第8話「家族の影と自分の道」

数日後、エリザはヴィンセント伯爵の部屋に呼ばれた。転生してから数ヶ月が経つものの、彼とまともに顔を合わせるのはこれが初めてであり、彼女の胸には少し緊張が走っていた。重厚な扉をノックし、伯爵の許可を得て部屋に足を踏み入れると、厳格な家具に囲まれた威圧的な空間が彼女を包み込んだ。部屋の中央には、冷然とした表情で彼女を待つヴィンセントの姿があった。

「お父様、私にご用でしょうか?」エリザは一歩前に進み、丁寧に頭を下げた後、恐る恐る顔を上げて父を見た。ヴィンセントの眼差しは氷のように冷たく、彼の鋭い視線が彼女を貫いていた。まるで彼女の存在が、ただの血筋の一部でしかないかのように、そこには一片の情すら感じられなかった。

「お前には、分をわきまえてほしい。」ヴィンセント伯爵の低い声が室内に響き渡った。その声音には冷たさと共に、容赦のなさが宿っていた。

「分…ですか?」エリザは思わず尋ね返した。彼の言葉の意味を理解しかねたまま、視線を彷徨わせる。ヴィンセント伯爵の態度にはどこか不満が滲んでおり、それが彼女の不安をさらに掻き立てた。

ヴィンセント伯爵は冷ややかな視線のまま、続けて厳しい口調で言葉を放った。「エリザ、お前はローズウッド家の名を背負っているのだ。この家の者としての立場を忘れず、慎み深く振る舞うこと。それが一族にとっての誇りだ。」

彼の言葉は重く、まるで鎖のように彼女の心に絡みついた。エリザは息をのんだ。家の名誉を守るために「慎み」を持てという父の命令に、エリザは反発する気持ちを覚えつつも、それを抑え込んだ。ここで何を言っても、彼に届くはずがないことは、彼の冷たい視線が如実に物語っていたからだ。

ヴィンセント伯爵の言葉を受けながら、エリザの脳裏には夫人の姿が浮かんだ。いつか彼女に「自由に自分の人生を歩んでほしい」と囁いてくれた夫人の優しい声が、今や遥か遠い記憶のように響いた。彼女の胸には、夫人の言葉とヴィンセント伯爵の厳しい命令との間で引き裂かれるような苦悩が生まれ、思わず視線を落とした。

エリザは、ヴィンセント伯爵の監視の下では夫人との再会が許されないことを悟った。自由や選択肢を尊重してくれた夫人の言葉は、ここでは意味を成さないのだろう。ヴィンセント伯爵は冷淡に彼女を見つめ続け、わずかな感情も表情に浮かべることなく静かに背を向けた。まるで、彼女にこれ以上の価値などないとでも言うかのように。


その日、エリザは気持ちを落ち着けるため、馬術の練習をすることに決めた。乗馬は彼女にとって自由を感じられる数少ない時間であり、心の解放にもつながる貴重なひとときだった。しかし、練習場に足を踏み入れると、思わぬ人物の姿が目に入った。そこには、老婦人が立っていた。

老婦人は彼女を鋭い視線で見つめ、冷たい口調で問いかけた。

「エリザ、私の顔も忘れたのかい?まさか、初めて見る顔だとでも言うのかしら?」

エリザはその言葉に一瞬戸惑ったが、慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「初めまして、おばあ様。エリザ・ローズウッドと申します。」

「ふん、礼儀だけは心得ているようね。」祖母は鼻で笑い、エリザの挨拶を一瞥しただけで受け流した。その冷たい視線が、エリザの全身をすっと刺すように通り抜け、彼女の表情を一瞬硬くさせた。

「エリザ、馬に乗るのは構わないが…汚したらどうするつもりだい?それで道具としての価値が下がったら、誰が責任を取るのか考えなさい。」

エリザは、心の中にわき上がる反発心を必死に抑え込み、何も言わずにその場に立ち尽くした。祖母の冷たい視線が突き刺さるように感じられ、彼女は唇を強く結びながら、馬のたてがみをそっと撫でた。乗馬は彼女にとって自由を感じられる数少ない時間であり、解放された気分になれる貴重な瞬間だった。それにもかかわらず、今やその自由すら、家族の厳しい目によって制限されてしまっている。

「道具としての価値が下がる…」祖母の言葉が耳に残り、エリザの心を重くした。馬も彼女も、ローズウッド家にとってはただの「道具」にすぎないのだろうか。この家に生まれた以上、自分の心を押し殺し、家の名誉や評判を守るためだけに存在しなければならないのかという疑問が、彼女の中で強まっていった。

祖母は一度冷たく視線を逸らすと、さらに鋭い口調で続けた。

「エリザ、いい加減に自分の立場を理解しなさい。あのアレクシス王子との関わり方も、もう少し慎重になるべきだわ。たとえ婚約を断ったとしても、あのような王子と親しくするのは、ローズウッド家の品位にふさわしくない。」

エリザの胸の奥が再び鋭く痛んだ。アレクシスとの関係は、ただの友情だった。彼は自由奔放で自分に正直な人間であり、彼と話すことでエリザは心のわだかまりから解放される瞬間を感じていた。それでも、彼と笑い合う時間すら、家族の名誉を損なう行為とみなされるのだろうか。

「祖母様…」エリザは一瞬言葉を漏らしかけたが、祖母の厳しい眼差しに怯み、口を閉じた。何を言ったところで、自分の言葉が届くはずもないと感じたからだ。

祖母はエリザを無視するかのように視線を逸らし、馬の足元に視線を移した。そして、冷たく厳しい声で言い放った。

「私が若い頃は、家の名誉を守るために必死で努力したものよ。軽はずみな行動など一度も取らなかった。エリザ、あなたには私と同じ誇りが足りないのかもしれないわね。」

その言葉に、エリザの心の中で何かが崩れる音がした。彼女は自分なりに家の期待に応えようと努力してきたつもりだった。しかし、祖母にはそれがすべて無意味に映っているかのようだった。

「…わかりました。」エリザは小さな声で答えたが、その言葉には何の感情も込められていなかった。ただ祖母の前で反論することを許されないという事実が、彼女の心に重くのしかかっていた。

祖母はそれ以上何も言わず、冷たい表情のまま立ち去った。エリザは彼女の後ろ姿を見送った後、そっと馬の背中に手を伸ばし、その温もりに少しだけ救われた気持ちになった。

だが、その自由の象徴であるはずの乗馬ですら、家族の目に映るのは「道具」としての価値のみ。エリザは目を閉じ、馬に軽く頬を寄せながら、心の中で決意した。

「私は…私自身でいたい。それがたとえどれだけ困難であっても…」

再び目を開けたとき、エリザの瞳にはかすかな決意の光が宿っていた。

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