第3話 記者になったり、30分で世界が崩壊した話
そんなうちの家庭でしたが、私がある程度の年になったら、本当は健全とはいえないにせよ落ち着いていました。
父と母は離婚しました。それでも母は戻る場所がないので一緒に住んでいました。私に言わせれば、母は父に対する愛情が本当になくなったせいか、本来のおだやかでお人好しな性格に近くなって表向きは平穏に暮らしていました。
けれど私は幸福な家庭というものを渇望していたため、自分なりに今でいう婚活や出会い探しを私なりに一生懸命頑張っていました。いつもです。
SNSは今ほど盛んではなかったので、仕事は忙しく、なかなか人と知り合う機会はなかったですが、雑誌の文通欄を使って異性と知り合おうとしたり、遠くの歴史サークルに入ったりしました。
けれど出会いが少ないのと、相変わらず私の中の何かがずれていたせいで相手はできませんでした。幼馴染や決まった相手としか付き合わなかった時もあります。それが20代から30代前半の時です。
このままではいけないと本格的に思い始めたのが30代後半になってからで、その時には、私の見える世界は一変していました。
私は相変わらず、容姿は抜群にはよくないものの悪くはなく、どこかへ行けば誰かからは声はかかりました。また、随分遅くまで若く見られました。こういうと見苦しいかもしれないのですけれど、
「本当にその年なの? 肌がそんなにきれいなら、傷の治りも早いんじゃない?」
と言われたこともあるくらい、当時の私は年にしては若かったのです。
それが実年齢を言うと、同じ年や、年上の男性からも侮蔑される日々が始まりました。
女性に対する年齢差別がこんなに根強いものだとは知りませんでした。
世の中はそんな人ばかりではないでしょうが、SNSを使うようになっても、私が知り合える男性というのは限られていました。
結婚相談所に入って本格的な婚活を始めましたけれど、お見合いはもとから疲れる上に、なかなかうまくいかない。いわゆる「いい人」というのはとっくに売れてしまっていると気が付くのに時間はかかりませんでした。私もそのうちの一人でした。あっという間に時間が過ぎました。
40歳を過ぎた時に、思わぬことが起こりました。ささいなことがきっかけで、私はウェブ雑誌のライター、記者になったのでした。
旅や食が主なテーマで、同業者は子供ほどの年の人も珍しくなく、遅いデビューでしたけれど、結局5年ぐらいその仕事をやりました。当時私はまだ地方にいたのですが、国宝のお寺や豪華客船、横浜中華街、東京の有名な食の街の理事長のインタビュー記事も書きました。
けれどきつい仕事でもあり、コロナでいっぺんその仕事がなくなったことをきっかけにライター、記者の仕事はやめました。
私は40代後半になっていて、女の子は大分年下の友達もいたものの、あいかわらず男の人とはなかなか縁がありませんでした。お見合いで半年ほどつきあった人にポイと捨てられ、出産はかなり難しい年になっていました。
そして3年ほど前、思わぬことどころか、世界が崩壊するようなことが起こりました。
たった30分ほどで、約半世紀も、苦楽を共にした母が亡くなったのです。
その時のことはいまだにこれ以上いうことはできません。とにかくあっけなかった。
うちはそれなりに裕福な家でしたが、嫁いできてからの母は、平日の昼間は自由に出入りする人がいたせいで、母はほぼ最期までちゃんとした自室がありませんでした。もう来なくていいとその人に言えたのが亡くなる少し前で、
「言ったでしょう。私たちはこれからよ! 守られているんだから」
と励ましてくれていたのが、私が見ている前で、30分ほどで亡くなったのです。
よくも悪くも一心同体と言われた私はそれから、世の中がこんなひどいものなら生きていたくない、と思えず、気がふれたようになりました。
家にいると当時のことを思い出してしまって、いつまでたってもよくならないので、私は、親戚を頼って神奈川県の横浜に行きました。
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