第4話 野辺の離宮

「この花は……何ですか?」


 ジェーンは空家の生垣を指して顧みた。暗がる旅空の下、少女の笑顔が輝く。

 ファームハウスで身支度されて以来、彼女からお仕着せの地味が薄れ、『旅にふさわしい大人しい装い』を心がけても花のはにかむような可憐さがまろび出るようになっていた。

 モードはそこに亡き伯爵夫人の努力がくずおれるのを見る気がして、小さなボンネットを被せ直す。


山楂ホーソーンです、五月祭メイフラワーの。少し様子が違っていますが、冬にも咲くところがある程、寒さに強いのですよ」


 モードは藪から飛び出た小枝の先を折る。

 冬のホーソーンは、香りと共に花やぎも宮殿に散らす<王の香り爪弾く乙女>には欠かせない存在だった。今年は夏さえ頼みかもしれない、と疎らに咲く花を気にかけたその時、


「いっ……」

「! お見せください。ノア!」


 ジェーンが指先を丸く庇う。棘に刺されたと気づいたモードは己の不注意を悔やむと同時にメイフラワーの花摘みで大抵の少女が知る棘を、知らず育った彼女の伯爵家での生活を思い浮かべた。


「大丈夫です。ちょっと痛かっただけです」

「いけません。後でこんなに腫れることもあるのですよ」


 大袈裟に身振りしてみせながら彼女はジェーンの指先を丁寧に確かめ洗う。薬を塗った布をそこに結ぶと、モードは思い切って黒いボンネットのリボンを解いた。


「ミス・モード?」

「今年は日除けは要りませんわ」


 編み残した赤い髪が極淡い朝の明るさに透ける。モードはジェーンの健やかな左手を握り、その地に野草の類いを見つけて歩いた。

 しおれた野も掻けば濃い青葉や花が時に隠れており、モードがその名を告げると、いつか冷たい夏から解き放たれる気がしてジェーンはほっとする。


「きっと鮮やかな夏もご覧になれますよ」

「はい。今は色が少なくて覚えやすいと思います」


 ジェーンは萎れた数日前の花のない金盞花カレンデュラ蒲公英ダンデライオンをハンカチに挟んだ儘、楽しそうに眺め返した。

 立派な館に宿を借りる日もモードは時に馬を止め、野に下りる。ジェーンにも今や草葉が自らを歌うのが聞こえるようで、泥に塗れる恥じらいは消え去っていた。小さな喪服は汚れるためのドレスである。

 その旅が幾日を重ねたか。薄い日差しが城を遠く照らし出す。雲の切れ間から久々に降り注ぐ光明と城のたたずまいは荘厳で、ジェーンは思わず息を飲んだ。


「王家の離宮です。野辺に見えますが、都へは半日で充分ですのよ。国王陛下がご療養中で、摂政の君も度々お出ましになり、私も都と行き来しています」


 モードが貴婦人寄りの表情で微笑みかける。

 外の黄褐色の野は、これまで通り抜けた野原と変わらないようでいて、どこか草臥くたびれた気配は薄い。歩く馬も羊達も余り痩せてはいなかった。


「まずこちらの庭園に頂いているコテージで過ごしてみませんか?」


 城の遠景を見つめながら、ジェーンは緊張で体を強張らせる。

 しかし、そうする間にも馬車は光の方へ川を渡り、枝打ちされた木立を抜け、農園の景色広がる中を悠々と駆けた。やがて草茂る庭へと彼らは吸い込まれ、二階建てのコテージ・オルネから留守を守っていたのだろう女性が晴れやかな笑顔で現れる。


「お帰りなさいませ。お疲れでございましょう」

「ただいま、セシル。レディ・ジェーンのお陰で楽しい旅だったわ」


 降り立ちながらモードが言うとセシルは車内へ温かな視線を向けた。ジェーンが後に続いて慎ましく挨拶しようとすると、すっかり汚れた黒いドレスが萎れる。


「こちらはもう野良着に致しましょう。普段は白をお召しになって。このセシルとケリーがお世話しますから何でも頼られますように」

お嬢様マドモアゼルも長旅、大変でいらっしゃいましたね」


 耳慣れないマドモワゼルの語に心臓を収縮させながらジェーンは母より年上であろう女性へ笑いかけてみた。


「ミス・モードとハーブのお陰で楽しい旅でした」

「何よりです。マダムの組まれるハーブのように心弾む旅でしたのでしょう」


 モードの言葉に倣った受け応えにセシルは満面の笑みを返す。


「さ、どうぞお話しながら少し早いお昼を召し上がりませんか? ゆっくりとシチューでお体を温めて」

「そうね、ジェーン、うちのネルの作るシチューはとても美味しいの。一緒に頂きましょう」


 ジェーンとモードが旅の身なりの儘、玄関奥の客間に腰を下ろすと背後で荷物を運び込み、また素早く持ち去る音が小気味良く響く。セシルは湯気の立つシチューとパンを手際良く可愛らしく整えた。ジェーンは思わず顔をほころばせ、それをスプーンで掬い、口へと運ぶ。


「セシルは語学が得意なので外国の流行にも敏感なのですよ。いろいろ教えてくれます」


 モードの言葉にジェーンは自分が侍女になるため、ここにいることを思い出した。彼女が背筋を伸ばそうとした、その時である。護衛の一人が取り次ぎなしに慌てて部屋へと踏み入った。


「失礼します。ロスシー公がおいでです。今夜……」

「ご挨拶に伺うとお伝えください。午後、旅の献上に上がりたい、と」


 モードは彼を遮り、凝視する。その気迫に男は息を呑んだ。小さく頷き、彼が身を翻すとモードはジェーンに微笑みかける。


「私はお城にヴァレリアンなど届けに上がります。貴女はまずゆっくりお休みなさいね」


 ジェーンがシチューを食べ終わるのを見届け、モードは立ち上がった。ジェーンは整った二階の部屋へ案内され、誰もが忙しそうに働くコテージの様子を遠くから窺う。二階ではモードがセシルとケリーに手伝われて身支度し、一階では男性達が規則正しく立ち歩く。静かに滞りなく運ぶ物事にジェーンは都を感じていた。


「あれが宮廷服ですか?」


 登城許可の報と共に馬車に乗り込むモードを見送った後、ジェーンはケリーに髪を梳かれながら尋ねる。ケリーは少女が一人を寂しがらないことに安堵して答えた。


「離宮の略式ですが。ロスシー公を公式にお訪ねするので」

「ロスシーの公爵様は王太子殿下で摂政の君ですか?」

「はい」

「<王の香り爪弾く乙女>は、陛下だけに香草を爪弾くのではないのですね」


 何気ない少女の言葉にケリーは止まった。櫛を持つ手も半端な儘、鏡越しにヘーゼルの瞳と見合う。


「ご病気の陛下のために、今は摂政の君を通してお仕えしているのですよ。陛下に香草を爪弾かれると自然と他の王族方にも届きますし、責任重いお役目です」


 ビューローに本を並べていたセシルがにこやかに頷いた。


「そうそう。マダムはお城にいらっしゃることも多いですが、コテージにご身分ある方がお訪ねになることもあります。お嬢様もいつでもお迎えできるようにドレスをご用意しましょうね」


 ジェーンは少し首を傾げた。そして、自分のドレスが必要なのは萎れた喪服のせいでは、とほんのり頬を染める。そうではないとセシルは説くが、社交界と遠くあった彼女にドレスの機微は判らなかった。

 セシルの言う通り、その日、モードは城へ行った儘、戻らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る