身代わり

 如何に名門であろうとも、才覚を持つ主が無ければ続いていくことは叶わない。

 玖瑶家の先代は名家の主として相応しい度量と才覚を持ち合わせた人物であったが、その跡を継いだ婿についてはあまり良い評判がない。

 入り婿の立場でありながら、先代の娘である妻を離縁し妾を家に入れたことに始まり。

 玖瑶家が手がける事業についても、下手な欲を出しては怪しい話に引っかかり、幾つもの土地や資産を失い続けていた。

 新たに妻として迎えられた女も、夫を助け家政を取り仕切るという妻の務めをおろそかにして。入り来た異国の文化を殊更有難がり、衣装に装飾にとのめりこんでいる。

 趣ある屋敷の中に点在する些かちぐはぐな印象を与える洋風の増築は、この女主人の俄かの熱によるものである。

 娘もまた母にならい、贅沢に溺れるようにして育ち、浪費に明け暮れる日々。

 跡取りとなる息子がいくら父母と姉を諫めてもその声が届くことはなく、結果として古き名門たる玖瑶家は徐々に斜陽を迎えつつあった。

 使用人達すら、このままお勤めして大丈夫だろうか、と不安げに囁く中。

 その日も紗依は、朝から休みなく用事を申し付けられ、屋敷中を奔走していた。

 紗依も、家の先行きに思うところがない訳ではない。

 けれど、それよりも紗依にとっては母の体調のほうが気がかりでならないのだ。

 酷く咳込んだと思えば熱を出し、食事もろくに喉を通らない事が増えた。

 元々痩せていたのが、よりか細くなってしまっている。

 せめて、まともな環境で療養させることが出来たらと思いながらも、叶えられない自分に唇を噛みしめる。

 紗依を安心させようと無理に笑ってくれている様子が、尚更悲しくて、悔しくて。

 握る手に力が籠り、滲みかけた涙を堪えていた時、女中の一人に声をかけられた。

 何でも、父達が紗依を呼んでいるとか。

 一体何の用事か、と紗依の心は重くなる。

 呼びつけられるとしたら、言いがかりをつけての折檻ぐらいしか思い当たらない。

 父は紗依の存在を無きものとしている為、見て見ぬ振り。妻と娘の好きにさせるばかり。

 弟が庇ってくれはするが、それで止まった試しはない。

 それでなくても言いつけられた用事が山積みだというのに、何を叱責されるのだろう。

 重い足取りで向かった先で、紗依が聞いたのは思わぬ言葉だった。


 ――お前の嫁ぎ先が決まった、と。


 聞いた瞬間、紗依は目を見開いて固まってしまった。

 思わず、居並ぶ父とその妻と、弟妹達を凝視してしまう。

 父の顔には冗談の色はなく、美苑と苑香の顔には意地悪い笑みが浮かんでいる。異母弟のわたるは、苦いものを噛みしめる表情で俯いていた。

 紗依は、何か言葉を返さなければと思うが、何も言えぬままだった。

 父の言葉が全く理解できない。耳から入ってきてはいるが、その内容を事実として受け入れることができずにいる。

 自分に縁談など、何の冗談であろうか。

 そもそもが、無きものとして扱われているような状態で。誰かに嫁ぐ日など来るはずもなく、このままこの家で一生を終えるのだと思っていた。

 それが、突然嫁げ、と。

 高く売れる先でも見つかったのだろうか。役立たずの『呪い子』を一体どこに売ろうというのか。

 父達にどんな思惑があるのか計りかねて、指先が震えかけるのを必死で堪える。


「喜びなさい。貴方には勿体ない程のご縁……北家のご当主から申し出よ?」


 呆然としたまま二の句を継げずにいる紗依に、美苑は意味ありげな声音で告げた。

 紗依は、言葉にある北家の名を聞いて更に愕然として息を飲む。

 帝にお仕えする名家の頂点にあるのが『四家』であり、そのうちの一つが北家である。

 始まりの帝にお仕えした家臣から始まる名家中の名家とも言える家門が、何故斜陽の玖瑶家に。それも、この家の娘として大事に育てられている苑香ではなく、紗依を。


「北家から申し入れがあった。……ご長女を『神嫁』として貰い受けたい、とな」


 父は説明を加えてくれたものの、紗依の表情は固いままである。

 聞きなれない『神嫁』という言葉に、むしろ謎は深まってしまった。

 長女と指定されたというなら、紗依行かせようとするのは分かる。

 如何に存在無き者として扱われていようと、紗依が父の長女であるのは確かだからだ。

 けれど対外的には、この家の長女は苑香となっているはずだ。

 それなのに、敢えて存在を伏せていた紗依を表に出してまで。

 『神嫁』という不思議に心がざわめく言葉に、自分が今嫁がされようとしている事実に、裡を忙しなく考えが駆け巡っている。


「いかに『四家』といえど『神無し』の家が『神嫁』とは滑稽なことだ」


 裡を埋めつくしていた問いに、父が呟いた皮肉が答えの糸口を与えた。

 名家の頂にある『四家』はそれぞれに始まりの帝が所有したとされる武具を『祭神』として祀っている。

 殊更強い異能を持ち合わせる事と、擁する神威故に『四家』は人々の畏怖の象徴なのである。

 だが、北家だけは違うのだ。

 北家は、過去に『祭神』を失っている。

 何時のことか、何が原因かもわからないが祭神は姿を消し、以降不在が続いているのだ。

 祀る神を失った為か持つ異能も代を重ねるごとに弱まっているらしい。

 かろうじて四家に名を連ねる事は許されているが、異能を誇る家門からは『神無し』と蔑まれている。

 その北家が神の嫁を求めるとは、一体。

父は大仰に溜息を吐いて見せると、嘲笑を交えながら続ける。


「大方、当主の妾でも求めているのだろう。聞こえよく言っているだけだ。そんな話に、大事な娘を差し出せるものか」


 父が言うには、北家の当主には既に妻があるのだという。

 数年前に嫁いできた妻には、未だ子がない。

 その状態で『縁組』を申し入れてくるならば、求めているのは当主の妾だろうと父達は推測したらしい。

 確かに、父達としては苑香を、妻ならともかく妾として、それも自分達が密かに蔑む家門に差し出す事などできないだろう。

 けれど、と紗依は思う。

 ただ、心に苦く呟く――やはり私は、貴方にとって娘ではないのですね、と……。

 固い表情のまま沈黙している紗依に、美苑がわざとらしい猫なで声を作る。


「あちらからの条件が『長女』とある以上、お前を行かせるのが筋というものでしょう?」


 嘲りを隠そうともせず笑う女を、紗依は静かに見据える。

 如何に相手が北家とはいえ、当主の血筋から妾を差し出す事にそこまでこだわる理由が透けて見える。

 恐らく、申し出に紗依を差し出す事で利益があるのだろう。

 紗依の考えを肯定するように、楽しそうな笑い声が響いた。


「申し出を受け入れたら、玖瑶家に多額の援助を頂けるの。漸くこの家の役に立てるのよ? 嬉しいでしょう?」


 流行の洋装に身を包み、今日も美しく聞かざる事に余念がない苑香は、はしゃぐように笑いながら言う。

 それを聞いた紗依は、やはり、と思う。

 北家は玖瑶家が傾きかけていることを知っている。だからこそ、金銭的な支援と引き換えに申し入れしてきたのだ。

 支援は欲しいが、大事な娘である苑香は間違っても妾になど差し出せない。

 悩んだ父達は気付いたのだろう。

 娘の名は指定されていない、ただ『長女』とだけ記されている。

 ならば。そうだ、丁度いい娘がいるではないか……。


「療養のために家を離れていたということにしろ。余計なことは言わなくていい」


 紗依の戸籍自体は残っている。ただ、死んだことにされていただけだ。

 死は誤解であったとして、紗依を送り出すことはもう父達にとって決定事項なのだろう。

 たとえ、ここで紗依が異議を唱えようと、父達の考えが変わることはないはずだ。

 しかし、一瞬の沈黙ののちにその場に抗議の叫びが響き渡る。


「父様は、お金の為に娘を売り渡す事を恥ずかしいと思わないのですか⁉」


 父達を非難したのは、それまで厳しい表情で黙していた弟だった。

 亘は、怒りを込めた眼差しで父と母、そして姉である苑香を睨みつけながら続ける。


「そもそも! 玖瑶家が傾いているのは、父様の失策と母様と苑香姉様の浪費のせいです! それなのに、その為に紗依姉様を犠牲にするなんて……!」


 跡取り息子が叫ぶ外れる点のない正論に、一気に父の顔が怒りに赤く染まる。

 空気が大きく動いたかと思った次の瞬間、亘は壁際まで吹き飛ばされていた。

 紗依は悲鳴をあげかける。

 父がその異能で息子に手をあげたのだと気付いたのは、一瞬遅れてのことだった。


「黙れ! 子供が生意気な口をきくな!」

「亘! お父様に謝りなさい!」


 尚も息子を打ち据えようとする父を、美苑が必死で押しとどめながら取りなしている。

 亘は痛みに呻きながらも、いまだ父に険しい眼差しを向け続けている。

 慌てた美苑は、手当をしなければ、と言い訳をして使用人達に亘を引きずって行かせた。

 もがきながらも連れて行かれる亘と最後に目があった。

 悲痛な眼差しを向けていた弟を、紗依は哀しげに見送るしかできなかった。

 暫しして、父は何とか落ち着きを取り戻した様子である。

 そんな父を母と共に宥めていた苑香は、無邪気な様子で父に語り掛ける。


「これは、お姉様にとってもいいお話だわ。この家に居たってお姉様には何の価値もないけれど、北家の妾になれば少しは価値を持てるかもしれないじゃない」

「そうだ。それに『神無し』の家に『呪い子』なら、調度いいではないか」


 少なくとも、子供を産むものという価値は持てるわ、と苑香は口元を歪める。

 それを聞いた父は、北家への嘲笑を口にしながら頷いて見せる。

 残酷な妹の言葉も、父の無慈悲な言葉も、今の紗依の裡には何の響きももたらさない。

 ここでどれだけあがこうと、自分はもうこの家には居られないのだという事を実感しつつあったから。

 抗ったとしたら、恐らく父達の怒りの矛先が母にも向くのが確信としてあったから。

 紗依が口に出来る言葉と、とることの出来る行動は、もはや一つだった。


「お言いつけにしたがい、北家に参ります」


 紗依は、手をついて頭を下げると、勤めて落ち着いた声音を作って告げた。

 見えないけれど、何故か不思議と美苑達が残酷な笑みを浮かべたのを感じる。

 命じられた内容を受け入れる。

 けれど、そこでは追われない。紗依は唇を噛みしめて続く言葉を口にした。


「ですが……その代わりにお願いです。お母様を、どうか療養所に。お医者様の治療を受けさせてあげてください……!」


 自分を必死に奮い立たせて紗依は続く言葉を裡から絞りだす。

 父が不愉快そうに呻いたのが聞こえた。

 だが、これだけは譲れない。

 紗依にとって、唯一人家族と呼べる人であり、揺るぎない愛を与えてくれた大切な母。

 母には穏やかに暮らして欲しい。正しい治療を受けて安らげる環境で過ごして欲しい。

 その為なら、自分は妾であろうが、どのような境遇であろうが受け入れる。父達の思惑だって、利用して見せる……!

 伏して懇願する紗依を前に、父は暫く唸りながら思案している様子だった。

 だが、美苑が意味ありげに何か囁いた気配を感じたと思った後、紗依の予想に反して、あっさりと承諾する旨を口にしたのだった。


 紗依が北家に行くという話は、瞬く間に屋敷中に驚愕と共に広がった。

 無論、母もまたその衝撃の報せを娘自身から受けることとなった。

 母は泣きながら、そんな話を受け入れることはないと訴えた。

 療養所など行かなくてもいい、だからお前が犠牲になることはないのだと、か細い腕で必死に娘を抱き締めながら。

 けれど、紗依の心は決まっていた。

 私は自分の意思で行く事を決めました、と真っ直ぐに母を見つめて紗依は告げる。

 娘の決意が固い事を知ると、母はとあるお守りを差し出した。

 亡き祖父母がそれぞれに持っていた対の守りであるという。

 祖母がもっていた方を紗依に、と手渡してくれたのだ。

 祖父がもっていた片割れを、何があろうとけして手放しません、と誓いながら。

 これがある限り、私達はどこにあろうと繋がっているのです、と……。


 紗依の出立まで、慌ただしく日は過ぎた。

 父はもはや興味を無くし、妻と娘に任せきりであり。

 美苑達はみすぼらしくなければ良いと、体裁が保てる程度のおざなりな支度だけをして、追い出すようにして紗依を送り出した。

 華やかな支度をされてもむしろ気が滅入る、と心に苦く呟きながら。

 一人の付き添いすらない寂しい道行きの後、紗依は北家の門を叩くこととなった――。

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