第13話 王室の花梨ほころぶ
白のデイジー、ラベンダー、マージョラムの葉、
室礼にブルーベルをあしらった二度目の王女の遊びの後、
「特別なお部屋を見せてあげるわ」
窓から雨を眺めていたルイーズにジェーンは微笑みかけられた。部屋の静けさが一瞬そよいだように思ったが、そこにはまたひっそりとした午後が降りる。
一人の侍女が伏しがちに進み出て、それに王女の家庭教師が近づいた。ルイーズは何も言わず進み行く。ジェーンは困惑しながらも、それに従った。
「滅多に人は入れないの。お兄様も招いていないのよ? わたくしだけのお部屋、わたくしだけの宝物なの。ね? サー・ケネス」
厳重な警備の先、人気の少ない廊下を歩いて暫くすると王女は唯一の警護者へ視線をやる。ケネスと呼ばれた、ただ一人、剣帯びる者は警戒したまま、ほんの僅かに畏まった。
そうする内、王女の特別にしては簡素な扉が現れる。侍女が鍵を取り出し、それを開けると途端に一陣の風が吹いた。驚いたジェーンは思わず半歩、下がりかけ、それを亜麻色の髪を震わせ、ルイーズは笑う。シャトレーンのささめく中、浴びる風の暖かかさにジェーンが気づいた頃、家庭教師がささやいた。
「ロスシー公が殿下のお体のため、温室に似た部屋を城にご用意されました」
「ここにはわたくし、決まった人としか来ませんの。警護はサー・ケネスだけ。今までは彼女達しか連れて来てはいないわ」
ルイーズは扉の先だけをうっとり見つめて言うと、その二人を顧みる。
「今日は貴女達も待っていて」
「殿下、その者とお二人にするわけには……」
「扉を開けておきなさい」
ふわりと、しかし、逆らえない威を含めて口にしながら彼女は部屋へと吸い込まれて行った。ジェーンが三人を窺うや、侍女が「入れ」と言わんばかりに小さく頷く。
恐る恐る中に踏み入れた彼女が顔を上げると、そこはほぼ空っぽの部屋だった。剥き出しの石壁に石床、調度は小さな長椅子一つ。ただ天井はガラスが張られ、今は差し込む光なく雨がそこに打ち付けている。
そして、その部屋のほぼ中央には一本の頼りない木が鉢に入れられ佇んでいた。
「わたくしのお気に入り。美しい薄紅でしょう? 花梨と言うの」
その木は愛らしい花をつけている。アプリコットのように満開に咲き誇るでなく、淡い青葉に寄り添ってぽつりぽつりと笑む花は可憐で、今の王女にふさわしくジェーンには思えた。
「東洋のものでここの他にはない、わたくしだけのお花なのよ。ローズよりアプリコットより、わたくしはこの花梨が愛しいわ」
「優雅で姫君のようです」
言葉が溢れ出てジェーンははっとする。しかし、ルイーズは何も言わず、彼女の方を見ることもなく花を見つめ上げていた。
それを妨げてはならない気がしてジェーンが沈黙していると、やがて王女はゆっくりと彼女へ首を返す。言葉を促されるようで彼女は語るものを探し、咄嗟に尋ねていた。
「この花は白んでゆくのですか?」
「ええ、それも好きなの」
紅紫の蕾、咲き初めは華やかなローズにも似る色が花弁を開く程に白抜けて行く。それらにまた少し視線をやると、ルイーズはジェーンへと向き、真正面からその双眸を捉えた。
「貴女はお兄様の花梨?」
絵画のような澄まし顔のまま、王女はささやく。ジェーンは空気に一瞬、心奪われていたが、突然、言葉の意に思い当たり、動揺に身を震わせた。
「とんでもない! わたくしは……」
「ふふ、秘密よね」
しかし、ルイーズは楽しそうに肩を振るわせ、ジェーンにそっと体を寄せる。
「でも、皆、わたくしには近付けないの。殿方は特にね。だから、内緒話はしやすいのよ?」
ちら、と見上げる王女の翠の瞳は十歳の少女とは思えない誘惑を湛えていた。
だが、それも刹那。王女はすぐに身を離し、再び花梨へ微笑みかける。
「もうすぐお兄様は十五になられるわ。少し大きなお祝い。貴女も祝えるようにしてあげるわね」
呟くようで語りかける声が静寂に溶けると、ルイーズはそこを離れ始めた。黙して従うしかないジェーンは王女に説明することもできず、胸の鼓動の激しさを抑える。どうにか顔を取り繕って扉を潜ると、王女と彼女の間にはだかるかの威を漂わせ、侍女が割り入った。
「貴女はあちらへ」
「あら、なぜ?」
「リチャード殿下からのお使いがみえています。さ、ルイーズ殿下はこちらへどうぞ」
王女の問いに侍女が答える間にも家庭教師がそそくさとルイーズを
廊下を逆に行けば、そこにエドワードが立っている。
「何か?」
「王女様が<温室>に君を連れて行ったと聞いてリチャード様が心配してた。俺は使い走り。但し、今はロード・ハイドだから気をつけて」
彼はジェーンの耳元で声をくぐもらせた。訝しむ彼女を顧みず、エドワードは歩き出す。
「ここへ来るのは、いけないことなのですか?」
「さぁね。ルイーズ殿下の<温室>はリチャード様でも手を出せないから、ご心配なんじゃないかな」
「妹君ですよね」
「妹君でも姉君でも君を攫われたくないだろうね」
彼は眉根を寄せてから慌てたように笑顔を作った。ジョンと見間違えそうに振る舞いながら、エドワードは低めた声を降らせる。
「リチャード様はお忙しくなるし、君を野放しにしたくないから、王女殿下近くに、と考えられたんだと俺は思ってる。ジョンと俺もリチャード様抜きにはお側に寄れない」
そこで彼は口を噤んだ。目前に関門のような警護が待ち構えている。エドワードは長閑な笑みを顔に点して平然とそこを過ぎて行った。ジェーンは少し視線を落とし、それに続く。その先には一台の馬車が待っており、二人はそれに乗り込んだ。
エドワードは目の端でジェーンの表情を読むと、溜息混じりに会話を再開させる。
「まぁ、君にハーブ・ストゥルーワーをさせてあげたかったのも間違いなくあるよ。念願の役目はどう?」
「ハーブを合わせるのが楽しいです。それを認めてくださる方もいらして、いろいろ試したいことがあります」
ジェーンが少しずつ顔をほころばせて行くと彼はエドワードの顔になって言った。
「そのためなら何を言われても平気?」
胸の痛みを感じ、ジェーンが口籠る間にも彼は畳みかける。
「何があっても受け入れる?」
今度は目を丸くする彼女にエドワードは金髪を掻き上げ、首を振った。
「多分、君はリチャード様やミス・モードが一番心配してること、頭を掠めたこともないね」
「どういう……」
「自分で考えるか、他の人に訊いてくれる?」
彼は今までになく苛々と声を投げつけた後、諦めたように不愉快げに声を絞り出す。
「俺に言えるのは、厄介が嫌なら今ここを離れる手もあるってことくらいだよ。折角、手に職もあるんだし。リチャード様が離宮の王子様で、君もそこに生えてたちょっと目立つヴァーベナ一本、それだけで済めば無傷みたいなもんだ」
それきりエドワードは口を噤み、コテージに着くまで沈黙が破られることはなかった。
彼の言葉通り、王女の元に通うジェーンとハイド家の双子が打ち解けて話す機会もなく時は過ぎ、夏風が吹く。
そんな時だった。
国王崩御。突然にその報は駆け巡る。長い病臥の末のお隠れに驚きは少なくとも、離宮は一気に慌ただしくなった。そして、摂政王太子の践祚と共にロスシー公爵位がリチャードへ移り、彼が都へ常の住まいを移したのは夏の盛り。十五を迎える直前だった。
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