第2話 雨宮碧 ②

「……で、本当に今更何なんだ?」


 駅前にあるカフェに入ってすぐに、店内で作業をする時のようにクリームソーダを注文し、届かぬうちに紗理奈に訊く。


 雨のせいか、外も中もむわっとした湿気を感じるのに……俺ののどは緊張でカラカラだった。

 張り付いたように空気を震わせて音を発することを拒否する喉を必死に動かした末の問いは、どうやら紗理奈にも届いてくれたようだ。


「うん、あのっ、実はね……」


 紗理奈の前に置かれたアイスコーヒーが、からんっと氷を鳴らす音がやけに大きくひびいた気がする。まぁ、俺の気分の問題なのだろうが。


 ぽたっ、ぽたたっ。

 とんっ、ととんっ。


 机にかけた傘から雫が落ちる音と同じリズムで机を叩くのは、緊張した時に無意識に出てしまう……七年前から続く俺の癖だった。

 ああ、これもそろそろ直さなきゃな。

 いつまでも、過去にしばられている訳にはいかない事を……俺はよく分かっている。


「私ね……随分前に先輩と、別れたの」


 縛られる訳にはいかないと、分かっているから。


「……そうか。それだけを言いに来たのか?」


 なんだ、それだけか。

 そんな事だったのか。

 そう思える自分に、どこかでひどく安心した。


 きっと俺はどこかで、自分がまだ紗理奈に未練みれんがある事を恐れていたのだと思う。

 大丈夫、俺はもう少しずつ前に進めている。


「……それだけなの? 『ざまぁみろ』……くらいは言われるかと思ったのに」


 進めていないのは、今目の前で暗い顔をしている紗理奈の方だ。


「俺に、そう言って欲しかったのか? ……なら、来るのが遅かったな」


 俺はもう、紗理奈のことを何とも思ってない。


 細やかな嘘を交えて、そう告げた。

 紗理奈が、その言葉にいちばん傷つくと知っていて。


 ああ、ほら、だって……やっぱり。

 どんな言葉を、前につけるのが正解なのかはわからないけど……今、紗理奈は泣きそうな顔をしてる。


 どうせ、俺とやり直せたらとか思ってたんだろう?

 俺は昔気が弱かったから。

 確かに昔のままだったら、今俺は喜んでお前とやり直したかもな。


 そして、それが無理でも……。


 責めて欲しかったんだろう?

 その方が、気が楽になるから。

「自分はつぐなった」そう思えるから。


 ––お前だけ楽になるなんて、許すかよ。


 俺は、今もお前の記憶に苦しめられているっていうのに。


「わ、私が碧に、七年前なんて言ったか覚えてないの!?」


「覚えてねぇ訳ねぇだろ」


『私、先輩に告白されたの。で、先輩と付き合うから別れて。私と碧、全然タイプも進路も違うから……前からちょっとしんどかったんだ。話合わないし』


 俯いたまま、口調だけは淡々として別れを告げられた。

 紗理奈が放った、俺も同罪というような言葉の数々……今なら反論出来るが、あの時は紗理奈を引き止められなかった俺が悪いのだと思わされた。


「ならっ……」


「でも、もういい」


 もう、いいんだ。

 俺にとっては、過去の事だよ。


 わずかな笑みさえ浮かべてそう告げた俺に、紗理奈はついに一筋のしずくこぼした。


「わ、私は……私はずっと、先輩よりも碧のことが好きだった」


「……」


 俺たちの間に流れる空気を読んだ店員が、邪魔にならぬようにそっと置いてくれたクリームソーダを飲みながら……とりあえず紗理奈の話を聞く。


 あまりに身勝手で、それでいて……語り方によっては悲劇ともなる話を。


「先輩に告白されて、揺れた。だって、高校生モデルとして活躍してたくらいには、先輩はかっこよかったんだもん。……でも付き合い始めてすぐに、この選択は間違いだったんだって気づいた」


 先輩は、女遊びが激しい人だった。

 それでも、その時は私は特別だと思って耐えてたの。


 どこか遠い目をして語る紗理奈に対して感じるドロドロとした苦い感情を、口の中に広がるさわやかなメロンソーダとまろやかなバニラの甘みで中和して……喉の奥に、そっと流し込む。


「四年、先輩の浮気を知りながら付き合った。でも、いつからか……だんだん、碧は一途だった。碧は、碧なら……なんて考えが頭から離れなくなって……私、限界になっちゃって……それで、先輩と別れたんだ」


「……そうか」


 聞こうと思ったのが、間違いだった。

 想像以上に、紗理奈は勝手だ。

 少しは、マシになっているのではないかと思ったのに。


 また、俺のせいにするのか?

 別れた時みたいに?

 そんな問いが浮かんで、頭の中に分厚い雲を作っていく。

 考えられることが減って、視界が狭まっていく。


 感情を爆発させるのは、良くない。

 そうわかるのに、抑えられなくなっていた。


「それから三年が経って……最近は、やっと少し落ち着いたの。それでね……碧は今、どうしてるのかなって思ったの」


 身勝手な言い分。

 そんな事で、俺は二度も傷つかないといけないのかと思うと……今すぐに、怒鳴り散らしたいような……そんなグチャグチャとした衝動しょうどういた。


 もう限界だと、感情に任せて水に手を伸ばし……テーブルの上に置いていたスマホにバイブレーションと共に表示されたメッセージを見て、ハッとした。

 頭に浮かんでいた、全ての雲が晴れたようにスッキリとした気分になる。


 深呼吸を一つして、心の中に降り積もった黒い感情を吐き出してから……俺は口を開いた。


「……俺な、今日予定があるんだ。同居人と、映画見て食事するんだよ」


 ゆっくりとした紗理奈の話を聞いてるうちに飲み終えたクリームソーダの容器を置き、俺は語った。

 きっと、紗理奈が予想していた話とは、似ても似つかない話を。


「同居、人……彼女さん?」


「違う。完全な男友達……親友なんだ。紗理奈も知ってる奴だよ。梅雨莉つゆりふみ


「ぁ……あの金髪の子」


「そう。見た目チャラい奴」


 高校ではちょっと仲の良いただの同級生だったけど、アイツ、見た目と違って意外と真面目でさ。思ったよりも気が合って、大学で仲良くなったんだ。

 昔、アイツも女性関係でトラブルあったらしくて……二人とも彼女作る気無いし、気楽な者同士シェアハウスでもするかって話して……今、本当に二人で住んでる。


 俺は、意識してゆっくりと話した。


「紗理奈が、先輩と付き合ってすぐに後悔してたのは……昔から知ってた」


 俺が唐突とうとつに話した内容に、紗理奈が下がってきていた頭をバッと上げた。

 その表情は、驚き一色に染まっている。


「俺だって、高校をボッチで過ごしてた訳じゃないのは知ってるだろ? ……先輩の悪評は、聞いてた」


 だから、ざまぁみろなんていうのは……とっくの昔にそんな思いをして、そして、捨てたよ。


 俺が、先輩の行為を知っていたこと、そしてその上で苦しんでいるであろう紗理奈に何もしなかったことを聞いて……紗理奈は、マンションの前にいた時のようにまたうつむいた。


「俺、今本当に幸せなんだ。だからさ、もう俺に関わらないでくれ。次に会ったら、今度は付きまといで警察に通報するから」


 何も言わない紗理奈に向かって最後にそれだけ言って、俺は伝票と傘を手に持って席を立った。


 もう会う事もない。

 そう思って少しスッキリした状態でレジに向かおうとして……ある事を思いついてくるりときびすを返し、紗理奈にある事を告げた。


「ぇ……?」


 涙も引っ込んだというように唖然あぜんとした顔を見せる紗理奈に、今度こそ心の底からスッキリしてレジへと向かった。


「ありがとうございました〜」


 馴染みの店員に見送られて店を出ると、未だ雨は止んでいないものの……遠くの空には、一筋の光が差しているのが見えた。

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