第6話 温室への招き

 王族の居室から離宮の応接間へ繋がる廊下をモードが見回っている時だった。

 反対からロスシー公の継嗣であるリチャードが近侍衆を連れて来るのに彼女は内心、驚いて脇へ控える。<摂政王太子の>ハーブ・ストゥルーワーと陰で呼ばれるモードに対し、ロスシー公の王子の視線が冷たいことは城の誰もが知っていた。

 彼女がこの廊下に現れやすいこの時刻、彼はわけもなく訪れない。


「ミス・モード」


 リチャードが<王の香り爪弾く乙女>へ声をかけたことは、辺りをかすかにざわめかせた。しかし、呼ばれた当人は微塵も動揺を見せず優雅に応じる。


「見慣れない花を見つけた。貴女は詳しいのだろう? 話を聞きたい」

「畏まりました」


 リチャードは先刻、外苑で少女の手から抜き取った花をもたげた。ありふれた野草の姿に訝しげな気配が漂う中、モードは改まった表情を崩さず、答える。


「こちらは柳蒲公英ホークウィードでございます、殿下」


 その時、王子がほんの僅かに笑ったように彼女には見えた。その花を摘みに行かせた少女がモードの脳裏に浮かぶ。今ここに彼が通りすがり、偶然ホークウィードを尋ねるなどあり得ないのだ。


「私には少し違って見えるが」

「一方は色味の濃い種類で、特に区別して紅輪蒲公英オレンジ・ホークウィードとも申します。花を少し密につけ、他のものと違う雰囲気もございましょう」


 この、間もなく十一になる王子が自分の答えを承知していたことをモードは確信する。問題は彼が赤いホークウィードをどうしたいか。

 宮廷人の無表情の下、鼓動が騒ごうとするのを静めていると、彼は言った。


「そうか。これを標本にできるか?」


 思わずモードは彼を見つめる。そこに打算はないようにモードには聞こえた。


「はい。ただ今、道具を持っておりません故、お預かりしてもよろしゅうございますか」

「道具とは?」

「ピンセットと小刀、紙、それと『貴族名鑑』がございましたら。ただ、紙は何でも良いわけではございません」

「用意させる。誰か、ドクターのところへ行き、手配を」


 彼は何気なく周囲に命じ、側近の数名が傍を離れて駆け出す。また女官も準備のため、動き出した。その中でリチャードはモードに対して姿勢を崩さず、ただ、再び廊下を移動し始める。彼は自室へ向かおうとしているようであり、モードと言えど、付き従うか惑う状況であった。

 しかし、王子は気にするでもなく彼女を連れて歩く時間を有意義に過ごすつもりでいるらしい。


「この礼に今度、温室コンサバトリーへ招待しよう。貴女は好きだろう」


 モードはその対価の見合わない大きさにさすがに驚いた。

 王室のコンサバトリーは世界各地から収集した貴重な植物を育てていると聞く。鉄とガラスと暖房でふさわしい環境を作り出し、都のコンサバトリーなどは各国の王族、為政者さえ、そこでもてなされることを名誉とする程だ。離宮の王子の所有といえど価値の低かろうはずがない。

 そこに求められるものの重さを感じ、彼女は神妙にそれを断ろうと口を開いた。


「恐れ入ります。ですが、このようなことで殿下のお手をわず……」

「構わない。貴女の元にいる母を亡くした令嬢を伴うと良い。気が晴れるかもしれない」


 しかし、拍子抜けする程、呆気なく彼の本心はもたらされた。

 モードは言葉もなく王子を眺め、自らを明かすことに慣れず居心地悪そうにしながらも、それさえ隠せているつもりのリチャードに少年らしさを感じる。政争に親しみながら、人に親しむ機会を得ない王子の孤独な歩き姿へ彼女は従った。

 リチャードは自らの部屋へモードを招き入れると、多くを下がらせる。乳母のストートン男爵夫人に遇されながら、モードは先刻の誘いに礼を述べた。


「お気遣い、感謝申し上げます、殿下」

「彼女は貴女と同じ道を歩むのか?」


 自室に守られ、彼は端的に彼女へ尋ねる。

 モードは表情を変えずリチャードを見つめた。十歳の言葉。ハーブ・ストゥルーワーになるのか、という意味でしかないのが普通だが、子供であることを許されず生きる継嗣の君とあらば、大人の含意があり得ることを彼女は知っている。


「行儀見習いが済みませんと何とも。旅中、冷たい夏も目にされ、レディは様々なことに関心をお持ちですが、都ぶりを知れば他を望まれることもあると存じます」


 その時、今日、最も感情的に思える表情を浮かべ、彼は顔を背け気味に吐き出した。


「貴女は父上の御座所に侍る身だろう。彼女も連れて行くのか?」


 これが継嗣の君という地位に許される駄々の捏ね方かと妙に得心しながら、モードはそれをどうかわすか言葉を選ぶ。


「いえ、都のロッジは喪に服するには華やかに思えます。コテージで学ぶのがレディのためと考えておりました」

「それが良いだろう。都に喪は似合わない」


 少年の安堵が乏しい表情に点る。常はあれ程、人に読まれまいと警戒している王子が、自らの住む離宮に彼女が留まることを、限られた人の内とはいえ喜んでいる。今までにないことは確かだった。

 モードの中で安心と警戒が入り混じり、伏し目がちに座りながら王子と乳母達を視界に捉える。


「だが、令嬢一人では心細いだろう。男爵夫人、彼女はここで侍女になれないのか」

「殿下にお仕えする者は軽々しくお決めするわけにいきませんし、お歳ももう二つ、三つ、おありに越したことはないと存じます」


 慎重に誠実に答える乳母に彼は少し不満げな表情を浮かべた。


「彼女の事情も知らず責めたことを詫びたいのだが」

「殿下、そのお気持だけでレディ・ジェーンは充分に思われるでしょう。こちらのお城もレディには壮麗な場ですので、喪に相応しいか判りかねます」


 モードはそっと言を差し入れる。先々は兎も角、今、彼女が王子に仕え始めることは誰のためにもならない。良識と信頼を兼ね備える乳母の前で固辞するのが賢明だった。

 リチャードもその場では強く求めるつもりはないようだ。


「そうか。では、それは喪が明けてからが良いだろう」

「有難うございます、殿下。わたくしもレディがお寂しくないよう、こちらに多くおりますことを心がけます」


 モードが挨拶ともいうべき言葉を並べた時だった。


「貴女の居場所を貴女が決められるのか?」


 リチャードから非難でも同情でもない言葉の一刃が閃いた。

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