第16話 乙女の名において

「よろしいのですか、殿下」


 ソフィは控えがちな声をかけた。無駄口を叩かない侍女の珍しい「差し出口」にリチャードは自重気味に笑う。どこから聞き及ぶのか政の噂まで手に入れる彼女は小さな官職の採用が停まると知っているようだった。

 <王の香り爪弾く乙女>はリチャードが手を回すまでもない。香草を踏み潰す慣行は式典の演出を除いて必要とされず、公的には過去を偲ぶ意味しかなかった。

 それを今の<王の香り爪弾く乙女>はとうの昔に気付いている。だから、彼女は夢見がちな弟子を正式な弟子にしない。自分に協力的なわけではないことをリチャードも知っていた。しかし— —。


『ミス・モード、どういうつもりだ? 彼女を父上の目に触れさせないことでは貴女と私は協力できると思っていた』


 非公式の話し合いを終えた後、リチャードは彼女を詰問せずにいられなかった。

 成長と共にジェーンが﨟長けて行く程、増し続ける彼の懸念がある。それは彼に対抗し得ない力が彼女に及ぶことだ。そして、最も身近なその力は彼自身の父が持つ。

 モードと共にあれば、ジェーンはいつ父の目についてもおかしくなかった。それを避けるため、モードもまた彼女を都のロッジへは連れず、離宮でもコテージにいること少なく、ジェーンを温室へと送り出していたはずである。

 そのモードが王に彼女を推挙することはリチャードにも予想外だった。


『陛下は既にあの子にお気づきです。殿下もそれはご存じのはず。隠すことはできません』

『それでも代替わりを勧めることはなかった』

『陛下と二人の時に命じられれば、わたくしは従うしかございません』


 モードはただ慎ましやかに目を伏せ、それからリチャードに視線を据える。多くの人を惹きつけ、同時に忌まれる瞳は戦い慣れた色をしていた。


『あのような場で先に申し出れば、十五にならない娘を取り立てる真似は外聞をはばかり退けられるでしょう。殿下がいらして心強うございました』

『では何故、目立つ提案を』


 月と暁。一世一代であろう主役を務めるはずのモード自ら、その役割をジェーンと分け合いたい、と申し出ることで戴冠式の演出は話がついた。国王は勿論、大勢の目に彼女を触れさせる今までとは異なる方針にリチャードは猜疑の目を向ける。


『……殿下には心から感謝しておりますが、あの子が<王の香り爪弾く乙女>を望むなら迷いもわたくしにはございます。ジェーンにそれについて確かめることも今、わたくしはできません。故に道を作りました』


 コテージから彼女を連れ去った彼を暗に非難しながら、モードはあくまでも嫋やかだった。


「殿下?」


 ソフィの声が思いに沈むリチャードを呼び戻す。彼は微苦笑し、息を吐き出した。


「あぁ、良いんだ。私の力に道を閉ざされた、と思う方がまだ楽だろう」

「それでは殿下が……」

「構わない。私はそれを願っている。香草の乙女など、なくしてしまえば私の元に来るだろうかと」


 リチャードは目の前の手箱に指を伸ばした。故ロスシー公妃の紋章が象嵌された木箱は私的な品と示すのに役立ち、彼が愛用することを止める者もない。

 鍵を開けると彼は中の柳蒲公英ホークウィードを押す紙に触れた。このような使われ方をして母は嘆いているかもしれないと思うと、また苦笑が込み上げる。


「君は私を止めはしないんだな」


 寛いだ姿勢の儘、彼はソフィに視線を投げた。


「ジェーンを遠ざけたいのだろう? 君主になる者が女一人に、とは言わないのか」

「私はあの方が殿下のお側に上がるなら反対しません。殿下にきっと必要なのでしょう。殿下は私が申し上げなければ判らない方でもないと存じます」


 主の求める女性を疎むと主人その人に言い明かされながら、彼女は動じることなく淡々と答える。リチャードは感情の消えていないアンバーの目をじっと見た。


「……彼女は言わなければ判らない、と?」

「向き合わなければ判っていないと同じではないでしょうか」

「厳しいな。手加減してやってくれないか。ジェーンは政治を身近に育ったわけではないんだ。私達とは違う」


 彼女に怒るではなく、ただ諦めたように笑っているリチャードにソフィは表情を歪める。


「殿下、私が遠ざけたいのは、お側に上がりもせず夢を見ているからです」

「夢を見ているから私は彼女に惹かれるのかもしれない」


 しかし、彼はどこか虚ろな笑みで遠くを見遣った儘だった。顔に渋みを残すソフィを忘れたかに時が過ぎ、やがてゆっくりと彼は顧みる。


「迷うのも当然だろう。妃にはできないのに私の側に、では。私さえ迷うのだから。月桂樹を渡す時はマダムと噂される身にするつもりなどなかった。今もそう呼ばせたくはない」


 吐露して瞬間的にリチャードは眉間に皺を寄せた。

 彼の脳裏にはジェーンより鮮やかな<妖花の眸>が焼きついている。敬いのマダムも蔑みのマダムも堂々と受け、公には<乙女>を名乗り、宮廷を渡る彼女は底知れない色を瞳に湛えて彼に対峙した。


『殿下、隠すばかりが守る術ではございません。人目が集まればこそ憚るしかないこともあります』


 リチャードは彼女に自分の味方であることを期待したことがない。彼もモードのためには動かないだろう。

 ただ、ジェーンを味方することだけはどこか信じていたところがあった。


『ミス・モード、貴女は本当に彼女の味方か?』

『どうなのでございましょう。判りません』


 そう言って瞼を閉ざした彼女の考えの一欠片さえ、彼には掴むことができない。

 嗅ぎ慣れた強い香りがリチャードの鼻につく。ローズマリーは今も宮殿の風に立ち昇り、他のいかなる匂いも従え、君臨していた。彼は疲れを覚え、こめかみを押さえる。

 どれ程、経ったのか、遮った視界の静けさに陶器が鳴った。ゆるゆると目を開ければ、前に小さな銀器がある。


「侍女就任の祝いだそうです。セージは記憶を助けてくれるとか。迷信です。私は頂きたくありませんが、殿下にはお役に立つかもしれません。毒味は済んでおりますので、どうぞ」


 セージの砂糖漬け、それが誰の作かは聞くまでもなかった。ジェーンが決して自分には贈ることのないものにリチャードは目縁を狭める。<王の香り爪弾く乙女>とならない限り、彼女はそれを思いつくこともないかもしれない、と彼は知っていた。


「ソフィ、ミス・モードには気をつけてくれ。ジェーンは慕っているから。ファイフ公の介入もあり得る。ジョンとエドワードもメアリも同じだ」

「畏まりました」

「父上には渡さない。それだけは決めている」


 自分に言い聞かせるかに口にすると、リチャードはセージへと手を伸ばした。



<二章・終>


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