第18話 繁るルーに隠れて

 好奇に満ちた視線からジェーンが逃れられるのはリチャードの守る宮殿の奥深くだけだった。嘲笑と軽蔑の届かない部屋に籠りたい思いの膨らむ彼女に意外な訪問があったのは、まだ戴冠式の熱も引き切らない頃のこと。

 香草の届いた知らせに扉を開けると、エドワードが盛りの芸香ルーの束とマレイン、そして少しのアキレアを抱えて、そこにいる。


「どうして貴方がこんなことを?」

「勿論、リチャード様のご依頼。君が人と会いたがらないから僕がお部屋までお運びしました、レディ。きっと畑から離れ過ぎたんだね。庭に出たら少し気分が変わるよ」


 驚いた儘のジェーンの前で彼はソフィに視線を送った。彼女が黙礼するのを見届け、エドワードは歩き出す。居住棟ハウスに働く人の無機質な目さえ、ジェーンには自分を非難するように思えるが、馴染みの人の背はいつの間にか少し広くなり、それを遮ってくれるようでもあった。

 日差しの燦々と降る中庭を横切り、エドワードは庭常エルダーの木の葉陰へ潜るように座る。ジェーンがその横に腰掛けるか迷うのを待ちながら、彼は遠く正面にソフィが立ち止まるのを窺った。


「噂が広まってしまったね。ロスシー公の意中の人は陛下に望まれる身か。どういう人好みのロマンスなの。好きな子を手元に置いてる悲恋って何? まぁ、ヒロインには同情する」


 くすくすと笑うエドワードは険のない兄とそっくりの表情で首を傾げる。


「逃げたい?」


 ジェーンの顔が凍るのを見届け、彼は何ということもないように梢を仰いだ。ほんの僅かな木漏れ日に目を細め、エドワードは手をかざす。


「俺と結婚する?」

「エドワード!?」


 思わず叫びそうになったジェーンに彼は肩を振るわせた。大きく姿勢を崩し、片手を地につく裏で、エドワードのもう一方の手がソフィを指さす。


「君って本当に宮廷にすれないね。大丈夫、お互いを助けるための結婚だ。そこまで真剣に考えなくて良いよ」

「どういう……」

「まず結婚したら<王の香り爪弾く乙女>にはなれない。君がそういう立場では陛下に召されないってことだから、噂の面白みは減るかな」


 彼は青く固い実のつく一枝を大きく折ると、二人の顔の前でくるりくるりと回してみせた。実が細やかに鳴り、向かい合って生う葉が羽のように風を受けている。それは無邪気な子供の遊びを懐かしむようにも見え、彼の表情から深意を探ることはジェーンにもできない。


「俺は結婚を機に宮廷や貴族社会から距離を取る。リチャード様が君を離したくなくても平民の妻と会う口実が要るよね。そうして隙を見て国外へ出るってのはどう?」

「そんなことをして大丈夫なのですか?」


 不安げに眉をひそめた彼女にエドワードは微笑みながら肩を竦めた。


「リチャード様が激怒して、クラレンドン伯爵ハイド男爵ジョンも真っ青だろうね」

「それでは親から結婚の了承が得られないではありませんか。私達の歳ではまだ……」

「騙すんだよ」


 彼はまたエルダーの枝に手を伸ばし、それを一気に引き下ろす。緑陰で彼は彼の顔になり、灰青色の瞳が暗みと鋭さを湛えた。


「リチャード様が君を愛するにはね、令嬢では不都合だ。夫人にするための結婚が必要になる。だから、君と結婚する、とだけ伝えれば、父は次男にそういう使い道が決まったのだと内心、喜んで知らないふりをすると思う。ミルタウン伯爵はもっと簡単」


 言うと彼は手を離し、青葉の枝は跳ね上がる。その指にはほんのりと高みで色づいて実った花軸があった。騒ぐ木の葉の下、笑顔でそれを差し出すエドワードにジェーンは戸惑い気味に反発する。


「お父様は貴方にもっとお幸せ……」

「あの人はちゃんと伯爵だから、跡取りがこれを命じられるのは避けたい。弟なら構わない。むしろ君の夫に身分がないことをリチャード様が気にして役職や爵位をくだされば、俺のためになる、と思うだろうね」


 彼は立てた膝に頭を預け、横へ薄く笑った。


「俺はね、今頃リチャード様の側にいなかったはずなんだ。ある方が十歳を超える頃まで席を一つ埋めておくため、双子で選ばれたんだから。それを変える程の何かなんて、君しか思いつかない」

「ごめんなさい、私……」


 狼狽えた表情を浮かべるジェーンに彼は脱力した儘、首を振る。影を映した金髪がさらさらと揺れ、浅い溜息が聞こえた。


「残れたのは運が良いの。謝ることじゃない。ただ、都合良く動かされるのは飽きたから、その幸運をもう捨てようかなって話ね」

「私と逃げるのは仕返しではないんですか? お父様達を困らせるため、それか……」


 彼女は俯きがちに目を逸らす。そよぐエルダーのが沈黙と溶け合わずに去ろうとする。その時、


「手の届かない人を忘れるには覚悟が要るんだ」


 エドワードは風にほどけるような声で答えた。ジェーンは刺されたかに彼を見るが、彼は瞼を閉じている。

 彼が誰を思っているか、ジェーンは訊ねられなかった。貴族社会のただ中に生きながら爵位を継がないエドワードは手の届かない出会いが多いに違いない。それが誰であっても不思議はなく、触れてはいけないものに彼女には思えた。


「僕は君との結婚でそれを得る。この国を出るしかない状況は逃げ道を断ってくれるよ」


 緑のさやぐ中、やがて彼は夏空を仰ぐように視線を据える。


「だから逃げたい同士、手を取り合って一緒に行かない? 結婚は契約だと君は思えば良いよ。十年もすれば大抵の人間の熱は冷めるけど、その十年は苦しいよ。ロスシー公がその気になれば国外にだって力を及ぼせる。それを乗り切るためだ」


 エドワードはジェーンの方を見ると、ふっと笑む。その笑顔は力が抜けて角がないが、消えそうな儚さを彼に与えていた。

 彼は早くに染まり始めたエルダーの実を再び差し出す。


「同じ顔でも俺は簡単に女の子を誘わないからね。君が一人で意地を張ってるのを見ると、この子を好きになれたら一緒に逃げるのに、と思ってた。俺達は手の届く同士で最良じゃないかな?」


 膝の上に固まるジェーンの手を取ると、エドワードは小枝を掌に預け、立ち上がった。

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