!」
光海は慌てて起き上がって、燐翔を抱きとめた。辺りは再び静まり返り、二人に視線が集まる。
「先輩!誰か!救急車を!」
「あ、ああ、そうだな!すぐに連絡をする」
直ぐに傍にいた1課の人が電話を取り出すが、燐翔はそれを制止した。
「……連絡はやめて欲しい……です」
「何やら騒がしいみたいだけど、何があったんだい?佐藤くん、星くん。まあ、燐翔くんが倒れている所から大体わかるけどね」
唐突に人ごみの中から体格の良いスーツ姿の男が現れ、燐翔の元にやってくる。
「……佐伯部長……すいません……」
「まあ、こうなることはわかってたけど。ただ、人前では、ね。彼女についてはこちらで回収……なんとかしておくから、今は解散!昼休憩は有限だからね。ほら、行った行った。あと、星くんは一緒に来てくれ」
佐伯は軽々と燐翔を背負うなり、颯爽とその場を後にして、部長室の中に入っていった。そこには既に千英の姿があり、燐翔は目を逸らす。佐伯は燐翔をソファーの上に横たえた。
「あ、あの、部長!先輩は大丈夫なんっすか!?それに、この割烹着姿の方は!?医者っすか!?」
「はっはっは、私が医者だって?面白いね。そういうことにしとくか?」
「そんな訳ないだろ。こんな隻眼隻腕のタバコ吸った医者がいてたまるか。とっとと、燐翔の手当てぐらいしてやれ。それでも使用人か?」
「手当てって言っても、連れ帰る位しかできないけどな。まあ、放置しておけば勝手に治るから。な、お嬢!って返事が無いな。気を失ったか。まさか、息してなかったりして」
「先輩!」
光海は慌てて燐翔の元に近づいて、呼吸や脈を確認しだす。その姿を見ながら、千英は佐伯に笑いかける。
「はっはっは、騙されていやがるぜ。まあ、悪くないんじゃないか?」
「俺もそう思ってあいつの元に付けたんだ。根はいい奴だし」
「よかった、先輩、生きてる……」
「さて、星、少し話をしてもいいか?」
「……話っすか?」
「ああ、彼女、霧生 燐翔についてのだ」
朦朧とする中、燐翔は目を覚ますと、自宅の布団の上にいた。外はすっかり夜になっていて、月明かりが部屋に差し込む。
「お嬢、おはよう。あんたの後輩に会ったぜ。案外、いい子だな」
「……そうですか?問題ばかり起こしている気がしますが」
「誰よりも気にかけてたぜ。それに、あの事を言っても特に変わった様子は無いしな」
「部長が呼び出すから何事かと思えば、そのことだったんですね」
「いい後輩を持ったな。大事にしろよ、今度は失わないように」
千英が去った後、静かな部屋の中、床に横たわりながら、先輩は使用人の言葉を反芻した。
(千英がいい後輩と言う程、彼女はいい子でしょうか。トラブルメーカーで、怠惰な印象しか無いんですが。まあ、まだ彼女の事、何も知らない訳だから、一概に面倒な存在と見做すのも良くないですよね。ただ、彼女と居ると、疲れる……)
燐翔はため息をついて、目を閉じるのだった。
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