第11話 激闘(後)

(――ッタ!)


 巨蟹きょがにの怪異――〝ガイナカニゴ〟は、獲物えものの死を確信した。


 初めに三匹の狐を始末した際、右のハサミが木に引っ掛かってしまったのは失敗だった。

 しかし、怪異はこれを罠として逆用する策を思いついた。

 どうやらあの小さな獲物は危険な武器を持っているようだ。とはいえ、あれを怪異に届かせるために接近して来ることに疑いはない。


 怪異は左手側から近づいて来る獲物らに応戦しながら、密かに右の歩脚ほきゃくで邪魔な木の根本を切除した。

 念のため口から吐いた赤泡は妙な術で防がれてしまったが、そのときには右のハサミから頸木くびきは外れていた。


 〝ガイナカニゴ〟の右ハサミは空気を引き裂き、小さな獲物を両断した。



 ――――かに思えた。



 直後、〝ガイナカニゴ〟の眼下で仕留めたはずの獲物の姿がき消えた。


(――何処ドコヘ――)


 〝ガイナカニゴ〟は混乱した。


「――――!!」


 獲物のたけり声は、怪異の体のほぼ真下から聴こえた。


    †


 巨蟹が右の大ハサミを突き出してきた。

 それに気づいたりんは、刹那せつな、構えをき、更に前方へと鋭く踏み込んだ。

 急制動からの急加速――その挙動がその場に残像を生んだことに、凛自身も気づかなかった。

 真後ろでガチンと、ハサミが空を切る音が聴こえた。巨蟹の腹は凛の鼻先だ。彼女をさまたげるものは、もう何もない。


『その神刀しんとうの力を解放するには、本来は儀式や祝詞のりとが必要だ』


 凛の脳裏のうりに、譲悟じょうごから事前に聞いた言葉が浮かび上がる。


『……が、今のお前なら刀の真名まなを唱えるだけで力を引き出せるだろう。いいか。一度しか言わねぇから、正確に覚えろ』


 上段に刀を掲げるほどのスペースはない。凛は右手に握った脇差を左の腰の位置に持っていき、両手で構える。見様みよう見真似みまね。何かのアニメで見た、抜刀術の達人の構え。

 唱えるは、脇差の真名。


「――はああぁぁっ、【神薙かんなぎいぃぃっ!!】」


 逆袈裟ぎゃくげさ――左下から右上に掛けて、一心不乱に斬り上げる。

 抵抗は全くなかった。


 光があふれる。


 刃の軌跡きせきをなぞるように、青白い光の奔流ほんりゅうが巻き起こり、巨蟹の体躯たいくを切り裂いてゆく。光はその断面から巨蟹の体内に侵入して乱反射し、怪異を内部からき尽くす。


『ブオ、オオォォォォ…………』


 〝ガイナカニゴ〟はあごを震わせ空気を鳴らす。最早もはやすべはなかった。

 怪異の巨躯がぼろぼろと崩れてゆく。巨蟹の体を構成していた霊子りょうしひと欠片かけらも残らず空気にかえるとき、かなでられた空気の振動はどこか物悲しい残響となった。


 その間、凛は脇差を振り切った残心の姿勢を保っていた。

 怪異が消滅しょうめつするや否や、少女はふらりとその場に倒れ込んだ。


    †


「やりやがった……」


 後方から凛を援護していた譲悟じょうごは、少女の戦いぶりに舌を巻いていた。

 陰陽術おんみょうじゅつなど名前すら知っているか怪しい彼女は、なぜか霊力による身体強化を自然に行っていた。近接格闘を得意とする譲悟が目をみはるほどの動きで巨蟹の攻撃をことごとかわし、そのふところ深くにもぐり込んだ。しまいには、真名の一声で神刀を励起れいきし、一刀で巨蟹をほうむってみせた。


 ――天才。その二字が譲悟の脳裏に浮かんだ。


 そもそも、初めから神刀が使えたならば・・・・・・・・・、この程度の怪異をはらうのは造作ぞうさもないことだ。とはいえ、それにはつかい手が修行を積んだ退魔師だという前提がある。

 〝ガイナカニゴ〟――下位とはいえ上級に属する怪異の撃破。それは素人の、それも年端としはも行かない少女の戦果としては、大金星を通り越して一つの偉業だと言っても過言ではなかった。

 加えて、神刀との相性の良さは、かつての・・・・譲悟以上かもしれない。



 倒れた凛の元へ足を進める前、譲悟はちらりと後方を振り返った。


「――っ!」


 視線の先にいたもう一人の女子中学生――岡部円香まどかは、譲悟に見られていることに気づくと、さっと木陰に身を隠した。円香は凛に助けられた後、一度はその場から逃げ出したものの、なぜか現場に引き返していた。そして、少し離れた場所から凛たち二人と怪異の戦いを観ていたようだ。

 譲悟は円香の接近にすぐ気づいたが、興味もなければ害もなさそうなので放っておいた。――そして、それは今も同じ。むしろ、怪異が消えた今、ただの生贄いけにえ候補だった少女らには何の用もない。

 譲悟は再び前に向き直ると、途中で凛が捨て置いた神刀のさやを拾い上げ、倒れた凛の元へと向かった。


 神刀は今や凛の手を離れ、地面に突き立っていた。

 譲悟は一度鞘を地に置き、生身の左手で刀の柄にそっと触れる。


 バチバチッ……!


 高圧電流のような衝撃が走り、譲悟はすぐさま手を離した。左手を起点に走った衝撃は、腕全体に強いしびれを残した。


 ――舌打ちの音が響く。


「……相変わらず、俺には使われてくれねぇのか……」


 譲悟が右腕と共に神刀を扱う資格を喪失したのは、今から八年前のことだった。

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