第24話 ミューズを持つ邸

 ジェーンはド・ヴィアー家の前の広場スクエアへ歩み出て空を見上げた。彼女が式典の宮を出たことは戴冠式しかない。離宮から訪れた折と儀式の往復、馬車から眺めた光景と異なる都を彼女は初めて見ていた。

 メアリはそれを興味深げに眺めると喋り出す。


「楽しい? 私はここを毎日、散歩しろと言われても退屈で、今日は貴女がいて良かったわ」

「建物ばかりなのですね」

「タウンハウスだから。こういうところだと貴女のハーブを余計に思い出すのよ」


 彼女は飽き飽きしたように瀟洒な建物の飾りを見上げた。それでもゆっくり舗装された広場を歩くのはジェーンへの気遣いだろう。

 彼女達に遅れてメアリの添い人とソフィ、そして警護の二人がついて来る。邸内ではド・ヴィアーの人間との会話をソフィは一言も聞き漏らす様子がなかった。それに較べると、屋外は人目を憚り、距離がある。


「スクエアに季節の香草を撒きましょうか」

「良いわね! 私の散歩の時よ! 何でも用意するわ」


 弾む声が通った時、足音が近づき、聞き慣れた声が二人に降り注いだ。


「ご機嫌麗しそうで、お二人共」

「ロード・ハイド? ご機嫌よう。どうなさったのですか?」


 笑うジョンを見ると、メアリは帽子の影で後ろを窺う。ジェーンのエスコート役であるジョンを当日以外、彼女と接触させないことを邸に預かるメアリは知っていた。しかし、令嬢に伝えられる内容は少なく、不審の面持ちを浮かべる。


「レディ・メアリに未来の妻を取られないか心配で。一周だけ、彼女を借りても?」


 ジョンは平然と問いかけた。往来であれば警護と言えど伯爵家の人間に落ち度もなく無礼は働けず、ましてド・ヴィアーの責任下であればソフィは前に出られない。メアリの傍らに寄る添い人を感じながら、彼女はジョンを見上げた。


「振られたのでしたら、おやめになっては?」

「返事を保留されているだけです、レディ」

「そうなんですか?」

「貴女も結婚を申し込まれたら十六まで待たせると良いですよ。尽くされますから」


 にこやかに言い包めながら、ジョンは手の甲をジェーンに差し出す。そのエスコートを受けてジェーンがメアリから離れるとジョンは表情を変えない儘、声を落とした。


「急ぐ用があるの。君を<王の香り爪弾く乙女>にしようとしてる気配がある。この時期にちょっと不自然だから気になって。何かあった?」


 彼女は口籠もるが、それだけでジョンは小さく溜息をつく。話して、とかすかに促す声にジェーンはモードと交わしたシャトレーンの合図と、それを外した経緯を説明した。

 馬車路地ミューズへと繋がるアーチの前で靴音が消え、ジョンは奥へと顔を向けながら厳しい表情をする。


「どうして何もしないの? ソフィで良い。一言……」


 そう言いかけ、彼ははっとした。視線だけで隣りを伺うと、唇を引き結んだ儘、ヘーゼルの瞳が地面を凝視している。


「<王の香り爪弾く乙女>になりたいの?」


 ジェーンは俯いていたが、やがてほんの僅かに首を縦に振る。厳しい視線と非難を覚悟していた彼女に届いたのは、しかし、深く深く息を含める気配と、続く吐息を薄めて乾かしたようなジョンの声だった。


「……君もリチャード様や僕と一緒で、道は決まってるようなもんか。欲しいものは運命の悪戯に賭ける選び方しかできない。魔がさす、誘惑されるよね。でも、どうして<王の香り爪弾く乙女>なの? はっきり言って、君の場合、とても危険だよ?」


 浅い日差しの中、彼は穏やかな笑みで彼女に向き合う。それがソフィ達の目を気にしてのものか、常の彼の柔らかさか、ジェーンには判らなかったが、ほんの少しの話し易さを感じ、重い口を開いた。


「私のしたいことは<王の香り爪弾く乙女>の本来のお役目を超えることで、それをするには陛下から望むものをあらゆる手で引き出さなければならない、と伺ったんです。だから、私、何とか……機会があるなら、それをしようかと……」

「陛下云々はリチャード様に言われた?」


 困った眼差しで促すように首を傾げるジョンに彼女は頷く。途端、彼は何とか笑顔を保った儘、遠くを仰いだ。


「言うべきなのはそっちじゃないだろうに……本当に……君はリチャード様の大事なお姫様なんだね……」


 路地の奥から嘶きが聞こえる。蹄鉄が石畳を鳴らし、車輪が軋んで近づくのを見てジョンはジェーンをそこから離れさせ、歩き出した。


「ミス・モードに経緯を伝えるのは構わないね? ド・ヴィアーなら今日、彼女と接触できる人間を見つけられる。この後、僕はソフィに話しかけるから、その間に君はメアリと散歩の続きをしてミス・モードに秘密で至急連絡したいと頼んで」


 そう少し早口に告げると、ジェーンが頷くのを見て彼はゆったりとスクエアを回り出す。彼らを迎えたメアリがすかさず言った。


「長い一周ですね」

厩舎ミューズがあって新婚の住まいに良さそうだったので」

「立派なクラレンドン邸がおありでしょ」

「新婚生活はもう少し人目の……」


 愛想よく応じるジョンにメアリの添い人が咳払いする。それに視線をやるとメアリは肩を竦めてみせた。


「お返事のない内に考えても仕方ありませんわ」

「ご尤もです。レディに一時、彼女をお返ししますよ」


 少し大袈裟にお辞儀をし、ジョンは二人からソフィへと数歩、歩いて行く。


「ちょっと良いかな」


 侍女として呼びかけるジョンの態度に彼女は沈黙の儘、応えた。淡々と膝を折る彼女に彼は声を潜める。


「当日のこと、もう少し話す機会をもらえない? さすがに彼女が気の毒だ」

「ご信頼に反されたロード・ハイドはお近づけできません。殿下のご命令ですので」

「だったら、エドワードならば?」


 笑みを絶やさず見下ろす視線をソフィは見極めようとする。 


「今、リチャード様の閉じ込めるミューズ・アップお姫様に僕達ができることなんて口説くくらいでしょ。見張っておけば良い話だ。それより当日、彼女が失敗し過ぎる方が余程、リチャード様には問題だと思うよ」

「具体的にご用は何ですか?」

「エスコートされる練習。ストートン夫人の指導を受けてるし、所作は補えても、エスコートは別なの君はよく判るよね」


 ソフィはアンバーの目をジェーンの方へ少し向けると、諦めたように答えた。


「ミスター・ハイドをお入れすることは禁じられておりません」

「後でエドワードを寄越す」


 ジョンは頷く。彼はミューズを持つ伯爵家のタウンハウスに背を向けた。

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