第10話 激闘(前)

 脇差わきざしさやつかを左右の手に握りながら、りんは戸惑っていた。

 少し刀身をのぞくだけのつもりが、一切の抵抗なく鞘が抜けきった。まるで、独りでに抜けたかのようだった。

 凛はあわてて刀身を鞘に戻そうとするが、今度は逆に強い反発を感じ、全く納刀できなかった。


「えぇっ?」


 あせりを感じる凛を横目に、相変わらず左手で巨蟹きょがにを封じる印を維持しながら譲悟じょうごが叫ぶ。


「お、おいっ! とりあえずそれ、そのままこっちに持って来い!」

「はい!」


 凛はおっかなびっくり刀を持ったまま立ち上がると、言われた通りに譲悟のそばまで駆け寄る。


(――なんだ。やっぱりこれで合ってたんじゃない)


 凛は内心でそう思った。脇差を一目見るなり「それじゃない」と叫んだ譲悟が、その言葉を撤回したように感じたのだ。実際のところ、譲悟の声も平時とは異なっていたのだが、凛がその差異に気づくことはなかった。


「あ、あれ?」


 ここでまた不可思議なことが起こる。凛は脇差を持ち替えて譲悟に渡そうとしたのだが、柄が右手に吸い付いたように離れないのだ。


「――チッ。そういうことかよ……」


 横目でその状況を把握した譲悟は、訳知わけしり顔で舌打ちした。


「もう、何なのよ! これって呪いの妖刀とかなの?」

「ば、罰当たりなこと言うんじゃねぇ! 神聖な刀だぞ!」


 苛立いらだちのあまり暴言を吐く凛を、譲悟は慌ててたしなめた。


「そ、そうなの……?」

「あぁ」


 譲悟は一つうなずいた後、苦虫をみ潰したような顔をした。


「……こうなったら、もう仕方ねぇ。その刀を使って、お前があの化け物を退治しろ!」


 その科白せりふを聞いた後、凛が内容を理解するまでに数秒の間があった。


「――えええええぇぇぇっ!?」


    †


「そ、そんなの無茶でしょ!?」


 譲悟からの無茶振りを聞いて、凛は悲鳴のような声を上げた。


 そのとき、渦巻く光条の結界に囚われた巨蟹――〝ガイナカニゴ〟がぶるりと大きく身動みじろぎした。見れば光条の光が弱まり、巨蟹の拘束が緩みつつあるようだった。


「時間がねぇ! 俺の言う通りにしろ!」


 冷や汗をきながら叫ぶ譲悟を前にして、凛は自棄やけ気味に覚悟を決める。


(――刀なんか握ったの初めてだけど……何もしないで死ぬよりはマシ! ……たぶん)


 凛はすっと息を吸ってから、譲悟に応える。


「……わかったわ。やってやるわよ!」


 〝ガイナカニゴ〟を閉じ込めた半球状の結界が光を失ったのは、それから間もなくのことだった。


    †


 ――ブオオオオオオッッッ!!!!


 結界の呪縛じゅばくから解き放たれた〝ガイナカニゴ〟はあごで空気を震わせ、大音声を発した。

 全身は夕陽に燃えるように赤く染まり、その怒りを表しているかのようだった。


 結界の効果が失われる寸前、凛と譲悟は巨蟹からわずかに距離を取ることができた。二人と巨蟹の間には大木が立っており、盾として活用できるかもしれない。


「【――式変化へんげ六狐ろっこ招来!】」


 譲悟が左手で先程とは別の印を結ぶと、彼のポケットから独りでに飛び出した形代かたしろが狐に姿を変じる。その数、六匹。


「わっ! もふもふっ!」


 思わずほっこりする凛だが、譲悟にとってこれら狐の式神は捨て駒だった。


「こいつらにまぎれて行け!」

「うぅ……ごめんね、キツネさんたち」


 狐たちに紛れた凛が巨蟹に近づく――これが作戦の第一段階だった。無論それは、凛が手にした神刀で巨蟹を直接攻撃するためだ。

 凛は断腸の思いで、愛くるしい狐たちをおとりにする決意を固めた。もっとも、式神の彼らはいくらでも復活できるのだが、このときの凛はそれを知らない。


 〝ガイナカニゴ〟は両のハサミを大きく持ち上げ、体の右側面を前にして猛然と凛たちにせまる。


 六匹の狐たちは左右三匹ずつに分かれて巨蟹に立ち向かう。凛は右側の三匹に同行することにした。巨蟹の左手側から攻めるためだ。先刻は巨蟹の擬態ぎたいによって右手側に回り込んでしまったが、それは悪手だった。


「【――元柱固具がんちゅうこしん八隅八気はちぐうはつき五陽五神ごようごしん陽動二衝厳神おんみょうにしょうげんしん、……】」


 一人後方に残った譲悟は、凛の援護のために陰陽術おんみょうじゅつの呪文を唱え始めた。


 巨蟹が右の大ハサミを振り下ろすと同時、左の狐たちが散開する。狐らは健気に牙と爪をって巨蟹に攻撃を試みるが、硬い外殻がいかくには文字通り歯が立たない。三匹の狐がほふられ、元の形代にかえるまでに数秒と掛からなかった。

 しかし、ここで一つ幸運なことが起こった。跳び上がった狐を仕留めようと振り上げた巨蟹の右の大ハサミが大木の幹に引っ掛かったのだ。巨蟹は自身の左手側に迫る凛と残りの狐たちに対処するため、右のハサミが使えない状態になった。


(ラッキー! 今の内に!)


 赤泡に囚われた靴を回収できなかった凛の右足は、素足のままだ。しかし、いつの間にかそれが気にならなくなっていた。厚手の靴下をいているのに、まるで地に足が吸い付くようだ。

 三匹の狐と共に走りながら、凛は作戦を思い返す。


『カニの弱点は腹だ。背中側の甲羅は固いが、腹はそうでもない』


 だからとりあえず、ふところに飛び込め――譲悟はそう言った。


 〝ガイナカニゴ〟は凛を寄せ付けまいと、左の上側三本の歩脚ほきゃくを突き出す。いずれかの爪に引っかれればおお怪我けがは必至だ。

 凛は軽く体を横にずらしてそれらをかわすと、無造作むぞうさに刀を振るう。ひらめく刃は巨蟹の三本の歩脚の内、二本の脚先あしさきを切り払う。鎌状の脚先が紙切れのように宙を舞う。


『――――!!』


 〝ガイナカニゴ〟は声なき絶叫を上げた。

 痛みか、あるいは恐怖からか、巨蟹は狂ったように左の大ハサミを振り回す。

 供の狐たちが一匹、また一匹と討たれるなか、凛は一息に巨蟹の懐へ飛び込んだ。


『ブクブクブクブクッッ!!』


 ――それを待っていたのだろうか。

 〝ガイナカニゴ〟は口から赤くにごった泡を一気に噴き出した。凛は、逃げ場を失っていた。


「【……害気を攘払ゆずりはらいし、四柱神しちゅうしん鎮護ちんごし、五神ごしん開衢かいえい、悪鬼をはらい、奇動きどう霊光れいこう四隅しぐう衝徹しょうてつし、元柱固具、安鎮あんちんを得んことを、つとみて五陽ごよう霊神れいしんに願いたてまつる】」


 一方その頃、譲悟は陰陽術を発動するための呪文を唱え終わっていた。


「【五行の土・鎧瓦よろいがわら!】」


 凛の頭上に霊気の盾が形成される。

 巨蟹の口からあふれた赤泡は、盾にさえぎられ、凛をけるように左右へ流れ落ちていく。


 遂に凛は、巨蟹の懐に辿たどり着いた。

 凛は脇差を上段に掲げる。


「か――」


 彼女が何ごとかを唱えようとしたそのとき。


 巨蟹の右の大ハサミが、待ち構えていたかのように少女の細腰に噛みついた。



────────────────────────────────────

「激闘(後)」に続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る