第14話

一月にも関わらず、春先の気温が保たれた植物園の夜は、実に軽快であった。陽希にとってみれば、スキップしたくなるようだった。春の空気は独特の香りがして、夜の黒さも柔らかいが、それすら再現されている。

三人で、軽く雑談を交わしていると、背の低い草木の向こうに、影が一瞬蠢いたのが見えた。背の高い何かしらの花かと思ったが、そうではないらしい。一旦、陽希は水樹と理人を手で押し留め、自分だけが一歩前に出た。

しかし、すぐに警戒を緩める。

その人影が、クラシックなメイド服を着ていると分かったからだ。綺羽だった。

「綺羽ちゃん、一人でこんなところにいたら危ないよ、何してるの?」

陽希が明るく声を掛けると、綺羽は振り返り、胸に手を当てて深々と手を当てた。

「こんばんは、陽希様たち。少し春の風に当たりたくなりまして」

「俺たちと一緒だ。じゃあ、隣にいても良い?」

「……どうぞ」

綺羽は、件のオオルリの美しい時計のすぐそばに立って、見上げていたようだった。改めて陽希も傍に行って見ると、その柱の部分に一枚の写真があるのに気づいた。

「あー、もしかして、この写真がVincent Horologeさん?」

陽希が笑顔で綺羽に問いかけると、綺羽も、今まで以上に穏やかな口調で答えた。

「ええ、おっしゃる通りです。五十歳の誕生日に撮られた写真です」

 写真には、穏やかな顔で微笑む男性と、それに抱かれて満足げな顔の、トラねこが写っていた。

「抱いている猫は、彼が、この屋敷の前に捨てられていたのを拾って育てていたとか」

「へぇー。一緒に写真に写ってるなんて、凄く猫が好きだったんだ。俺も猫好き」

「はい。彼は大の愛猫家として、晩年は特に、雑誌にも掲載されるほどで。生まれた時から猫を飼っていて、生涯猫を一時も絶やさず飼い続けていました。この屋敷にも、全てのドアに、猫用のドアが用意されているのですよ」

「今も、何処かに猫が? 一度も会いませんでしたが」

 水樹が口を挟むと、綺羽は一転して悲しそうに顔を歪めて、首を横に振る。

「彼が亡くなって、最後に飼っていた猫も亡くなってからは、私が屋敷の清掃に来るくらいで此処には誰も常時住んではおりませんから。Vincent Horologeの気持ちを考えると、飼ってあげたいのですが、なかなか」

「すげー。こんな大きなお屋敷を自由に歩けるなんて、猫ちゃんも幸せだっただろうなぁ」

「綺羽さんは、このお屋敷にずっとお勤めなのですか?」

「その通りです、理人様。御主人様の生前から、随分長く。勤め始めたのは十代の頃、アルバイトでしたから」

そう語る綺羽は、今までの無表情からは想像もできないほど、天使のような笑みを浮かべていた。

「今は、このでっかい御屋敷、綺羽ちゃんが一人で守ってるの?」

「今は私だけです」

「お掃除とか大変そうだなー」

「私にとっては、この屋敷は、命より大切な宝物なんです。ですから、その宝物を磨くことは、ちっとも苦労ではございません」

楽しくなってきて、しきりに歩き回る陽希だったが、そこで急に流れ出した軽快なメロディに、ビクッと体を竦めて、近くにいる理人に抱き着いた。理人も理人で陽希の背を撫でてあげているのだから甘やかしすぎだ、と水樹は思う。

そのメロディは、このオオルリの時計から流れているものだった。

「こんな真夜中なのに、流れるんですね」

「そうです、水樹様。此方の時計は、時間帯に関わらず、二十四時間、一時間ごとにメロディが流れる仕様となっております」

「全ての時刻で同じ曲が流れるんですか?」

「おっしゃる通りです」

水樹は、「ふぅん」と鼻を鳴らして納得するばかりだったが、すぐにハッとなって、上着の胸ポケットからメモ帳を取り出し、音階をメモした。

『レ ソ レ ラ ソ レ レ ソ ラ ソ』

「どうしましたか、水樹。何か気づいたのですか」

 理人がメモを覗き込んで来る。水樹も強く頷いた。

「この独特な音階は、暗号になっているのかもしれません。あの日時計に表示された『葉』と『音譜』……それが、植物園で音楽に纏わる何かを探せ、というヒントだったとしたら」

「……あ、水樹ちゃん、俺分かったかも!」

陽希が突然駆けだした。本当に、髪色や顔つきも相まって、シャムネコのように素早い男だ。

そして、スマホを握り締めて帰って来た陽希の顔は、暗闇でも分かるほど紅潮していた。

「やっぱり、あったよ! 暗号」

その画面を顔のすぐそばに向けられて、水樹は眩しくて目を眇める。ソメイヨシノの木の枝に結わえられた羊皮紙に書かれた、「7」の文字が写っているのは、やっと見えた。

「『7』……矢張りそうですか。僕の推理では、このメロディの音階を頭文字に冠する花に、何らかの数字が結わえられている」

水樹が朗々と言うと、理人は頷き、綺羽に向き直った。

「綺羽さん、この屋敷には、数字錠を利用した何かがありますか」

「Room of Sincerity……『新誠の間』と名付けられた部屋が、まさに九桁の数字錠で戸締りされる部屋になっております」

それだ、と、水樹と理人と陽希の声が重なった。

「先ずは、音階に該当する全ての花を探しましょう」

 理人の提案に、三人で目を見合わせて頷く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る