胸に響く水流のせせらぎ
それは小山さんと連絡先を交換できた日よりも少し前の事。
私は最寄り駅の近くにある老舗の惣菜店でアルバイトをしている。学校からは3駅の距離で、放課後のアルバイトは週に2回。
「……私にもう少し勇気があればな」
せっかく前の席に小山さんが来て、今までにないくらい関われているというのに、進展はゼロ。もっと沢山話したいというのに会話が生まれるのはプリントを渡すほんの一瞬。
それじゃあ、足りないよ……本当は、もっと。
「あ、いらっしゃいませ」
バイト中なら忘れられる――わけもなく、私は接客しながらもずっと小山さんのことを考えていた。揺れるポニーテール、心地の良い声、素敵な笑顔。
私に文学の才能があったら、1冊は本を書いているな、と内心で苦笑した。
「……あれ?」
そんな折だった。
客足が遠のく時間帯に、綺麗なお姉さんが入店してきた。おろした髪は艶やかに風に揺れて、服装も私よりもとてもおしゃれで、思わず見惚れてしまった。銀縁の眼鏡も大人びた雰囲気だ。けれど、その靴が学校でよく見るような運動靴で、少し違和感があった。
でも、私が気になったのはそこじゃなくて。
(お姉さん、なんか――すごく、辛そう)
鞄も何ももたずほとんど着の身着のまま、と言った様子のお姉さんの口は何かに耐えるように固く結ばれ、秋といえど温かなこの日に入店してからずっと、震えそうな片腕を抱いている。それでも精一杯取り繕ったように、ケースの中のお惣菜を眺めている。
その、ちぐはぐさが気になってしまった。
(高校の先輩くらいか……大学生、とか?)
なんとなくお姉さんを気にかけながらカウンターの荷物の整理をしていると、か細い声が飛んできた。
「あの……これ、ください」
「あ、はいっ、ただいま」
お姉さんはこれと言いつつも、少し離れたところからケースを指さしていたから、どれかがはっきりしない。聞き返すと、「……じゃあそのお団子を、1つ」と言っていた。
じゃあ、が気になったが、私はとりあえずお団子をパックに詰め、値段を伝え、お姉さんが支払いをするのを待って――気づいた。お姉さんがいないのだ。
「――あれ?」
カウンターから身を乗り出すと、お姉さんはその場にうずくまって泣いていたのだ。
「お、お姉さん……っ、大丈夫ですか!?」
私は慌ててお姉さんの元に飛び出した。頭に着けていた三角巾を置き去りにして。
お姉さんにこんなことをするのも、と思ったが、私は片膝立ちになってゆっくり、ゆっくりとお姉さんの背中をさすった。その背中はとても小さくて、震えていて――まるで、子どもみたいで。
「――!え……ごめんなさい、あたし」
「――い、いえ。大丈夫ですか?」
お姉さんの声に、私はなぜかどきりとした。
「恥ずかしい、ところを、見せちゃったね」
「ぜ、全然そんなことないですよ。お茶とか、持ってきましょうか?」
「……うん、ありがとう。お願い」
お姉さんにお茶を持ってきた私はカウンターの業務そっちのけで、店内の椅子にお姉さんと並んで座った。頬がまだ少し濡れていたから、少し迷ってからまた、背中をさすった。
お姉さんはそっとお茶を受け取って、何口か飲むと落ち着いたのか、力なく微笑んだ。
――あれ、今の。
声だけでなく、なぜかその表情にも胸がどきりとして。
「ほんと、ありがとう。だいぶ楽になったよ」
「良かったです……少し、休んでいきますか?」
「――うん」
どこか悲しそうにそう言ったお姉さんは閉店ギリギリまでぼんやりと、椅子に座っていた。カウンター越しに何度か目が合って、私はなんとなくお姉さんに微笑みかけた。
お姉さんも嬉しそうに頬を緩めてくれたから、それが少し嬉しくて。
「本当に、ありがとう。事情も、聴かずに」
「いえ。色々、あるでしょうから。えと……お団子、どうしますか?」
「――ごめんなさい、あたし。今気づいたんだけど、お財布持ってなくて。本当に、失礼だよね」
私は詳しくは聞かなかったが、そういうことなら、とカウンターの下にお客さんにみえないように取っておいたお団子とおはぎを取り出した。おやつにどうぞ、と店主さんがくれたものだ。
食べる暇がなくてとりあえず置いておいたものだけど、これならすぐあげられるし。
「あの、これ。私のまかないですけど、良かったら」
「えっ、でも」
「いいんです。泣いた後は、甘いものを食べたら――えっと、あんまり詳しくないから分からないけど、多分いいはず!な、なので」
「――ふふ。あははっ」
お姉さんは私の根拠のない自信と謎の決めポーズを見て噴き出してしまった。ちょっと恥ずかしかったけれど、笑ってくれたならいい、かな。
綺麗に袋に入れて、お箸もつけて、お姉さんにおやつを手渡すと、
「ありがとう。嬉しいよ、佐崎さん」
そう言って、お姉さんはその日一番、温かな笑みを浮かべた。
「はい。もしよかったらまた遊びに来てくださいね」
「――うん。また、来るね」
お姉さんは名残惜しそうに、けれど確かな足取りで店を出て行った。ほんの1時間にも満たない間そこにいただけなのに、なぜだか妙に寂しくて、私はそれをごまかすように業務に集中した。
帰り際、店主さんと談笑をして、またお願いしますと頭を下げる。いつも通りの帰路についた私は、ふと気が付いたのだ。
「――あれ?名札も着いてないのに、なんで……」
お姉さんはなんで私の名前を?
※※※
小山さんと連絡先を交換した日はアルバイトのシフトが入っていて、お姉さんが来たのがちょうど前回だったから、私はうっきうきの下校中にふとお姉さんのことを思い出していたのだ。小山さんが9割、お姉さんが1割。
普段の私の小山さん12割の中に別の人がいる――お姉さんは、あれから大丈夫だっただろうか。
「不思議な人だったな」
あの後、プリントを渡す時や小テストの時、照れくさくっていつもみたいに話せなかった。けれど、いつもなら友だちのところにご飯を食べに行く小山さんが少しだけ私と話してくれたから、おつりがくるくらい嬉しい。
今日は何食べるの、お弁当だよ、あたしは菓子パンだよ、じゃあまたね。
「ふふふ」
たったそれだけの会話が、私にとっては一大事で、だから足取りも跳ねて。
連絡先を交換した勢いで何か話しかけてしまおうか――なんてねっ。
浮かれた私は今日が金曜日だということをすっかり忘れていたのだ。
――勢いは消えた。
「うう……こんなことなら金曜日バイト終わりにでも何か送っておけばよかった」
明日学校に行けば会えるとはいえ、この土日、せっかく仲良くなった小山さんと何も話せないまま終わるなんて寂しすぎるし。私にもっと勇気があれば、何か変わっていたのかな。
会いたい気持ちで溢れて、私はスマホを意味もなくいじる。メッセージを送れもしないのに小山さんとの会話欄を覗く。明日の授業を確認する。カレンダーを眺める。
「……明日、祝日じゃん」
しかも、アルバイトのシフトを入れていたことを、すっかり忘れていた。
「恐るべし連絡先パワー」
私はこんな時だけ祝日にしてくるカレンダーに舌を出して、布団をかぶった。
※※※
その日も客足が遠のく時間帯、帰宅ラッシュの少し前くらい。
「――あ」
小山さんに会いたいと10分に1回は頭の中で考えている私は、お店の入り口で手を振る人と目が合った。嬉しくなって、思わず振り返す。
相変わらずのおしゃれなファッションの、いつかのお姉さん。
「お姉さん!元気でしたか?」
「――やっぱり」
「……?」
「ううん、何でもない。この前はありがとね。また来ちゃった」
お姉さんは腰の後ろに回していた手をほどき、すたすたとカウンターまでやって来た。両腕を乗せて、そこに顎を置いてにかっ、と笑う。
大人びた雰囲気なのに、笑うと子どもっぽいそのギャップが、私はちょっとお気に入りだった。
「家、近くなんですか?」
「うーん、たまたま寄った、かな」
「そうなんですね」
客もいないし、業務も片付いたところだから、と私も雑談モードだった。手を前で組んで、お姉さんに相槌を打つ。
そういえば、小山さんと話すときも、こんな感じかも。
「……ふふ」
「なんか、佐崎さん楽しそう」
「あっ、そうですよ、お姉さん!なんで名前、知ってるんですか?」
するとお姉さんは一瞬、表情を強張らせたように見えたが、すぐに「実はね」と指を立てる。いたずらが成功した子どもみたいな顔だ。
可愛い人だな、と思った。
「ここには初めてじゃないんだ。前、お店の人が君のこと呼んでるのを聞いて。知ってたの」
「ああ、そうなんですね」
なるほど、確かにお客さんの前で「ささきちゃん」と呼ばれることは何度かある。この前のお姉さんとの出来事は忘れようもないけれど、普段のお客さんとして来ていたらよほど常連じゃなきゃ覚えらない。そういうこともある、かな。
それでも最初から「店員さん」じゃなくて「佐崎さん」だったのは少し、気になるけど。
「そしたら、私もお姉さんの名前、知りたいです」
「えっ」
私はちょっとした意趣返しのつもりで言ってみた。
まあ多分、少し話したくらいだし教えてはくれないかな、と思っていたら、
「――ひなた」
「え?」
「ひなた、って呼んで。私も、佐崎ちゃんって呼んでもいい?」
逆に大人の余裕のこもった笑みで返されてしまった。
やっぱり、その顔で見られるとどきりとする。そのそわそわがちょっとこそばゆくて、でも学校の友だちとはまた違う出会いが楽しくて、私は頷いた。
「はい、ひなたお姉さん」
それから私はひなたお姉さんとしばらく話し込んだ。そして、そろそろ用事があるから、とひなたお姉さんが店を後にしようとした時。
ひなたお姉さんは何かを思いついたかのように「あっ、そうだ」と声を上げ、踵を返しかけていた足を止めてくるっ、とターンをする。ふわっ、と舞う髪が、とても綺麗だった。
「佐崎ちゃん、なんか元気がないみたいだったけど、大丈夫?」
「え……そう見えました?」
「うん。気のせいかなって思ったけど。この前助けてもらったし、何かあたしに出来ることがあれば言って。相談にも乗れるよ」
お姉さんにはかなわないな、と私は襟足をかいた。ひなたお姉さんと話している間くらいは忘れようと思ったけど、そんなこと、やっぱり出来なくて。
小山さんと、話したい。
明日学校に行けば話せるけど、でも。
「……実は、ずっと前から気になってた子が、いて」
「――うん」
「その子と先週友だちに――ああ、えっと、連絡先、交換しただけですけど、でも。ちょっと仲良くなれて、嬉しくて」
「うん」
お姉さんは落ち着いた様子で聞いてくれている。
なんか口元がぴくぴくしてる気がするけど、気のせいだろう。
「でも、折角連絡先を交換したのに、全然話せてなくて。学校に行けば会えるけど――もっとお話、したくて」
相談、でもない気持ちの吐露だったけれど、ひなたお姉さんは静かに聞いてくれた。私が言い終わったとみると、あの笑顔を向けてきた。
それが励ましの表情だと、すぐに分かる柔らかな表情。
「その子から連絡先を聞いてきたなら、きっとその子も話したいはずだよ。いっそ、遊びにでも誘ってみたら?デートとかさっ」
「ででで、デートっ!?えっと、でも――ほ、ほんとに、それで?」
「うん、大丈夫だよ。きっと、喜んでくれるから」
「……私なんかが誘って――むぎゅ」
少し気になる箇所もあったけど、概ね「遊びに誘うべし」というひなたお姉さんの助言。でも、そんな勇気があったら――
それに、連絡先を交換したとはいえ、小山さんは私に誘われたら困るんじゃないか、とか。
そんなことを考えてしまって俯いた私の頬を、ひなたお姉さんはいきなり手で挟んできた。
「なんか、じゃないよ。佐崎ちゃんは、あたしを助けてくれたでしょ」
「……そう、です、けど」
「とっても嬉しくて、力を貰ったんだよ。だから、なんかじゃない。こんなに素敵な子に誘われて嬉しくない子なんていないよっ」
明るく歯を見せたひなたお姉さん――きっと、こっちが本来のお姉さんなんだろう。
あの日の沈鬱で痛々しい雰囲気を、私が拭う手助けが出来たのだとしたら、それは、良かった、のだと思う。でも、素敵、なんて。
(あれ、これ、どこかで――)
「じゃ、待たね。あたしは行くよ。その子と、上手く行くといいね」
「あっ、え、えっと――はい。ありがとうございます。頑張ります」
まだ自信はないけれど、誰かからそうやって言ってもらう経験はあまりなかった。だから、その事実だけでも、少し嬉しくて。
私はひなたお姉さんが去った後も、その言葉を何度も反芻した。
「素敵な、子」
小山さんにも、そう思ってもらえたら嬉しいな。
――なんてね。
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