スマホを落とされただけなのに
辞書的な意味でこの病を説明したところで、理解などしてもらえないだろう。といっても僕は病気についてほとんど人に知らせたことがないので、どんな反応をされるかよくわかっていないのだが。
僕にはできないことがある。そして当然、できることもあるのだ。
つい先週のこと。
僕は自転車でとなりの市を走っていた。用事なんかない。ただ運動のために、週一回、そこら辺を走り回っている。
この病の人はいわゆる引きこもりになりやすい。僕は違うぞ、ということをお知らせしたくて書いているところもある。いや、どうなのだろう。外には出ても精神的には引きこもっているようなものか。人には会わない、友達も作らないのだから。
運動は好きなのだ。小学校では少年野球、中学では野球部に入っていた。中学の途中で発症して、チーム・スポーツなどできるわけない状態に陥ったが。
とにかく体を動かすのはいい。風になりたい、などと詩的なことをいうのではなく、筋肉が発達すると、自信が湧いてくる。
僕はこの病の人としては例外的に、狂人レベルで自分が好きなのだ。まあ、それについては理由もあって、あとあと説明したい。
大した自転車には乗っていない。いわゆるママチャリ、実際小さい子供を乗せられるような座席が、後輪の上に設置してある。小さい甥と姪がいる。
ある駅の近く、郵便局前の交差点で。
バイクが僕を追い抜いていった。左折したところで何かを落とす。それなりの重さのあるものを。
ゴミだったらもちろん無視だ。他人が町を汚したことのツケを払うほど、お人よしではない。
わりとぼろぼろの、金属片のような。おやおや、スマホではないか。
僕自身は故あって、スマホを所持していない。貧乏だから、というのもある。あと、人からひっきりなしに電話がかかってくるのが苦痛でならない。
翻訳家だった頃、編集者から固定電話でしょっちゅう連絡があり、常に緊張を強いられるのがつらかった。下っ端の僕に、メールでお願いします、なんていえるわけないもの。
ケータイを持ってたら、あれを許可するってことじゃないの。みんなあれによく耐えられるな、と心底思う。
いや、やはり貧乏だから、が第一の理由だ。
矛盾するようだけど、その時ちょっとだけ思ったよ。この落とされたスマホを自分のものにしてはどうか、と。ただ3・5秒後に却下。たぶん、こんなの登録とかしなきゃ使えないんでしょ。一度も持ったことがないのでよく知らないが。
財布だったらなあ。漫才でよくある、天使と悪魔が背後に現れて、みたいのがないとも限らない。
結局、他人のスマホなんか何の役にも立ちはしない、と判断。ここまで7・8秒。
自転車に乗り直して、バイクを追い、左折。よかった、赤信号に引っかかってる。
いや、よくはない。けっこう距離があったので。信号なんかすぐ変わるぞ。
あれをするしかないではないか。でも、僕にそんなことができるか?僕は回避性パーソナリティ障害なんだぞ?
ちっ、仕方ないではないか。だってどうしようもなくお人よしなんだもの。
「そこの信号待ちのバイクの方―っ!スマホ落としましたよおーっ!そこの、黒い上着に黒いヘルメットの人―っ!ス・マ・ホ!ポケットから落としたでしょおーっ!」
大声で叫んだのなんていつ振りだろう。中学の野球部以来か。
信号が青に。だめだ、バイク、全然気づいてくれずに、いっちゃった。
「どうすんだよ、おい。止まれよな。くそったれ」大声の余韻で、通行人みんなに聞こえる音量で、痛罵。
町なかで大声で叫んでるからって、精神錯乱者ではないですからね。精神病患者ではあるけれど。
「あのう、どうしました?」
後ろから声をかけられる。あー、違うんです、僕は不審者ではなく。
バイクに乗った、大学生くらいの親切そうな兄ちゃんだった。
「えっと、スマホ、さっきの人がそこで」しどろもどろで説明。
「ボク、追いかけてみますね」
ブルルン、といってしまった。ああ、よかった。これで一安心。
とはいかなかった。しばらく待ってみたものの、その先の道はやはり分かれており、もうどっちにいったかなんて誰にもわかりはしないのだった。あの兄ちゃんも、全然もどってこない。
はい、もうあれですね。終了ってやつ。とはいかない。普通に、警察に届けるのが筋でしょう。
ただ、近くに交番なんてあるだろうか。スマホを所持しているが、スマホを所持していないので調べられない。遠くにだったら一カ所、心当たりはあるが。
僕は仕方なく、おそらく人生初、交番のドアを開けた。なんも悪いことしていないのに、やっぱりドキドキする。
いかつい顔をイメージしていたけど、普通の兄ちゃんとおっさんの制服コンビだった。
拾った場所を話し、氏名と住所と電話番号(家電)を控えられた。ほっといてほしかったけど、年齢も。四十三だよ、悪いかよ。職業は聞かれずにすんでほっとする。無職です、と口にするのは屈辱だ。
「お礼の電話とか、どうしますか」
「えーっ、いいですいいです」
なんかあれだな、悪党に襲われた町娘を救ったところ、「あの、お侍さま、お名前は?」「拙者、名乗るほどの者ではござらん」みたいな。
本当は電話のベルを鳴らされるのが面倒なだけ。どうせ見つかるんでしょ。大変だもんね、スマホなんかなくしたら。
あれからやはり、連絡などなかった。その後の展開も、知りようがない。
普段びびって人に声なんかかけられない回避性患者でも、考える時間が与えられず、どうしてもせねばならない、なんて制約がかけられた場合なら、ちゃんと普通に人と会話できますよ、というお話でした。
文体とか話の雰囲気とか、前回と全然違ってしまったけれど、思い返しながらバラバラの感じでいくからね。
回避性パーソナリティ障害性人生 祥一 @xiangyi
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