三 海の歓迎

 蒸し暑さが不愉快な夏の日、頼る月も無い新月の夜。波音が海へ引き込もうとしているかのように妖しく響く。

 昼間は盛んであった漁村も、最早恐ろしい闇に支配されている。

 人ならざるモノの領域。妖怪の世界。だからこそだろうか。海でも山姥が生き生きしているのは。


「のう。こんな夜こそわしらが逢い引きするに相応しいと、そうは思わんかえ?」


 黒い渚で、永は笑う。

 無邪気に楽しそうに。提灯の明かりを浴びて、妖しく神秘的に。濃い影が彼女の危うい美を引き立てていた。

 思わず目を離せなくて、波の音さえ意識から消える。


 二人はこの海の妖怪に直接話を聞く為に、わざわざ夜に出てきていた。しかも借りた小舟を押し出し、沖へ出る直前。相変わらずの自由さだが、この時ばかりは呆れも弱い。

 強引に目を閉じ、息を吐く。心身を落ち着け、信太郎は真面目に答える。


「……悪いが、神社姫について調べるのが先だ」

「それぐらい分かっておるわい。それでも優先してほしい。これが女心じゃと言うのに」

「済まぬな。終わったらなにか考えよう」

「ほ。考える意味があると? どうせ思い付かんのじゃろ? 期待せんで待っとるわい」

「……努力はする。いつか期待されるまでに仕上げてみせよう」


 難問に直面し、信太郎は自然と渋面を作った。言ったはいいが努力の方向性さえ分からない。

 そんな旦那に永は呆れたような溜め息。更には小言まで。しかし気が進まない様子ではあっても乗り込んできたので、意識を切り替えて、ようやく小舟を漕ぎだす。

 その先は、小さな星が空と海に瞬くだけの暗闇。正しく人のものではない領域である。


 穏やかな波に揺れる小舟。

 櫂を漕ぐ度に木材が軋み、水が跳ねる。静寂とは程遠い、騒がしい海の夜。獣や虫の声が騒がしい山の夜とはまた違う。

 暗く、黒い、未知の夜空の中を進む。船も頼りない。何もかもが不安定で、まるで自分自身もあやふやな存在になってしまったかのよう。

 それでもしっかり自己の意識を保てるのは、二人でいるからだ。


「ほれ。もっと気張らんか。暇で仕方ないわ」

「ならば海にまつわる話でも聞かせようか。暇も紛れるだろう」

「昔に散々聞いたんじゃがの。新しい話を仕入れたのかえ?」

「……確かに全て話したかもしれぬ。だが良い話は何度聞いても良いだろう」

「化け物の話ばかりじゃろ? 良い話などあったかの」

「……そうか。主にはつまらぬ話ばかりだったか……」

「……そう落ち込んだ顔をするでないわ。わしが酷い嫁に見えるじゃろう」


 怪異の話に興味があったのは自分ばかりだったのかと暗くなる信太郎。意図しない攻撃を与えてしまって戸惑う永。船上が妙な空気に包まれた。

 他愛ない話はまれに相手の新たな一面を知られる。

 そうと思えば、こんな空気もたまには悪くないと思えた。


 ただ、異変は唐突に訪れる。


 不思議な事に、先の海面に明かりが見えた。他に船を出す命知らずがいるのだろうか。

 警戒しつつ近付いていけば、その正体がハッキリと見える。海上に浮く、揺らめく炎だった。

 奇怪な現象。信太郎は勿論知っている。

 地域によって姿も特徴も様々な、それらの対策もしっかり講じていた、海の怪異である。


「船幽霊の一種か。これなら沈められる心配はないか」

「ふむ。燃えておるだけでは、ちと恐ろしさが弱いの」

「また説教か」


 川の怪異相手にした話を思い出す。同情しつつも、内容は興味深いものだった。再びの山姥一人舞台に少なからず期待する。

 しかし、永は肩をすくめるだけだった。


「わしは山姥じゃぞ。海の妖怪など知らぬわ」

「そうか。残念だ」

「何を期待しておったのじゃ。趣味が悪いの」

「む。それもそうだ。反省しよう」

「真に受けるでないわ阿呆」


 こんな状況だろうと、やはり普段通りの掛け合い。恐れはなく、火に囲まれる中を突っ切って舟を進ませる。

 この船幽霊は人を襲う性質ではないのか。それとも永を恐れて手を出せないのか。どちらにせよ安全らしい。


 ならば、と考えを切り替えてみた。


「永よ。この眺めは楽しめるか?」

「ほ? なんじゃ?」

「それともやはり、花の方が良いか?」

「……ほう。少しは考えるようになったようじゃの」


 山姥と草薙衆。この程度では恐怖は弱い。

 見方を変えてしまえば、ただ、神秘的で美しい光景でしかない。暗闇に炎が映えて、海面に反射して、祭りめいた賑わいにも感じられた。黒と、赤やほのかな黄色。不安定だった世界と確かな色が、互いを引き立ててこの世ならざる姿に近付ける。

 永は宙に浮く炎に触ろうと手を伸ばす。無邪気な子供のように。

 その横顔に楽しげな輝きを見て、信太郎も笑う。

 船幽霊には気の毒だが、このまま見応えのある景色でいてもらいたい。

 灯りには怪しい幾つも影が浮かぶが、巨大な蟹や猫のようなそれは遠巻きに眺めるばかり。

 夫婦は前向きに、怪しい炎の中を過ぎていく。


 だが、残念な事にお楽しみは長くは続かなかった。


「……残念じゃ。もっと見たかったんじゃがの」


 そう、やはり、異変は唐突。

 海面が渦巻く。波が盛り上がり、割れる。

 その下から現れたのは、大きな影。丸みを帯び、目のように二つの光がある。

 海坊主。これまた有名な海の妖怪だ。

 これは待っていた相手かもしれない。と、気を引き締め直す信太郎。

 だが口を開こうとすると、先に海坊主が声を発してきた。


「山の者が海に何の用ですかな」

「わしはない。あるのは旦那じゃ」


 じろり。と感情の読めない視線が向けられた気がした。

 信太郎は礼儀を持って頭を下げる。


「突然の来訪、失礼致します。此度はお話を聞かせて頂きたく参りました」


 丁寧に言葉を選び、反応を待つ。

 が、返事はない。ただ黒い影として存在しているのみ。

 機嫌を損ねたか。とも思ったものの、よく見ると少しばかり体が海に下がっているようだった。


「どうしたのじゃ。まさかわしらを恐れておるのかえ?」

「……うむ。わしは弱い。そなたより弱く、しかし我らがあるじの為ならば命を捧げる覚悟はありまする」

「海の主……ならばその方は、海神に連なる方なのでしょうか」


 信太郎の問いかけに、海坊主は答えない。場が緊張。間にあるのは強い警戒心だ。

 気持ち声を優しくしつつ、質問を変える。


「漁村に現れた神社姫は、もしや海神の娘なのでしょうか」

「……そうでしょうな」

「未だ帰ってきておられないのではありませんか。漁村の者が姿を見かけなくなったと心配しております。私共はその行方を突きとめる為に参りました」


 真摯さを心がけつつ本題の質問。

 すると人より大きな目が何度も瞬いた。相手の警戒が緩む。海坊主からほっと安心した気配を感じた。


「……それが用件でしたか。……いやはやこれは失礼をば。てっきりあなた方の仕業ではあるまいかと」

「こちらこそ無礼な訪問をしてしまい申し訳ありません。では、海の主は既に動いているのでしょうか」

「……我らが主を怒らせたくありませんで。下手を打てば人だけでなく我らも抗えぬ天災となりますからな。しかし隠すのも限界がある訳でして」

「……分かりました。私共が尽力致しましょう」

「いやはや、助かります。わしも協力は惜しみませんぞ」


 揺れる船上で固く約定を結ぶ。

 確定した厄介事に永は機嫌の悪い顔になった。その代わりに信太郎は決意を胸に灯す。


 失敗すれば災厄も起きかねない。

 海と人と妖怪。全ての為。今回は人魚探しを使命と定めたのだった。

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