第3話 秋雨紗理奈

 私は、扉を潜って小さくなっていくスーツ姿の背中を半ば唖然あぜんとしながら見送る。


 雨が好きなところや、甘党でクリームソーダが好きなのに、付いてくるさくらんぼが嫌いでいつもさくらんぼだけ残すところ。


 七年前と同じところを、私はまだたくさん見つけられるのに。


 髪が短く綺麗に切り揃えられていたところや、ハッキリと意見を主張する話し方をするところなど、昔と全然変わったところはそれ以上にたくさん見つけられる。

 着替えるからと言っていたのに、カフェに着て来たのがスーツだったことも……今更ながら、今の碧と自分との距離を感じさせた。


 目の前のソファー席が空いて、一人になったら……やけに外の雨の音が耳に入る。


 七年前に、先輩に告白された日も。

 同じ年に、気が付いてはいなかったが愛していた碧に別れを告げた日も……どちらの日も雨だったから。


 嫌な思い出ばかりがある雨が、私は嫌いだ。


 その存在を思い知らされる中で一人でいると……中身がほとんど減っていないアイスコーヒーのグラスを濡らす水滴が、コースターに向かってつーっと滑り落ちる様子すら気になって仕方がなかった。


 中身が消えて、外側もからっと乾いたクリームソーダの容器と外側が濡れているアイスコーヒーのグラスが、まるで私と碧の想いの差を表しているようで……なんとも言えない苛立ちを感じる。


「ハァ……」


『俺、今本当に幸せなんだ。だからさ、もう俺に関わらないでくれ。次に会ったら、今度は付きまといで警察に通報するから』


 碧の落ち着いた声が、頭の中で何度も再生される。


 よりを戻すでもなく。

 責めるでもなく。

 碧は、関わるなと言った。


 ただただ、もう近寄るなと。


 好きの反対は無関心なのだと、そう思う。

 碧は私に完全に無関心だった。

 彼の心から、私は既に除かれているのだ。


 先輩と別れてから三年、家を知ってる先輩から離れる為に引っ越して……新天地で勤務先を見つけてお金を貯めた。

 やっと生活が落ち着いてきて、初めに思い浮かんだのが碧だった。

 ただ、今どこで何をしているのかを知りたくなったのだ。


 もし、彼女がいないなら……と考えなかったとは言わないけど。

 会ったらやり直せるかも。そうじゃなくても、謝りたい。

 そう思わなかったと言うと、嘘になるけど。


 それでも、ただ知りたいという感情が大きかった。


 去年、高校の同窓会で幹事をした子に碧の住所を聞いて訪ねてみたけど……その結果がこれだ。


『俺も、お前と話すのはしんどかったよ。本当に、別れて良かった……じゃあ、さようなら』


 私が、七年前に言った事をなぞらえて、碧は私に別れを告げた。

 その事実に、心がジクジクと熱を持って痛む。


 ……私は、しんどいなんて思ってなかったよ。

 ……私は、まだ会いたいよ。

 ……私の、どこが悪かったの?

 ……どこから、間違えたの?

 私の悪いところは、全部直すからっ……あ。


 そこまで思って、私はやっと気づいた。

 私は、これ以上にひどい事を……七年前の碧にやったのだ。

 これ以上に心無い言葉を、碧に言い放ったんだ。


『お前が今話している相手も、お前と同じ心ある人間なんだ』


 幼い頃に、父から言われた言葉の意味を……今になってやっと、ちゃんとわかった気がした。


 碧は七年前、一体どんな風に思ったのだろうか。

 一体、どれほどの傷を負ったのだろうか。


 碧は、一体どれほどの傷を抱えながら、この七年間を生きてきたのだろうか。

 どれほどの傷を、乗り越える必要があったのだろうか。


「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいっ……」


 もう、謝ることすら許されないけれど。

 それでも、口に出さないことは出来なかった。


 外で水溜りに雨の雫が落ちるように、ぽたぽたと私の涙がアイスコーヒーに落ちて溶けた。


 ……やっぱり、雨は嫌いだ。


 氷が溶けて薄くなったコーヒーを、ゆっくりと飲み込んでいく。

 涙を含んだアイスコーヒーは、少し塩っぽい味がした。

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