2章 賢きセージの護る春
第9話 香草の乙女の贈り物
故郷を離れて四度目の春を迎えようとしていた。
ジェーンはコテージのベランダで小さく葉を伸ばし始めたセージの鉢を一つ一つ手に取り、置き直す。そよ風になり切れない寒さが陽だまりに心地良い。
夏のない年から続いた厳しい冬も今年は和らぎ、淡く煌めく早春を期待する、そんな陽気の訪れだった。
「夏に花を砂糖漬けにしたらミス・ソフィ・ストートンへ贈っても良いですか?」
反対側から鉢を見て来たモードの気配を感じながらジェーンは静かに尋ねる。彼女がこちらを見るのが判ったが、ジェーンはセージから面を上げなかった。調べを歌うようで弾み過ぎないモードの声が問いかける。
「侍女になられるお祝い?」
「はい。初めてのお仕事は大変と思って」
ジェーンは手を伸べて鉢植えを置いた。
『今年は霜が降りないと良いわ。夏に花をつけたら砂糖漬けにして、ジェーンにたくさんあげましょうね。そうしたら、お作法も花もきっとたくさん覚えられますよ』
コテージ初めての春が遅くほころびかけた頃、畑に植え付けたセージを眺めてモードはジェーンへと語りかけた。
覚えるのは香草ではなく花。侍女に必要な嗜み。
たった一言の意味を感じ取るくらいにはその頃、彼女も離宮に慣れ始めていた。リチャードにとって純粋に好意であったはずの、温室を訪ねて良い、という言葉は宮廷の常として義務と化す。彼女はモードが都にある時は温室に足を運び、時に王子やその友と、時にストートン夫人と時を過ごして宮殿を垣間見た。
それでも、パースリー、セージ、ローズマリー、タイム、ラベンダー、彼女はこごる手でその株から落ち葉も北風も遠ざける。
だからこそ、ふとした時に漏れるリチャードの意に添うべきとするモードの心はその頃、ジェーンを寂しくさせた。セージの砂糖漬けは弟子に望まれず、地に生うハーブと共にいられない象徴のようにさえ感じたものだ。
以来、セージの花がどれ程、甘く舌に溶けてもジェーンは口を渋みが離れない気がしてしまう。それが自分の感傷と知っていても、ハーブのどんな苦さも臭気も楽しむ彼女がただ一つ好めないものとなった。
それを人に贈ることは後ろめたくもある。しかし、令嬢には人気の砂糖漬け。
記憶を助けてくれると言い伝わるセージをソフィが責任重い仕事を果たせるように贈り、励ましたい思いが彼女にはあった。
「殿下のお近くに侍る方です。安易に口に入れるものを贈らない方が良いでしょう」
だが、モードの口調からは調べが引いている。ジェーンはやっと彼女を向いた。
「お毒見してもですか?」
「万が一のためです。それにミス・ストートンは垢抜けた方。もっと洗練されたものを好まれるのではないかしら。貴女は行儀見習い中の伯爵令嬢。ハーブに拘らず、ミス・ストートンの必要とされるものを選んでは?」
ジェーンが香草に関わろうとする時、今もモードの態度は変わらない。むしろジェーンが歳を重ねるにつれ、人が<香草の乙女>と手伝い役と扱うさえ、気にするように見えた。
それは<王の
リチャードが思わず口走ったことがある。彼が十二歳になって間もなく、来年の誕生日にはジェーンに離宮へ移っていて欲しい、と告げた時。頷けない彼女にリチャードは傷ついた影をほんの微かに滲ませ、眼光を鋭くすることでそれを誤魔化した。
『私が嫌いなら、そう言えば良い』
『そんな……』
彼女は口ごもる。もうジェーンもリチャードが心無い人ではないと知っていた。王族としてさえ高い地位のため、身についた言葉や立ち居振る舞いが人を圧するが、それも真面目さ故だ。
ただ、ハーブ・ストゥルーワーになりたい、ジェーンはそれを諦めたくなかっただけである。それを見抜いたように彼は苦々しく零した。
『<王の香り爪弾く乙女>は飾りだ。王室はもうそれを必要としない』
茫然とする彼女を目の当たりにし、言ってしまった後悔を知られまいとリチャードが顔を不機嫌にしかめたのもいつも通り。
あの時、静寂に吹く風がジェーンのスカートをそよがせ、美しい
『君の月桂樹は飾りじゃない』
ジェーンは遠いセージの鉢へと腕を伸ばし、モードから体を少し背ける。
その瞬間、不意に銀の鎖が歌い、彼女の心臓は跳ねた。月桂樹のあしらわれたシャトレーンは野や畑にある時もジェーンの最も近くで音色奏る。
「シャトレーンも良いですね」
ジェーンは思わず師を見上げた。しかし、明るく微笑むばかりの彼女は宮廷人の顔だ。
「装飾品はお好みを知りませんし……」
「殿下にお尋ねするのが良いでしょう」
気後れに彼女が僅かながら目を逸らすと、モードはなんということなく言った。ジェーンはさすがに反発する。
「それは殿下にご迷惑です」
「貴女からミス・ストートンへの贈り物の相談はむしろお喜びになるでしょう」
しかし、十年近くも宮廷で<王の香り爪弾く乙女>の座を守る人は小揺るぎもしなかった。
「殿下には
「でしたら先にお話しない方が……」
「楽しい時間を差し上げるのが一番のお礼と私は思いますよ。殿下は何でも手に入るお方。貴女が差し上げられるのは物ではありません」
落ち着いて柔らかな物言いに強い意志が潜む。少しの冷え込みに耐えかねる若葉にない強かさに満ちて彼女はそこにあった。
ジェーンは溜息混じりに問う。それしか彼女には抗う形が見出せない。
「殿下が高価な品を勧められた時は、お断りして良いですか?」
「殿下が買ってくださいますから心配要りません」
「それでは私の贈り物ではないです!」
「貴女の贈り物です。ミス・ストートンも男爵夫人も殿下のお気持を名誉に思います。レッスン……二十八かしら? 宮廷の贈り物は心以上に頭を使いましょう」
彼女が宮廷人の微笑から諭す表情へと移り行く時だった。ノアが辛うじて礼儀正しく、急ぎガラス扉から現れる。
「マダム、クラレンドン伯爵様のご次男がおみえです」
モードへ告げながら、それがジェーンへの知らせであることを誰もが知っていた。
王子の双子の友人がコテージを訪うのは、リチャードが彼女と時を過ごすために寄越す急の使者としてと決まっている。兄のジョン・ハイドと弟エドワード・ハイドのよく似た顔を見紛うこともない程、ジェーンも彼らに既に親しんでいた。
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