第8話 ヴァーべナと月桂樹
ヴァーベナ、
赤、白、紫、薄桃色と大切に育てられる小花と小花が咲き乱れる中、
リチャードの温室に通されたジェーンの顔はそれまでの気重を忘れて明らんだ。
その隣でモードは草花と共に、同席するストートン男爵夫人とその令嬢ソフィにさり気なく目をやる。
アンバーの瞳が賢そうな少女は程良い間隔で行儀良くついて来ていた。その様子はどこかジェーンに似て、しかし、彼女の素朴さがない代わりに洗練が勝る。流行のキャリッジ・ドレスを身にまとい、襟元には金の月桂樹の小枝。イエロー、グリーン、ピンクのゴールドで枝葉とリボンを模るそれは彼女には贅沢な品だが、実にすっきりと着こなしていた。
奥に用意された席が見え始め、モードはリチャードに再度の礼を取る。
「殿下はお国の草木を大切に思われているのですね」
「地味か?」
彼は薄く笑った。誰かに言われているのだろう。
それはもしかすると派手やかな演出を得手とするロスシー公かもしれない、とモードは思う。リチャードの態度も言い振りも、気にする風ではなかったが、彼女はハーブ・ストゥルーワーとして真摯に言葉を紡いだ。
「美しいです。ヴァーベナは神への捧げもの。今、この時以上にそれを思うことはないでしょう」
リチャードは表情を消しながら彼女を顧み、次にジェーンを見る。目の合ったジェーンは心臓が打ち、一瞬、動きを止めた後、声に出した。
「はい。今年こんなに夏のお花が咲くのを初めて見ました」
「……今年はドクターが枯れそうな草を持ち込み、こうなった。元々の私の温室は違う季節の花を咲かせようとしているから、これはいつもではない」
不意に素直な賞賛を振り切るかに彼は先へと歩幅広く進む。人と距離を取ったところで立ち止まり、彼は小さな鉢を取り上げた。
他の者達が追いつくと、差し出されたそれには、春に終わるはずの、そして今年は咲けずに終わることの多かったクロッカスが花開かせている。
「季節を彩るハーブ・ストゥルーワーにしてみれば、邪道だろうな」
鉢を受け取り、言葉のないジェーンにリチャードは頬を緩めると、柔らかにまた小さな器を取り上げ、ソフィへと渡した。彼女は手際良くそれを元あった場所へと戻しに行き、その間に王子とジェーン達はテーブルへと着く。席はマグノリアの咲く傍らに
「ソフィはいずれ私の宮の侍女になるだろう。ジェーンの一つ下だから君より後になるかもしれないが、彼女はこの城や宮廷作法にも慣れている。互いに知っておくと良い」
ソフィが席に着く折、リチャードは何でもないことのようにそれを言った。ジェーンは戸惑いを隠せない。彼の中ではジェーンもまた彼の宮の侍女となることが決まっているようだった。
彼女は自分がハーブ・ストゥルーワーになりたいことを伝えるか迷ったが、モードの言葉が蘇り、その瞳を見て思い止まる。きっと今ではないのだ。
ストートン男爵夫人が子供達にミルクと軽食を給して席に着いた。
「このマグノリアも花を遅らせていらっしゃるのですか?」
「これは秋に咲かせたかったが、今になった。失敗の方が多い。神の望みに逆らっているのだろう。仕方ない」
モードが温室について尋ね、王子が答える以外は静かである。
侍従や護衛の気配さえも時に存在を主張する程に感じられた時、ふとリチャードは小さく合図を出した。男は小箱の乗る飾り盆を持ち、ジェーンへと寄る。ジェーンがモードを見ると彼女は頷き、侍従は蓋を開いてみせた。
中には
「母が亡くなった時、こういうものが必要なのだと言われたので、妹のために作らせたが、三歳にもならない王女には無用だった。君ならば使えるだろう」
七歳の頃の考え足らずを彼は自重気味に笑う。その表情にいつにない子供らしさがあることをジェーンは知らなかった。モードは柔らかに微笑む。
「こちらもヴァーベナでしょうか。花に少女の愛らしさがあります。先程の花園に咲き揃えて参りましても、よろしゅうございますか?」
リチャードは黙って頷いた。立ち上がり、ジェーンを見つめるモードに彼女も真似をする。礼儀正しく場を去る二人に侍従が伴った。
とりどりに咲き乱れるヴァーベナの脇、モードは華奢な首のレースにブローチを止め、櫛を挿す。明るい髪色に一瞬、際立った暗褐色はガラス天井から零れ入った光に透けると不思議な程に溶け込んだ。
「よくお似合いですよ。本当に……本当に」
モードは優しく笑みながら、真剣な眼差しを向ける。ジェーンは「どうして」の一言を彼女のレッスンを思い起こしながら飲み込んだ。
「殿下は出逢った時のご自分を心から貴女に謝りたいと思っていらっしゃいます。そのお気持は受け取れますでしょう?」
櫛を髪に馴染ませるように指先を添えながら、モードはジェーンの耳元にささやく。その目に彼女は小さく頷いた。
贈られたジュエリーを着けて戻るジェーンをリチャードは遠目にだけ見て、視線を逸らす。ただ、礼の挨拶をしたジェーンが椅子に戻ると彼ははっきり告げた。
「それを外す頃、君にも
温かいコンサバトリーに似合わない沈黙が響く。
その言葉の意味を知らないジェーンに、控えていたストートン男爵夫人が淡々と声を紡いだ。
「月桂樹の小枝はいつか殿下のお役に立てるお許しです。名誉におれ……」
「そこまででいい」
ジェーンが戸惑う間もなくリチャードは遮ると一人、カップに口をつける。
謝りたい、仲良くしよう、それだけのことを口に出せないリチャードを彼女が思いやるにはまだ幼かった。将来を志したばかりの彼女に王子の好意は躊躇いと当惑、それに焦りに似た不安を点らせる。
「花ならば、たくさんある。私は咲かせるだけだから、使うと良い」
これが未来の王の座をも約された人とジェーンの始まりだった。
<一章・終>
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