唯一の友

 日が改まっても、当然ながら境遇が改まることはなく。

 その日も、紗依は裏庭の掃除を一人で命じられていた。

 表の庭に比べれば規模は小さいものの、一人で掃除するには広い場所である。

 落ち葉の一枚でもあったら承知しない、と美苑は言い置いて去っていった。

 しかし、多分掃除の終わり頃に誰かがやってきて、散らかしていくのだろうという予感がある。

 手を打ちたいとは思うが、対策をしたらしたで、より酷い八つ当たりを受けるのが分かっている以上甘んじて受け入れるしかない。

 本当なら重い掃除道具も運んでこなければならなかったが、置き去りにされたものが転がっていたのでそれを使わせてもらい、多少の余裕がある。

 紗依は確かに不遇としかいえない状況ではあるが、敵ばかりというわけではない。

 直接何か出来るわけではないが、使用人達の中には紗依達に同情的なものもいる。

 今日のように、時として偶然を装って紗依達を助けてくれるものもあるのだ。

 紗依は感謝するものの、その者達に咎が及ばぬように祈っていた。

 また、美苑には異母妹である苑香の他に、紗依にとっては弟にあたる男子がいる

 優しい心根であり父母や姉に懐疑的な弟は、異母姉に対して密かに心を砕いてくれているのだ。

 人目を忍んで時折、食事や菓子などを差し入れてくれる事があり、幾度となく父に談判して境遇を助けたいと言ってくれてはいた。

 だが、それをすれば弟の立場が危うくなることと、恐らく逆効果となるだろうという確信がある為に素直に受け入れられず、紗依は曖昧に止めるだけだった。

 そして、もう一人。

 正確に言えば『一人』と呼んでよいのかは分からないのだが……。

 紗依は、一度手を止めて古い桜の木を見上げる。

 今は蕾を付けるに留まっているが、綻び始めているものもある。左程時を置かずして花開くだろう。

 紗依には、友と呼べる存在がいた。

 屋敷の人間ではなかったし、勿論外の人間でもない。

 いや、紗依の『友』はそもそも人間の姿をしてはいなかった。

 宵の空に輝く星を思わせるような、小さくも美しい『光』だった――。


 数年前の桜の頃、苑香に苛められて泣きそうだった時、紗依は誰にも見られたくないとこの木の下に来ていた。

 その時、小さく光るものが木の根元にあるのを見つけた。

 誰かが落し物をしたのだろうかと思った瞬間、紗依の耳に『声』が聞こえたのだ。


『貴方は、誰? ……泣いているのか……?』


 驚いて叫びかけたのを必死で堪えた。衝撃で、涙は止んでしまった程。

 てっきり小さな玉が日の光を弾いて光っているだけだと思っていたのに、その『光』は何と話しかけてきたのだ。

 目を見張って見つめる紗依は、恐る恐るその『光』を両の手の平にて救いあげる。

 消えそうな程に儚く見えるのに、光の玉からは仄かな温かさを感じた。

 伝わってくる微かな温もりに、徐々に緊張が解けていく心地がする。


『あたたかい』


 気が付けば、紗依はぽつりと呟いていた。

 収まりかけていた涙が、一粒、二粒と再び頬を伝い、地に吸い込まれていく。

 固く強張っていた心が解かれ、心に少しずつ温もりが巡り、癒されていくように思える。

 両手におさまるほどの小さな光が何故かとても好ましく、愛おしいもののように感じる。

 涙を零しながら手の平を慈しむように見つめていた紗依の耳に、再び声が聞こえる。


『ああ、貴方の手も……とても温かだ……』


 万感の思いが籠ったような、噛みしめるような声音は、不思議なほどはっきりと紗依に届いた。

 紗依の手の中で少しずつ光は存在を確かにしていきながら、様々な事を問いかけてきた。

 紗依の名を。

 ここはどこであるのかを。

 紗依は何故ここに居るのかを。

 落ち着いて考えれば、正体が何か知れぬものに名を預けるのは危うかったとは思う。

 だが、紗依は小さな光をごく自然に受け入れていた。

 理由はわからないけれど、けして悪いものではないという確信があった。

 一つ一つ問いに答え言葉を交わしていく中で分かったのは、小さな光は自身が何者であるのかも、何故ここにあるのかも。そして、名すらも分からないのだという事だった。

 名を付けて欲しいとせがまれ悩んだ末に、蛍のような小さく儚い光を紗依は『夕星』と呼ぶ事にした。

 自分の心に張り込んできて淡く灯る光が、宵空に輝く星を思わせる光だと思ったからだ。

 光は……『夕星ゆうづつ』は、大層その名を喜んでくれた。

 夕星は、手の中ではしゃぐように輝きを増したかと思えば弾む声で告げたのだった。 


『なら、私は貴方を天乙女あまつおとめと呼びたい』

『……それは、名前負けをしてしまうわ』


 天乙女とは、すなわち天女のこと。さすがにそれは過ぎた呼び名だと困惑したけれど、夕星はそう呼びたいと一生懸命に訴えてくる。

 切々と懇願され、ついには紗依が折れた。

 それ以来、忙しい日々の合間を見て、桜の木の下で夕星と語りあう時間を持つようになった。

 遅くなっても、雨の日でも。夕星は紗依が桜の元にいくと、紗依を喜んで迎えてくれた。

 最初こそ消えそうな程に淡く儚かった夕星は、紗依と日々言葉を交わすうちに徐々に確かなものになっていく。

 光は名に違わぬ輝きを持つようになり、少しずつ声も明確になり、彼方に消えていた記憶らしきものも垣間見えるようになり。

 紗依もまた、理不尽に耐える日々の合間に友と交わす時間がとても大切なものに感じるようになり、何時しか日々の支えと思うようになっていた。

 気が付けば、夕星には母には語れぬ心の裡さえ、語る事が増えていた。

 自分が少しでも辛いと表してしまえば、母が気に負ってしまうから。

 誰かに頼ろうとすれば、その人間に咎が及んでしまうから。

 だから一人で耐えようと、常に気を張り強く在り続けることを自分に課していたけれど、本当は辛くて苦しくて、いつも何処かで助けを求めていた。

 耐えることに慣れ続け、吹き荒れる嵐のような理不尽をやり過ごす為に心を殺す事を覚え、素直な心を表すことすら難しくなり。いつしか、誰かに助けを求める事が出来なくなっていた。

 つらいのだと言いたい。苦しい、助けて欲しいのだという想いを耐えながら涙する紗依の傍らに、いつも友は居てくれた。

 何も出来なくて済まないと謝る友に、紗依は静かに首を横に振った。

 傍に寄り添ってくれる存在があることが、どれだけありがたいかと思いながら。

 互いを、互いしか知らない呼び名で呼びながら語り合う日々がどれほど続いただろうか。

 あれは、桜の時期が終わりにさしかかった頃だった。

 思いがけぬ強い風が吹き、散りかけた花弁が空を舞い、辺りを桜色に染めた光景を今でも鮮明に覚えている。

 夕暮れ時、漸く訪れる事ができた紗依へと夕星は静かに告げたのだ。


 ――自分が何者であるかを漸く取り戻せた、と。


『今は一度、貴方の側を去る。けれど、必ず貴方をここから救い出す』


 紗依は夕星が何を言おうとしているのか、理解したくなくて拒絶するように首を振る事しか出来なかった。

 夕星の言葉通りなら、唯一の友は、自分の元から消えてしまおうとしている。

 失ってしまうのだ、よすがとも思える時間を与えてくれた友を。

 いやだ、と言葉にして訴えたいのに言葉は何一つとして音として紡ぐことが出来ず。

 流れる涙を拭う事も忘れ必死に手を伸ばす先で、詫びながら友の姿は揺らめき、消えて行く。


『必ず、また会えるから。だから待っていて、わたしの、天乙女……』

『夕星‥…!』


 一瞬、目も眩む程の眩い光が周囲に満ちて、紗依は思わず目を瞑ってしまう。

 目を閉じる寸前、誰かが微笑んでいる姿が見えた気がするけれど、確かではない。

 そして、再び目を開いた時には。

 花舞う空の下、友の姿は何処にもなかった――。


 涙が滲みかけたのを堪えた紗依は、夕星が残した言葉を思い出しながら再び目を伏せる。 

 あの日以来、夕星の姿は何処にも見えなくなってしまった。

 あれは、幻だったのかとも思った。

 人ならざる存在を友と思った事が間違いだったのか、と思いもした。

 けれど、脳裏に巡るのは夕星が最後に残した『約束』だった。

 必ずまた会えると。だから待っていて欲しいと。

 告げた言葉が偽りでなかったと信じたい。どのような形でも、いつかまた自分達は会う事が叶うのだと信じている。

 何時の日かを信じる心、それもまた今の紗依を支える力の一つだった。

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