第20話 夏の幻のライラック

 式典の宮の見通し良い庭は長い昼の只中にあった。ジョンの後ろの青空をジェーンは怯むように見上げ、それから建物の方を見遣る。


「リチャード様に縋りたい? でも、一番頼れないのがリチャード様だ。君を奪って行かないか心配で仕方ない『ロード・ハイド』にエスコートを命じなければならないんだよ?」


 彼は逆光の中で困り顔を浮かべ、肩を竦めた。それでも視線を逸らさない目が何かを待つようにジェーンに向けられている。彼女は一度、唇を引き締めると彼に尋ねた。


「私はどうしたら良いのですか?」

「ただ咲くだけの飾り花、そう思われること」


 にこやかにすぐ答えた彼へジェーンは少し首を傾げる。


「どういう……」

「務めを果たすロスシー公のために摘まれて部屋を飾るなら構わないんだ。花籠のハーブは繁りも実りもしないから。そして、今の内に君の周りの人間を抑えれば先々どうとでもできる」

「父や弟に何かされてるんですか?」


 急に彼女は顔を強張らせ、一歩踏み出した。

 働いて家のためになる目的を捨て、ハーブ・ストゥルーワーになる道を望んだ後ろめたさはシャトレーンの重みと共にいつもある。自分が理由で危険に巻き込むなら都に身を置くことが彼女には躊躇われた。しかし、ジョンは首を振る。


「それより、僕かエドが君を射止めてしまって欲しいんだよ」


 息を詰めて見返すジェーンの、左手にかけた彼の薬指が軽く力を含む。少しだけ眉を寄せながらも彼の笑みは柔らかさを失わず、ただほんの少しの溜息が漏れた。


「それでリチャード様の気持が君から離れても良い。離れなくても君に影響を及ぼせる。指示はなかったよ? 僕達を見て大人がそれを期待して、そのことに段々、僕達も気づいた。冗談粧して『温室の可愛いお嬢さんと会えるわね』なんて風に言われるの」


 鷦鷯レンがどこかで澄んだ声を響かせている。季節外れのその歌は少し寂しげに二人の耳に届いた。

 ジョンはジェーンの瞳を真っ直ぐに見つめる。そこに昔からの彼らしい甘やかさはなかった。


「伯爵夫人を名乗る気は?」

「考えたこともありません」


 反射的に答え、精一杯、睨んでみせる彼女にジョンはほどけるように苦笑する。


「僕に興味ないか。君は僕には優しくないね」

「そういう意味では……」

「いいよ。期待もしてない。放っておくと君はエドに隠れてたんだから。リチャード様が怒って、あいつが外されるんじゃないか心配したんだ」


 そう言う彼はまた少し肩を振るわせる。その馴染みある姿に安堵も覚えながら、ジェーンは顔を赤らめた。


「私はどなたもお慕いするわけではありません」


 すると、細められた目縁の奥から灰青色の瞳が遣る瀬ない影を宿す。しかし、穏やかな表情と優雅に手を取る姿勢を崩さず、彼は軽やかな声をそこに鳴らした。


「それなら丁度良いね」


 次の瞬間、ジョンは彼女の前に片膝をつく。瞠目し腕を引こうとしたジェーンの指は導いていた彼の手で掬い取られ、動かなかった。


「リチャード様のためにも、ハイド家のためにも、君に次のクラレンドン伯爵夫人の名をあげる」


 何も見えていないものとしてある衛兵達と、視線を慌てて逸らして過ぎる役人の前、彼は彼女を優しく見つめ上げる。その表情から紡がれている言葉を誰も想像はしないだろう。ジェーンは顔を曇らせかけた。

 その時、手袋越しにジョンの唇が指に触れる。彼女の驚きを余所に手を口元に寄せた儘、彼は立ち上がり、自分の影に彼女を包んだ。


「お父様が反対なさると……」

「僕の後はエドワードが継げば良い」


 ジョンは目を閉じ、かすかに口づけながら彼女を遮る。それから視線だけをそっと上げた。


「良い? 咲いてるだけだよ? それなら君は傷つけられない。風向きが変わらないように飾り花でいて。これならばリチャード様さえ、なんとか妥協できる」

「そんな結婚、お嫌じゃないんですか?」


 抗議と心配を込め、ジェーンが睨もうとすると彼は驚いた顔をしてから苦笑する。


「そんなに嫌がられると思ってるの? どうして? 大事な夏のライラックさん」


 ジョンはジェーンの指を胸元に導きながら、左手で紫の花の一ひらをシャトレーンの鎖から摘んでみせた。透き通る銀のかすかな音と共にライラックが一輪、零れ落ちる。


「でも、私は本当の奥様ではないのに、ロード・ハイドは夫人として扱うのですよね」

「本当の奥様?」


 普段の悪戯な笑みを目元に戻し、彼はジェーンへ身を屈めた。


「なる? 僕の読みではね、君が本気で僕を望むなら今はそれを潰すリチャード様ではないと思う。王子様の理想は高いんだ。リチャード様が手放せば、君に奥方の道くらいは作れるかな」


 遠くでまたレンが鳴く。身を固める彼女に軽く笑むとジョンは少し首を埋め、目線を木立へ向けた。


「本当の奥様なんて哲学に興味ない。君を次の伯爵夫人にしてロスシー公もファイフ公も立てる。君は殿下に守られて好きなことをすれば良い。僕もそれが家の利益と割り切って好きなことをする。でも、一つだけ。エドワードとは離れて。あいつを迷わせないでよ」

「彼のお好きな方は私ではありません」


 ねめる視線と共に言い返す彼女を呆気に取られて見た後、急に彼は声を立てて笑い出す。彼の手がジェーンを離れ、身は二つに折り畳まれそうだった。


「あいつ……仕様がないな。皆、ライラックか。ライラックなんて、もう季節じゃない、枯れてるよ。今、匂うのは香水か幻。王子様じゃなきゃ、夏のライラックなんて手に入らないんだ。でも、夏なら花はある」


 彼は乱れも気にせず荒っぽく髪を掻き上げると、目の端で彼女を捉える。


「君も香水は好き? 二人の時はエドの真似をしてあげようか」

「ロード・ハイドの勘違いと申し上げています」

「それ。リチャード様は殿下、僕はロード。エドだけ気安い」

「礼儀ではありませんか」

「それなら、これからは可愛く名前を呼べるようになろうね。プロポーズした僕と王家の席に出るんだ。馴染み同士がほぼ婚約なのに二人きりで『ロード・ハイド』じゃ、僕は本当の相手じゃない、と噂になるよ」


 佇まいを整え直し、貴族然とした面持ちでジョンは再びジェーンの左手を掬い上げた。しかし、彼はその流れで彼女の嵌めていた手袋をするりと抜く。


「綺麗な手になっちゃったね」

「ロード・ハイド!」


 あり得ない彼の行為に声を上げ、振り上げようとしたジェーンの手は今までと較べられない力で掴まれた。


「それを直すの。この手みたいに宮廷に染まって、嘘をついてここに指輪を嵌めて、出会った時から僕を好きだったみたいな顔をするの。手伝ってあげるから」


 薬指の肌に唇の熱が落ちる。遅れて吐息がそこを撫でて行った。

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