第19話 アネモネ眠る庭の友

 かすかに紅差すエルダーはジェーンの机に小さなリネンを敷かれ、置かれていた。それ以上は色づくことができずに水気を失うのを知りながら、彼女はそれを捨てることができない。

 部屋の外では来たるリチャード十六歳の祝賀を整える忙しない気配がする。新王宮で盛大に催される宴の香りはモードが支度しているだろうか、と思い巡らせながら、ジェーンは温室のライラックを膝に、暮れ始めた夏の花ばかりを合わせていた。

 噂に容易く傷つく自分に、<王の香り爪弾く乙女>として困難を受け入れて歩めるか、迷いは生まれ、ヘーゼルの目はともすればエルダーへと向く。しかし、花でも秋果でもないそれの儚さにジェーンの瞳は不安に満ちた。


「失礼します。ロスシー公が執務室へお呼びです」


 ノックと共に現れたソフィは躊躇いなく彼女へ寄り、ドレスを改めて行く。なされるが儘のジェーンを飾ると、彼女は片付けの手でエルダーをリネンごと取り上げた。


「こちらはもうお捨てしますね」

「それは使おうと……」

「ここは宮殿です。エルダーが必要でしたら新しいものをご用意します。青でも赤でも黒でも」


 ジェーンの抵抗に冷えた目を向け、彼女はそれを仕舞いながら先に廊下へ出てしまう。ハウスを出る際につく警護者に彼女が何かを伝えるのを見ると、ジェーンは執務室へと足を運ぶしかなかった。

 厳かな空間を抜け、部屋へ通されると、そこにはリチャードだけでなくジョンがいる。彼は豊かな伯爵家の後継らしく瀟洒な身なりで慣れたように笑みかけた。


「祝宴のことは知っているだろう? 君への招待状だ」


 リチャードは険しい顔で重々しい封筒を差し出す。


「私がなぜ!?」

「プリンセス・ロイヤル……ルイーズが君を推薦し、陛下がそれを叶えた」


 言葉を装うこともできず、目を見開くジェーンから視線を外し気味に彼は眉をひそめた。

 封書の紋章にケイデンシーはなく、その重さは彼女にも一目瞭然である。シャトレーンのペーパーナイフに手を伸ばすとリチャードのグレーの瞳が揺れた。


「ロード・ハイドが君をエスコートする」


 苦々しい声と銀の鎖の音色が部屋の広さに沁み渡る。その余韻も消えようかという時、ジョンが口を開いた。


「当日のこと、彼女と話す必要があります。庭を見ながら、よろしいですか?」

「この中庭だけで」


 リチャードは窓の方を少し見遣ると諦めたように告げる。しかし、その視線は鋭かった。ジョンは穏やかに礼を取った後、彼女へ右手を伸ばす。その甲にジェーンが恐る恐る指先を伸ばし触れるや、彼は微苦笑して手を潜らせた。


「どうしたの? 君からライラックの香りがする」


 日差しの中に出るとジョンは悪戯っぽい光を目の端に宿し、ジェーンに語りかける。彼女ははっとした。


「温室に咲いたそうで先程まで扱っていました」


 するとジョンはおかしそうに肩を振るわせる。彼女を覗き込んだ灰青色の瞳が見つめ上げた。


「幸運のライラックを飲み過ぎて染まっちゃったのかと思った」

「違います!」

「判ってるよ。ごめん。素敵な香りの子をエスコートできて光栄だ」


 華やかな交友が多いとジェーンにも聞こえる彼の慣れた様子に彼女は控えめに手を引こうとする。


「……ロード・ハイドはもっと他に……」

「そういうのは軽い席ね」


 ジョンは笑顔で言葉を流しながら甲を返し、彼女の指を掌におさめて人差し指をかけた。優しげに笑む顔は困った気配もなく、ただ視線が僅かにもの言いたげである。

 彼はふと花壇に目を止め、そこに佇んだ。


「ここは君の畑代わりなの? 離宮ではよく畑にいるって話だったけど」

「いえ、私はお庭には触っていません」

「何も植ってないから畑にしてるのかと思った。さすがにリチャード様でもこの宮殿で君に土いじりはさせないよね」


 またおかしげに笑う彼の振動が捕えられた儘の指を伝う。ジェーンは少し怒りを声に込めた。


「ここはアネモネが植っているんです。夏なので枯れてますが」

「アネモネね。随分、繊細だ。光る季節に土の中……誰かみたいだよ」


 ジョンは笑みを薄め、地面に向かって目を細める。それはジェーンの知る男の子の姿ではなく、戸惑いと不安に彼女はかられた。しかし、決して指を外させないジョンの手は少しも離れることを許さない。


「あの、私は出席しないといけないのですか?」

「うん。招待に関わったかたが方だからね。侍女でもなく、置かなくて良い<香草の乙女>としてリチャード様のお住まいにいるんだし。そろそろ放っておいてもらえないよ、政治的にも」

「政治?」

「未来の王の心に住む人が政治に無関係と思う? 周りがそれを許さない」


 淡々とジェーンに答えた後、彼は静かに睫毛を伏せた。


「エドは話してないんだね。あいつらしいな。ねぇ、エドワードが好き?」


 やっとジョンは彼女を顧みて少し微笑んでみせる。その真っ直ぐな言葉にジェーンは頬を染めた。


「ロード・ハイドの仰る意味ではありません」

「僕にはそう見えるけど、まぁ、それは良い。あいつに何か言われてるでしょ?」


 彼は穏やかに小首を傾げた儘だ。しかし、ジェーンは全身の肌が泡立つのを感じ、動揺を隠そうとした。


「何のこと……」

「大丈夫。答えは求めないから。ただ、『駄目だよ』?」


 ジョンはゆっくりと瞬きを一つすると、彼女の指を乗せた右手を軽くもたげる。彼の物憂げな表情をジェーンは初めて見た。ジョンは視線を捉え、その代わりとでも言いたげに人差し指をほどく。


「友達なら尚更やめてね。君はリチャード様が守ってくださるかもしれないけど、あいつはリチャード様からも他の力からも許されないんだから」

「他の力?」

「例えばファイフ公」


 彼は何ということなく答えた。しかし、ジェーンが途方に暮れているのを見ると、僅かに考える素振りを見せ、再び語り出す。


「いろいろあってファイフ公は今の陛下達とは上手に付き合いたいの。リチャード様は重要な方だから、無難で動かしやすいハイド家ならば、子供をお側においても良かった。そういう風にいろんな人がずっと前からそれぞれに考えて力を及ぼして今がある」

「でも、ファイフ公はプリンセス・アンのお父様ですよね? 殿下のお妃様になられるのなら、私の噂を良くは思われないはず。私を連れて行って彼がなぜ罰せられるのですか?」


 ジェーンがエドワードとの秘密を気付かず漏らした時、彼の目が周囲へと素早く走った。そして、衛兵が立つだけの静寂を確かめると潜めた声が告げる。


「ファイフ公がそれを指示してないから。言ったでしょ、無難で動かしやすいから適任って。気難しくて勝手に動くのは駄目。君の排除が望まれていればまだしも、君の周りにはいろんな思惑がある」


 茫然とするジェーンに彼は困ったように笑んだ。


「今度の祝宴、リチャード様はアン姫をエスコートするよ。去年その予定だったんだ。事実上、婚約の宣言。そこで君を観察したり、見極めたい人は一人二人じゃないだろうな。その筆頭が陛下とファイフ公なのは当然。君か殿下が下手を打てば、君の未来は簡単に変わる」


 土だけの花壇に陽光が降り注ぐ。影の落ちない庭に佇み、ジョンは彼女を静かに見下ろした。彼の全身の小陰こかげの中、ジェーンは立ち尽くす。


「君はエドみたいに、夏の眩しさが嫌だからって土の中で眠ってはいられない。せめて僕が隣りにいて欲しくはない?」


 ジョンの薬指が指を包み込んだ。

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