第22話 緑樹の青林檎

 やり場のない怒りを荒々しい歩みに換え、リチャードは居住棟ハウスを進んで行った。襟の開いたシャツの乱れる儘、足早に廊を進むロスシー公に声をかけられる者はいない。その奥深くへと彼が角を曲がった時だった。


「何をしている?」


 思わず感情を忘れ、リチャードは目を見開く。

 ジェーンが箒でそこを掃き清めていた。ジョンといた装いが改められていることに安堵を覚えながら、リチャードは彼女へ歩み寄る。しかし、ジェーンは異常な彼の姿に驚き、目線を落としながら答えた。


「新しい香草を撒く準備をしております」

「君が? いや、君がそこまでする必要はない。他の者が宮を清めた後に撒けば良い。まさか今までずっとしていたのか?」

「ミス・モードから必ず自分の目で確かめてから、と教えられました。清めるまでは必要なくとも、そのつもりで見回ってから行っております」


 それを聞き、ジェーンを暫く凝視した後、リチャードは溜息をつきながら額に手を当てる。やや前屈する姿勢にシャツが緩み、ジェーンは頬を染めた。


「あの、殿下、よろしければ私は……」

「すまない」


 やっと自身の姿に気づいたようにリチャードは襟元に手を当て、後ろへ引く。ジェーンは目を逸らしがちな儘、膝を折るとそこを通り過ぎようとした。その刹那、淡いライラックの香がほのかな風となる。

 彼は思わずその手首を掴んだ。手袋を外した儘の右手が素肌に触れる。


「失礼!」


 咄嗟に指を開いたが、狼狽えるジェーンを見つめるとリチャードは目を細めた。それから彼は意を決したように声を発する。


「話がしたい。部屋……いや、庭へ。夕刻、人をやるから東屋ヘ来て欲しい」


 夏のいつまでも沈まない太陽は庭を明るく染め続け、昼と夕の境がない。侍従らしき人の訪問を受け、ジェーンが東屋へと足を運ぶ時も光は降り注いで止まなかった。

 東屋で待つリチャードは先刻とは異なり、いつもの威儀を備える。しかし、そこにないはずの黄昏が漂うようにジェーンには見えた。


「君はなぜ<王の香り爪弾く乙女ハーブストゥルーワー>になりたい?」


 席を勧めて、やや暫く沈黙が続いた後である。彼は尋ねると苦しげに目縁を狭めた。隠れそうなグレーの瞳がそれでも光を放つ。


「私の<香草の乙女>ではなく、それになりたい理由があるのだろう。だが、この宮ですることとミス・モードのすることに大きな差はない。君の望みを知りたい」

「……私はあの夏のない年、ミス・モードがハーブを見つけ、村に届けながら旅するのにご一緒しました。枯れた草の中から大事なものを見つけて役立つところに。どうなったのかは判りませんが、そういうお仕事を<王の香り爪弾く乙女>になれば、できると思いました」


 ジェーンがリチャードにこれ程、言葉を語ったのは初めてだった。ヘーゼルの眼が俯かずに彼を見るのに少し驚きながら、それを聞いた後、


「それは<王の香り爪弾く乙女>の役目ではない、ジェーン」


 苦い言葉に耐えかねたようにリチャードは息を吐き出す。


「ミス・モードがいろいろしていることは知っている。だが、それは……寧ろマダム……後ろ盾ある女性の奉仕に近い。<王の香り爪弾く乙女>の名は役立つだろうが、それになったから、できるわけではないんだ」

「そういうこともするお役目にはできないのですか?」


 リチャードにはすぐ口を噤みがちな彼女の意外な姿をじっと見つめてから彼は目を伏せ、暫くするとやおら立ち上がった。


「少し歩こう」


 東屋の階段へ歩を進めた後、彼は手の甲を差し出す。気後れし、腕を引いてしまうジェーンに彼は笑みかけた。


「構わない。誕生日を過ぎると、もっとこういうことはできなくなる。今だけだ」


 恐る恐る乗った指先を落とさないようにか、リチャードはゆっくり東屋脇の木立へと進む。青葉輝く木々を潜り、林檎の木に近づくとその足は止まった。枝は撓み、まだ落としてはならない実が幾つも目の前に下がる。

 それをグレーの瞳に宿して彼は苦笑した。


掌中の珠とAs the apple of my eye.


 消えそうに小さく呟くと、彼はジェーンの指をそっと掲げるようにもたげながら彼女へと体ごと向き直る。左手がシャトレーンに伸び、その重みは腰から離れた。銀が奏で合って響く。彼女はリチャードを驚き見つめるしかなかった。


「君を城の女主人シャトレーヌにしたいと思った。だが、飯事ままごとのようだったな。子供の時の君に合わせて作ったものだ。もう似合わないだろう」


 鳴くのを止めない銀の月桂樹に視線を落とし、また彼はジェーンの瞳を捉える。焦燥と切なさの揺れる目が細まった。


「ジョンに触れられた儘のこれを持っていて欲しくもない。君が望むなら、また贈る。ただ、その時は邸の鍵も伴う、本当の女主人として。私は君に跪けない。君を傷つけてしまうが、私はどんな形でも君を手の中に欲しい」


 その言葉を忌むように彼は眉根を寄せると言葉を切る。ジェーンの指を乗せた甲がかすかに震え、ほどけかけた彼の指はまた握られた。気難しい皺を深くしながらリチャードは瞼を閉ざし、声だけで語りかける。


「ハーブ・ストゥルーワーならば叶えることはできる。宮廷を離れたければ私に守れるところを見つけたい。<王の香り爪弾く乙女>の名で本来の役割を超えることをするには父上から望むものをあらゆる手で引き出さなければならない。ミス・モードのような巧みさがなければ君は王の望みに従うだけだ。それなのに、君のいるべき場所もすべきことも王によって決まるのを私は見るに耐えない」


 彼は銀を鳴らしてシャトレーンを上衣コートに入れた。

 目まぐるしい出来事と言葉がジェーンの中を駆け巡る。三人から告白された知らなかった現実は渦巻いて混濁し、なぜかモードの『心を痛める仕事を望みますか?』の声が時折、脳裏に浮き立った。

 そんな彼女に戴冠式での合図の約束を思い出す余裕はない。ただジェーンの腰からシャトレーンは消えた。


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