第10話 水に映らぬナルキッソス

「どうした? 珍しく何か言いたそうだが」


 リチャードが庭園を行く馬上から尋ねた。ローアンバーの髪を優しく照らす木漏れ日はいつかと異なり、彼の表情を和らげている。ジェーンは躊躇いがちにその顔を見上げた。

 しかし、背も伸び、大人びた容姿になりつつある彼が体躯の良い馬に乗ると近寄りがたさは増すばかりで、近くを歩いていても、ついジェーンはそちらを見るまいとしてしまう。また逸らした視線をそれでも再びリチャードへ戻すと、彼は黙ってそれを待っていた。


「実はミス・ストートンのお好みをお尋ねしたくて……」

「ソフィのか?」


 リチャードの顔は若干の不満を浮かべつつ、思案する。


「緑は身につけていた気がする。何の好みをなぜ知りたい?」

「お祝いをお贈りしたいのですが、洗練された方に喜んで頂ける物が判りません」


 目を逸らしかけるジェーンの視界で複雑な思いが瞳のグレーを揺らがせた。しかし、彼は瞬き一つすると口元を笑ませる。


「それなら五日後の昼過ぎ、城へ。目ぼしいものを用意させる。そこで選ぼう」

「それは……」

「私にも良い話だ。私が祝うわけにはいかないが、乳母を喜ばせたい。君が贈るなら都合が良い」


 リチャードは双子に目配せする。彼が自分の馬を護衛へ寄せて離れると、馬を連れて歩いていた二人の中から兄のジョンが笑顔明るく隣へ並んだ。馬が時折いななき、ジェーンが身を固める度に彼は馬首を撫でて楽しそうに話しかける。


「わぁ、凄いな」


 狩場の林を抜けたところでジョンは声を上げた。ジェーンの顔も上気する。

 日溜まりの野に水仙が咲き広がり、春の黄色が目に眩しい。馬を預けると三人は鮮やかな花園へ駆け入った。花を折り行くジョンの金髪が踊るのを、周囲気にかけるエドワードが追い、最後にジェーンが倒れた花を拾いながら続く。ジョンが小さな湧水の近くで立ち止まると従者達が敷布を広げた。

 そこに座ってリチャードを待ちながら、ジョンはジェーンのスカートの上に目を止める。束になる程の水仙といくつかの花がそこに匂い立っていた。


「拾って来たんだ」

「ハーブを合わせてみたいと思って……お返しした方が良いですか?」


 それを聞いてジョンは声を上げて笑う。ジェーンのスカートの上から水仙の一輪を摘み上げると、ジョンは彼女にそれをかざして見せた。


「君を飾ったら良いのに」


 彼はそれをまた膝へ戻し、手近に咲く蒲公英ダンデライオンに指を伸ばす。しっかりと節立ち始めている指がその何本かを無造作に手折ると、可愛らしいまどかな花が彼の手元で鞠のように集まった。それを満足げに見つめ、彼はジェーンに明るく笑いかける。

 指先が伸びて、するりと彼女のボンネットを解いた。彼女が目を見開くのも気にせず、その赤い髪に黄花こうかをジョンは寄せる。


「リチャード様はこの花を映えないと仰ったけど、花輪を君がつけたら綺麗だろうな。僕に作れたら捧げるんだけど」

「お気持ちだけで嬉しく思います」

「あ、でも、そうだ」


 言うや、ジョンは邪気なくジェーンの髪に触れ、花を挿し始めた。リチャードより一つ年上の男性の屈託なさに彼女は困惑し、されるが儘、飾られるしかなく、横からエドワードが苦い表情で止めに入る。


「ジョン、やめた方が……」

「なんで? 可愛いじゃないか」

「レディに失礼だよ」

「え? ジェーンは花が好きだろう?」


 気にする様子のない兄に彼は顔をしかめた直後、顔色を変えた。視線の先、リチャードが野を越えて来ている。


ロード・ハイドハイド男爵


 王子は気難しい表情で三人を暫く見下ろし、やがて口を開いた。

 その口調は常とさして変わらないが、堅苦しい呼び方にジョンが僅かに色を失う。遊び場で彼らの間では呼び交わされることのない名に含みあることは間違いなかった。

 王子はジェーンに僅かに近づくと手を伸ばす。


「君も馬に。悪いが、エドワードはジェーンを頼む」


 抑揚なく告げながら彼は赤い髪から花々を取り上げた。ジョンが緊張気味に馬へ向かい、エドワードが承諾する隣りでジェーンは少し狼狽えて語りかける。


「一人で大丈夫です。どうぞ……」

「レディ、僕は乗馬が下手なんですよ」


 すると彼は社交的な微笑を向けながら、リチャードから花束を受け取った。それを確かめ、王子はまた野を横切って行く。花園に残された二人は暫くそこに立っていたが、やがてエドワードは黄色い野花に苦笑を落とし、身を翻した。


「兄が失礼したね」


 湧水の横へ歩み寄り、ジョンは座り込むと、花を困ったように草原の上に並べて行く。


「お気になさらないでください」

「君が、気にした方が良いよ」


 エドワードは少し厳しく思える視線と声音で言い切った。彼女がかすかに竦むと、彼は力を抜き気味に溜息をつく。


「リチャード様が誰か、君も判ってないのかな。ジョンも時々そうだけどね。善良は美徳だけど、そうありたいなら人一倍、気をつけなよ。いつまで田舎の令嬢のつもり?」

「そんなつもりは……」

「知ってる。だから、言ってるんだ。君はさ、ソフィが侍女になるのを殿下が遅らせたこと、知らないだろう?」

「え?」

「殿下は君が、月桂樹で約束されて侍女になる一人目にしたかったんだろうね。それくらい、リチャード様は君にご執心だ。彼女が宮殿に上がるのがずっと先ってこともあり得たよ」


 青褪めているジェーンに気まずそうな顔を左右へ揺らした後、エドワードは後ろ手をつき、体を伸ばして空を見上げた。流れる金髪に風がそよぐ。


「今日のことはジョンが悪いんだけどさ。リチャード様が権力を持たれたら、あれ一つで命取りなんだ。恨みを買うよ?」


 間違いなく兄や彼女を心配しながら、どこか放るような乾いた話し方がジェーンは気になった。しかし、見つめる彼女に気づかないふりで彼は並んだ花を同じ花同士、隣り合わせに並べ直し始める。その手は迷いなかった。


「ジョンにはダンデライオンもホークウィードも同じだ。タンジーさえ。未来の伯爵に判る必要もないから」

「貴方はお判りになるのですね」

「<ハイド家の歳違いの双子>は顔が似てるだけ」


 彼は皮肉げに視線を流す。

 双子でありながら、通常エドワードはジョンより一つ下の歳を言う。それは家の継承順位を明らかにするためだ。彼は水仙の先に湧く水を遠く見つめる。


「ナルキッソスが水面を覗いて目に入ったのは本当に自分かな? 後ろから別の顔が映ることだってある。俺達ならば本人も勘違いするかもしれないね」

「……花は姿、匂いが同じようで一つ一つ、色も香り高さも変わります。水仙もです」


 エドワードはくすりと笑うと、今度は地を眺めた。


「ロード・ハイドはダッフォディル、僕はナルキッソスってところかな」


 水仙は清々しく、まだ時に寒さ差し入る春野に香り立つ。それは辺りに満ちてジェーンは少し眩みそうだった。

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