なっちゃんは、足を伸ばして遠出して/諏訪野 滋さんへ💗
なっちゃんは、足を伸ばして遠出して/諏訪野 滋さん
https://kakuyomu.jp/works/16818093086910083371
ようちゃんをご指名ありがとうございます💗
わたしのファンサとしてこちらにて感想及び僭越ながらアドバイスなどをさせて頂こうと思います。先に言っておきますと、今回はアントニオ猪木ばりのビンタはありませんのでご安心くださいませ。
さて、全体的な感想なのですが、文句ないです。お題というしばりを度外視したとして、もしこれをさいかわ賞に出したとしたら、大賞を差し上げたいくらいだと思いました。ですので、正直わたしがツッコむところがないくらい仕上がっているので、「感想、何を書こうか……( ;∀;)」みたいになっております。諏訪野さんは上手になったというよりかは、より心のままに自由に書けるようになった気がいたします。頭や理屈ではなく、感情を動かして書いているのが文面の奥底から滲み出ているのです。感性ではなく感情によって読者に表現できるタイプの小説家なのかもしれませんね。
小説で「病気もの」を書く時、主人公(ここではなっちゃん)の振る舞いというのは、だいたい失意の混じった悟りか健気な方向に向かうのが常なのですが、なっちゃんはそうではなくて恋愛感情を前に出しています。それも少女ならではの純粋であるがゆえの危うさを含んでいて、読んでいるこちらがあらゆる意味でドキドキしていまします。このなっちゃんを描けただけで賞賛に値すると思います。
個人的に好きなところなのですが、基本的になっちゃんを投影するための役目を負った研修医である「僕」が、最後に自分の前向きな感情を見せるところも良いです。普通は語り手を担わせる場合には、フラットであるほうがスポットライトを照射する対象物(ここではなっちゃん)が引き立つのですが、研修医という未熟で迷いのある立場が、(少なくとも表面上は)明るいなっちゃんの快活さをかえって引き出している点も面白いです。これは諏訪野さんの人柄からして計算ではなく、あるがままに書いた偶然の結果かもしれませんか、よくハマっていると思います。
ということで御作への賛辞はいくらでも書けるのですが、それだけですと「ファンサ」にはなりませんので、諏訪野さんにご希望を伺ったところ、「賞レースに出すとして」というオーダーをいただいたのですが、これもまた大賞級であると言ってしまいましたし、どうしましょうかね笑。
いろいろと考えたのですが、重箱の隅を楊枝でほじくるみたいなものは書きたくありませんので、あえてどこまでも、
ようちゃんが好きなテイスト
という一点において、どうかということを書いてみようと思います。正々堂々と「ここをこうしてわたしの好みに書き直してほしい!」というトンデモ企画というわけです。たぶんわたしがこれを安心してダイレクトに要求できる相手は、感情的には諏訪野さん、技量的にはとりちゃんくらいしかいないかもしれません……。
ですので、あくまでも「ここがダメだからこう直した方がいい」とか「ここをこうしたらもっと良くなる」みたいな話ではなく、さいかわ賞でよく出てくるたとえで言えば、「完全にわたし好みの至高のチャーハンを持ってこい!」みたいな無茶ぶりだと思ってください。ここからは
まずはですね、ちょと理屈の話になってしまうのですが、「イメージしやすいもの」と「イメージしにくいもの」という概念を理解してください。
いきなりひどい下ネタで恐縮ですが、諏訪野さんは男性ですから、たとえば「パンチラしている女の子」なんて文字を出されると、嫌でもいろいろなイメージという映像が出てくると思うのです。下手をすると、パンチラという文字だけでご飯三杯はいけるくらいの妄想が始まるかもしれません。
ところが「女性が嫉妬する心理」だとか「生理中でイライラしている女性が人のせいにしたがる気持ち」とかいわれても、なんとなーくはイメージできてもパンチラみたいにはっきりとしたビジョンはすぐに出てこないと思います。もちろん、説明されればイメージできるかもしれませんが。
つまりですね。小説においては、「誰でもイメージできるイメージは抑え目に」「イメージしにくいものは繰り返して表現する」とバランスをとることが大事だと、わたしの考えております。しかもその強弱はストーリーやキャラクタを邪魔しない程度にしなければなりません。小説においては、強弱をつけるところと均一性と保つところがあって、その適正がおかしいと、小説で言いたい主線とデティールの情報という複線の主従が逆転して、読者に「何がメインの話なの?」というアンバランスな印象を与えるのです。
ここまで説明しますともうおわかりかと思いますが、「仮骨延長術」の描写が生々しくて、なっちゃんの振る舞いより目立ってしまうということなんですね。最初と次の
「太ももの骨を伸ばせるのは、……
「この身長を伸ばす手術のことを、……
くらいまでは世界観を説明する上でも必要ですが、それ以降の具体的な表現は、極論するとインパクトが強すぎて小説の内容が入ってこないという事態を招きかねないのです。そうなると、「この小説はなっちゃんのひたむきなかわいさがメインなのか、仮骨延長術の苛烈さがメインなのかどっちなんだろう」と読者は混乱してしまうわけです。
作者としては全部に対してスポットライトをあてたいとは思うのですが、その濃淡をしっかりと区別しないと相手には伝わらないものがあるということを理解したうえで、わたしとしては仮骨延長術に関係する表現の方をレべリングしてほしいと思います。
注文がもう一つありまして、一人称の限界についてです。一人称というのは登場人物(今回は僕ですね)に物語を語らせなければならないわけですが、同時に僕自身も人間としての振る舞いをしなければなりません。諏訪野さんとは仲が良いと思いますので例に出しちゃいますが、さいかわ葉月賞の「Nagashi-Somen」でわたしが言った「自分自身の話」と「状況説明」にバランスが取れていないというヤツです。
諏訪野さんの場合、正確に言えば、バランスが取れていないというよりも、僕の作り込みをもっと練ってほしいです。
ウミガメの産卵と同じだ、と僕は考えることにした。ウミガメの涙というのは別に産みの苦しみというわけじゃなくて、体内の塩分を調整する為なんだと何かの本で読んだことがある。
まがりなりも多くの勉強をしているであろう医者である人が、この件で「本で読んだことがある」という表現をするでしょうか。少なくとも読者のイメージは「(僕という医者であれば)これくらいは常識の範中では?」だと思います。ここだけはひっかかるものがありました。
ですので一人称の場合は、「ストーリーを説明する語り手(僕)」と「登場人物を説明する僕」と「自分自身を表現する僕」の三人をキチンと設計しなければならず、作家はそれを意識をした書き方をしなければなりません。文中で三役を混在させるのは非常に難しく、また混在させたとしても上手でなければ、読者の理解がついてこれなくなります。ですので、
①ストーリーを説明する僕
②なっちゃんを説明する僕
③自分自身を表現する僕
を段落単位で分けて順番に書いて繰り返してしていけばいいと思います。①だけとか②がズラーとあるとかですと読者が「え? これがこの小説のメインなの?」と誤解を生んでしまいます。一人称小説って何役も主人公一人に追わせる手法なので、実は結構作家の技量が問われるんですよ。
結局のところ、「バランス」なんですね。だから上手な作家はこのバランスがきれいです。そして文章を見直す時は、「ストーリーのバランス」という観点だけで見直し、「キャラの会話のバランス」という観点だけで見直し、「主人公の心理描写のバランス」という観点だけで見直しと、いう風に、観点ごとに見直してバランスをチェックしていくことでそのクオリティーを上げているわけです。
まとめになりますが、今後も諏訪野さんの作品で想いが籠っている箇所は感情表現過多になっているかもしれませんし、頭でストーリーを進めようとして状況説明過多になっているところもあるかもしれません(今回はないですが)。特に想いがのっているときほど、冷静にバランスを見直して全体を俯瞰するように心がけてみてください。
以上、わたしなりのファンサを書かせていただきました。参考にしていただければ幸いです。
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